聖書  ヨブ記42章1~6節、 ヨハネによる福音書20章24~31節
説教  「我が主よ、我が神よ」田口博之牧師

イエス・キリストが復活された日、マグダラのマリアは墓を塞いだ大きな石が取りのけてあるのを見ました。ヨハネによる福音書によれば、マリアは墓の中に入ることをせず、ペトロとイエスが愛したもう一人の弟子のところへ走ってこのことを知らせに行きます。知らせを聞いた二人が墓まで走って行くと、墓の中は空で、亜麻布だけが置かれているのを見ました。すると20章8節以下ですが、「見て、信じた」とあります。このことを覚えておいてほしいと思います。しかし、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」とあります。イエス様の受難予告を絵空事としか聞いていなかったということです。「それから、この弟子たちは家に帰って行った」ということも、今日の説教を聴くうえで踏まえておいていただければと思います。

ヨハネによる福音書は、その後マグダラのマリアが復活されたイエス・キリストと出会い、弟子たちのところに行って、「わたしは主を見ました」と告げたこと。その日の夕方、イエス様が弟子たちに現われた出来事が記されています。そこでの弟子たちは恐れに支配されていました。「見て、信じた」ペトロと愛する弟子も同じです。これは「見て、信じた」というのでは、ほんとうの信仰ではないことを意味します。弟子たちはなお、イエス様を死に追いやったユダヤ人を恐れて、家の戸を閉め切っているのです。そんな弟子たちのもとを訪れたイエス様は、「あなたがたに平和があるように」と挨拶されました。弟子たちの恐れを取り払うかのように、「平和があるように」、すなわち「平和の挨拶」をされたのです。弟子たちはびっくりしたでしょう。それぞれに様々な感情が湧いてきたと思います。イエス様に顔向けできないと、隠れようとした人もいたと思いますが、ヨハネは、「弟子たちは主を見て喜んだ」と伝えています。

ところが弟子の中で一人、この喜びを味わえなかった人がいました。24節「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」とあります。何故かわかりませんが、トマスだけは一緒にいなかったのです。ほかの弟子たちは「わたしたちは主を見た」と言って喜んでいるのに、トマスは主を見ていません。出遅れた気分だったでしょう。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言うトマスの思いは、分かるような気がします。

喜んでいる皆の様子を見たトマスは、一人取り残されたような気持になったのではないでしょうか。わたしたちも、おいてきぼりにされるときがあります。出遅れてしまって、テンションが上がっている人たちの輪に、なかなか入って行くことができない。そんな経験をすることがあります。寂しかったトマスとしては、「おまえたちは浮かれているけど、ほんとうにちゃんと見たのか。指を釘跡に入れてみたのか、わき腹に手を入れてみたのか、ちゃんと確かめていないだろう。そんなこともしていのに、喜んでいられるのか。ほんとうに信じるといえるのか、幻を見ただけではないか」そういう思いではなかったでしょうか。

それにしても、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」という言葉は印象的です。このトマスの反応は、「疑い惑う トマスにも」という讃美歌の歌詞にもなりました。この讃美歌の影響は大きく、わたしたちもトマスといえば、疑い深い人の代表のようにとらえているところがあります。

ここに「ディディモと呼ばれるトマス」と書かれてありますが、わたしは最初、ディディモという言葉は、疑い深いという意味なのだと思っていましたが、双子という意味なのです。実はトマスも、双子という意味があるのです。ディディモというギリシアを添えることで、双子であることを強調しているように思えます。

では、双子のかたわれはどこにいるのでしょう。聖書にディディモと呼ばれていない方のトマスは登場しません。双子ですから似ていると思います。わたしたちも、トマスのような疑い深さを持っています。トマスがそうであるように、見ないと信じることのできないのがわたしたちです。そういう意味からすれば、トマスはわたしたちを代表する疑い深い人として登場しているのです。でも一方で思うことは、トマスはそんなに疑い深い人だったのかということです。トマスについて、他の福音書では12弟子の名を紹介するリストでしか登場していません。ところが、ヨハネによる福音書において、トマスが出てくるのは三度目です。しかも、これまでも重要な場面に出てきました。

