聖書  イザヤ書55章6~9節
マタイによる福音書28章1~10節
説教 「キリスト復活」 田口博之牧師

イースターおめでとうございます。年度最初の礼拝をイースター礼拝で始めることができることを感謝いたします。今朝はまた、先の第一次教会総会の長老選挙で当選された紀長老の任職式を行うことができました。名古屋教会で新長老が誕生するのは、実に5年ぶりのことです。わたしたちも期待していますが、ご自身も選ばれたことを光栄に思われているようです。今日の誓約を心に刻んで励んでいただきと思いますし、教会員もまた誓約しました。その務めを十分果たすことができるよう、祈ってお支えくださればと思っています。

さて、イエス・キリストの復活の出来事は、四つの福音書すべてに記されています。並行記事があるとき、わたしは一度に比較して読める『四福音書対観表』を用いていますが、それを読むと共通したこととがあれば、違いがあることが一目で分かります。共通したことを言えば、イエス様の復活が明らかになったのは、安息日が開けて週の初めの日の朝早い時間だったということ、イエス様の遺体を納めてあった墓の中が空であったということ、最初の目撃者が女性であったということです。

今日のテキストのマタイによる福音書では。28章1節ですけれども、「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」とあるように、墓を見にいったのは二人の女性となっています。ところがマルコでは三人、ルカでは四人以上、ヨハネは一人だけです。しかし、すべてにマグダラのマリアがいました。マグダラのマリアとは、イエス様によって七つの悪霊を追い出され、ガリラヤを伝道するイエス様と弟子たちを奉仕していた中心人物です。

マグダラのマリアら女性たちが、墓に行った理由として、イエス様が大急ぎで墓に納められたため、「香料」を塗る時間がなかっただと考えられています。事実、マルコとルカでは香料を持って墓に行ったという記述がありますが、マタイの場合、そのようなことは書かれてありません。墓は大きな石で塞がれており、見張りの番兵がいることも強調されていますので、墓に近づくことは容易ではなかいことが分かっていたからです。ではなぜ墓へ行ったのでしょう。あまりにも慌ただしく墓に納められ、すぐに安息日となってしまったので、きっちりしたお別れができていなかった。いても立ってもいられずに、墓の近くまで行ったのではないか。そう考えるのが自然のように思います。

ところが無教会の著名な旧約学者で、関根正雄という方がいますが、関根先生は、「復活を確かめるために来た」と言っています。その根拠としてイエス様の三度の受難予告を忘れてはいなかったからと断言するのです。三度の受難予告とは、マタイでは16章21節以下、17章22節以下、20章17節以下にありますが、十字架の受難ばかりでなく、「三日目に復活する」と記しています。受難の予告を聞いただけで、耳を塞いでしまった男の弟子たちと違って、彼女らは「三日目に復活する」という予告もちゃんと聞き取っていた。ですから、主を愛していたから、肉体を持った主に固執しておられたからという理由ではないのだと言うのです。

そんな二人ですが、墓の前に置かれた大きな石や、見張りの番兵の姿を見て、分かっていながらも途方に暮れたのではないでしょうか。ところが、大きな地震が起こりました。すると「主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」と書かれてあります。

主の天使が天から降って近づいて。石をわきへ転がしてその上に座ったという姿はユーモラスですが、見張りの番兵たちにとっては、恐れ極まりないことです。地震が起こったという記述もマタイによる福音書だけですが、マタイはイエス様が十字架で死なれたときにも地震が起こったことを告げています。

大きな地震が続けて起こることは、地震大国に生きるわたしたちは体験することですが、ここで起こった地震は、これが神の業であることを強調します。イエス様が十字架で死なれた時には、神殿の幕が裂けたことで神と人との通路が開けたこと、復活の時に墓が開いたことで、死から生への通路ができたことを示しています。

主の天使を見た番兵たちは、恐ろしさのあまり震えあがって死人のようになりましたが、これは婦人たちにとっても恐ろしいことでした。天使はまず「恐れることはない」と言い、「十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」と呼びかけて、墓が空であること、すなわちイエス様は復活なさったことを告げるのです。

墓がすでに空であったということは、墓の中で起き上がるイエス、墓から出てくるイエスを見た人は誰もいないということになります。マグダラのマリアも見ていません。だから、墓が空であったことはイエス様が復活されたことの証拠にはならない。むしろ、誰かが遺体を持ち去ったと考える方が自然だと思えます。