最初はラザロが死んだ時のこと、11章16節ですけれども、トマスは仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と呼びかけています。とても勇敢と言うか、向こう見ずな言葉です。実際にイエス様がラザロを生き返らせた後で、イエス殺害計画が公然と語り始められます。ラザロの復活は、ヨハネ福音書において受難の出発点となりました。トマスは疑い深いどころか、先を読める人でした。

二度目は14章5節です。十字架にかけられる前夜の告別説教のさなか、イエス様が「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言われたとき、トマス一人、「主よ、どこに行かれるのか、わたしたちに分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と尋ねています。他の弟子たちも誰も分からなかったのですが、トマスだけは知ったかぶりしないで、正直に聞いたのです。その時にイエス様が言われた言葉が、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとへ行くことができない」でした。イエス様のこの言葉を、トマスが導いたと言ってもいいのです。ですから、トマスは疑い深い人というよりも、正直な人だとはいえないでしょうか。いろんな面を持っているのです。

それから1週間が経ちました。26節、「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた」とあります。八日の後とは、イエス様が復活されて八日目のことですから、最初のイースターの1週間後の日曜日のことであり、わたしたちでいえば今日の礼拝です。この日も同じように弟子たちは集まっていました。これは教会の礼拝の始まりともいえます。ヨハネによる福音書では、22節の時点でイエス様は、弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われています。すなわち、イースターとペンテコステは同時に起こっているのです。でもトマスはまだ聖霊を受けていませんでした。他の弟子たちも、1週間経ってなお、部屋の戸には鍵がかけてありましたので、誰でも来てよい礼拝ではありませんでした。主を見て喜んだ弟子たちでしたが、喜びよりも恐れにとらわれていたのです。

するとここでも、イエス様は入って来られ、部屋の真ん中に立たれて「あなたがたに平和があるように」と言われた後で、トマスの方を向いて、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。「御傷示して、信ぜよと」いう歌詞のとおり。イエス様は、「わたしは決して信じない」というトマスの言葉を聞いて、トマスのために来て語ってくださったようです。

でも礼拝というのはそういうものではないでしょうか。礼拝が済んで、「今日の説教は、わたしに向かって語られているようだ」と言われる方がいます。何もその人にあてつけて語っているわけではありませんが、そう言われるのです。それは誰もがトマスだからです。トマスに焦点が当てられていますが、御言葉は一人一人に語りかけられています。ここにいた他の弟子たちも、同じことを感じたのではないでしょうか。わたしたちは、ディディモのトマス、双子のもう一人として御言葉を聞くのです。礼拝は、イエス様が出会ってくださる場です。

ここでトマスは、「わたしの手を見なさい」、「あなたの手を伸ばしてわき腹に入れなさい」と言われました。この場面を描く絵画を見ると、イエス様がトマスの腕をつかんで、人差し指をわき腹に導いているものが多いです。でも、聖書にはそのようなことは書かれていません。書かれてないということは、トマスとすれば、敢えて触れる必要はなかったのではないでしょうか。大事なことは、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われたトマスが、「わたしの主、わたしの神よ」と答えたことです。

竹森満佐一という方がいます。吉祥寺教会牧師を50年以上務め、東京神学大学の学長をされた方です。竹森先生の説教集に「わが主よ、わが神よ」という上下巻本があります。その下巻本の最後の説教が、今日のテキストです。竹森先生は、説教題を付けない方でしたが、この言葉を重んじて本のタイトルとしたのです。その説教の中で、竹森先生は「一番疑い深い、一番弱かったトマスが口にしました信仰の告白が、それからのち、二千年の間、代々の教会のほんとうの信仰の告白になったのです。われわれは、神の驚くべき奇跡をここに見る思いがするのであります。ペトロが言ったことや、パウロが言ったことではないのです」と語っています。

トマスは、目の前に立つイエス様を「わたしの主」と呼び、「わたしの主」こそが、「わたしの神」ですと呼んだのです。これはユダヤ教の信仰においては考えられないことです。それは、イエス様、あなたこそがわたしの主(ヤハウェ)であり、天地を造られた唯一の神なのです、そう告白したということになるからです。しかも「わたしの主、わたしの神よ」です。他の人がどう言おうが、どう信じようが、また、どう思われようが、そんなことは関係ない。わたしにとって、あなたは、我が主、我が神なのですと。

このトマスの口から出た「わたしの主、わたしの神」という言葉が、教会の信仰告白の代表的な言葉となりました。30節以下で、ヨハネはこの福音書を書いた目的を記していますが、31節に「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」と書いて、本書を結んでいます。それは、福音書を読んだ人たちが、トマスのように「わたしの主、わたしの神よ」との信仰告白に導くためだったと言ってよいのです。

ボンヘッファーという神学者がいます。昨年映画にもなりましたが、ナチに抵抗し、ヒットラー暗殺計画を立て、最後には死刑となった人です。ボンヘッファーは、この箇所からの説教でこういうことを語っています。「トマスは、イエスにふれようとしなかった、トマスは、もはや自分の手も、自分の目も信じなかったからである、ただ、主イエス・キリストだけを信じたからだ。それは、トマスは、自分の目のたしかさや、自分の手のたしかさを信じることよりも、イエス・キリストを信じることの方が、どれだけ確かか、ということを知ったのだ」と。わたしはここを読んで、ボンヘッファーはここに立っていたことを知ることができました。自分の目で見たり、触ったりすることよりも、よみがえりのイエス・キリストを信じることに確かさを見出しているのです。そう思わなければ語れない言葉です。

思いもよらない苦難や悲しみを経験するときに、今まで確かだと思っていたことが、実はそうではなかったことに気づくことがあります。自分は健康だと思っていたけれど、そうではなかったことを知る。この人は頼りだと思っていた人が、何の助けにもなってくれなかったことを知るときがあるのです。でも、そういう時にこそ、信仰者の強みが出ます。十字架に死なれ三日目に復活された主は、わたしたちが経験し得る最悪の惨めさ、最大の苦難を経験されたなかりでなく、死んでよみがえられたからです。わたしたちを絶望の淵に落とす死さえも滅ぼしてくださったのです。このキリストに勝って確かなものは、この世にはありません。

トマスは投げやりとも思える言葉を放っていましたが、ほんとうはイエス様に会いたい、イエス様を信じたい。そんな思いがあふれていたのではないでしょうか。そんな願いを持っているトマスの双子であるわたしたちに、イエス様は出会ってくださいます。そして、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と、今ここで呼び呼びかけて下さっています。

それでも、わたしたちとトマスは違うと思うかもしれません。トマスは見たから信じることができたけれども、わたしたちは見ることができないのだからと。でも、そんなわたしたちのために、イエス様はトマスを通して語りかけてくださるのです。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」この「見ないのに信じる人は、幸いである」というイエス様の言葉は、わたしたちに向けての祝福の言葉だとはいえないでしょうか。わたしたちは、トマスのようにイエス様を見ることができない、以前は信じることができなかったのに、信じる人とされているのですから。

ペテロも同じことを言いました。ペトロの手紙一1章8節(428p)です。ペトロは、当時の教会に生きる人たちを見て、驚きをもって語っているこう語っています。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜び満ちあふれている」。ペトロは、イエス様を見ているのに何度も失敗しました。でも、この人たちはキリストを見たことがないのに、こんなにもひたむきに礼拝している。何と素晴らしいことだろうか、と。

教会の交わりは、目には見えない神によって結び合わされた交わりです。永遠に存続する目に見えない神が、地上において教会という目に見える姿をとって、教会に集う人たちの信仰が育まれることを御心とされたのです。わたしたちは、目に見える教会のなかで、目に見ることはできない神の慰めを経験します。今も、神は目には見えないけれど、聖霊なる神として、わたしたちと共にいてくださるからです。

2,026年度が始まりました。今年度は「神の国に向かう教会」という年度標語を定めています。わたしたちは、目に見えないけれども、「昔いまし、今いまし、とわにいます主」が共にいてくださっています。礼拝のたびに主と出会うことができます。復活の主をほめたたえつつ、終わりの日、神の国の完成に向かって、望みをもって歩んでいくのです。