今日のテキストの前後を読んでみると、27章64節、これはユダヤの指導者たちのピラトへの言葉ですが、「三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません」と頼んでします。また、28章13節では、ユダヤの指導者らは兵士たちに、「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい」と多額の金を与えて頼んでいます。さらに15節には、「兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている」と書かれてあります。

ユダヤ教の指導者たいは、イエスの遺体は盗まれたということを後世への語り草にすることで、イエスが復活したことを隠そうとしたのです。これは、わたしたちにとっても分かりやすい話しです。死者は復活することはないという常識にとらわれる限り、「空の墓=盗まれた」とは、考えやすいことです。しかし、神の出来事を常識で考えられることに押しとどめてしまったら、復活の喜びも希望もありません。

イエス様がどのように墓から出たかは神秘に属することです。復活の日の午後、恐れに捕らわれた弟子たちが集まっているとき、部屋には鍵がかかっていたのに、いつの間にかイエス様は部屋の真ん中にいたという記述もあります。復活されたイエス様の手やわき腹には傷もありましたが、前と同じ体でよみがえられたわけではありません。エマオへの道を歩く二人の弟子も、一緒に歩いていたのがイエス様だとは分からなかったのです。ヨハネ福音書におけるマグダラのマリアも、墓を出てそこに立っているのがイエス様だったのに、イエス様の遺体を盗んだ園丁だと思ったのです。

けれども、マタイによる福音書における女性たちは天使の言葉を聞いて信じました。恐れながらも、大いなる喜びをもって、弟子たちに知らせるために走って行くと、「イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」とあります。彼女たちは、目の間に立ち「おはよう」と挨拶される方が、イエス様だと分ったのです。

この「おはよう」と訳された言葉は、喜ぶと言う意味の言葉で、そのまま訳せば「喜びなさい」となります。岩波の聖書も「喜びあれ」と訳しています。わたしは、復活の主の第一声が、「おはよう」では暢気すぎると思い、英訳の聖書もいくつか参照しました。good morningはありませんでした。rejoiceかgreetingsです。ということは、確かに喜びなさいですが、朝の挨拶だと考えると、「おはよう」は自然です。わたしたちも、朝一番の挨拶といえば、「おはようございます」でしょう。復活されたイエスさまは、日常の言葉で挨拶したのです。

その姿を見て、その声を聞いた彼女らも日常に戻りました。それで、近寄ってイエス様の足を抱いたのです。足を抱くことで幽霊ではないと確かめたということではありません。足を抱いたのは、彼女たちがひざまずいたからです。「その前にひれ伏した」とは、礼拝の姿勢です。彼女らは、生前イエス様が予告していたとおり、復活されたことを確信し、近寄って、イエス様の足を抱いたのです。確かにそれは、生前のイエス様と再会できた喜びに他ならないのであって、本当の意味で復活を理解したとはいえないかもしれません。それでも、彼女らは、イエス様の前にひれ伏したのです。これはまぎれもなく礼拝する姿勢です。そこには肉体の連続性だけではない新しさがあります。

イエス様は、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と言われました。ガリラヤは7節にも出てきました。7節では天使の言葉ですが、『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる』と、復活の主が先に行って、待ってくださっていることを伝える使命をマリアに与えたのです。

そして、10節のイエス様の言葉で注目すべきは、弟子たちのことを「わたしの兄弟」と言っていることです。自分のことを裏切り、逃げ去った弟子たちのことを、よみがえりの主は「兄弟」と呼んでくださっています。弟子たちを赦すばかりか、新しい関係へと招いておられるのです。わたしたちに対してもそうなのです。神のなさることは、わたしたち人間の理解をはるかに超えておられます。イザヤも次のように言いました。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道は、あなたたちの道と異なる、と主は言われる。
天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」

死者が復活する。人間の考えでは及びもつかないことを神はなされます。そして新しい関係へと招かれます。復活されたイエス様は、「恐れることはない」と言って、「ひれ伏した」女性たちを弟子たちのもとに遣わすという新しい使命を与えられました。すなわち礼拝が派遣の場になったということです。さらにマタイによる福音書は、復活の主が弟子たちを新しい使命のために派遣する言葉で終えています。28章18節以下です。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

このような大切な命令を託された弟子たちですが、イエス様は、彼らは信仰深いから、力があるから遣わそうとされるのではありません。彼らも17節でイエスの前に「イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」とあるように、信じきることのできない人を用いられるのです。礼拝とはそういう場です。疑い深く、恐れに捕らわれてしまうわたしたちを、復活の主は、新しい命へ、新しい歩みへと導いてくださるのです。