わたしたちの教会は、愛知県庁や名古屋市役所にほど近い、大津橋交差点南西角に位置しています。教会が設立してから今日に至るまで、この地において、イエス・キリストの福音を宣べ伝えてきました。
わたしたちの教会は、創立100年(1984)に定めた植村正久三精神「キリストへの忠誠、伝道の自主独立、社会における木鐸」を教会の原点とし、その「今日的展開」として、「生けるキリスト信仰、開かれた教会、小さき者と共に」を掲げて、時代の要請とその状況に向き合いつつ歩んできました。名古屋教会幼稚園をはじめ、名古屋教会学童はこぶね、社会福祉法人さふらん会を生み出してきました。
教会の沿革
名古屋教会の歴史は、1878年(明治11年)12月8日、現在の名古屋市緑区に位置する有松村で、アメリカ・オランダ改革派教会の支援によって、植村正久、山本秀煌(ひでてる)が伝道を開始したことを起点としています。その後1884年(明治17年)5月3日に、28人の会員で日本基督一致教会名古屋教会を設立しました。初代牧師は阪野嘉一。1892年(明治25年)にカンバーランド長老教会所属の愛知教会と合併、1894年(明治27年)に南外堀町70番戸(当時)に第1会堂を建設します。
1903年(明治36年)に就任した第6代牧師、吉川逸之助は37年間在職し、教会は大きく伸長しました。1936年(昭和11年)に第2会堂を建築しました。
1941年、第7代牧師、赤石義明が着任。日本基督教団の創立に伴い、現在の日本基督教団 名古屋教会となりました。1945年(昭和20年)3月の名古屋空襲により会堂は焼失し、礼拝はYMCA南山学生寮で行われました。敗戦後、清水教会と合同。1948年(昭和23年)第3会堂を建築、1949年に名古屋教会幼稚園を設立します。1959年(昭和34年)には、鉄筋コンクリート造、現在の第4会堂が建築されました。1960年代に、春日井伝道所(現春日井教会)と名古屋堀川伝道所が分離独立します。1963年5月、第8代牧師として、戸田伊助が着任。戸田牧師は教団問題を担われ、1973年から78年まで日本基督教団総会議長の役職を担われました。
2002年4月に第9代早乙女哲自牧師が着任、会堂はIs値0.6を確保する耐震補強を行いました。2016年に第10代田口博之牧師が着任しました。
牧師紹介
牧師 田口 博之
皆さん、こんにちは。名古屋教会牧師の田口博之です。1960年に名古屋の中心部である伏見に生まれ、中学2年の途中までは名古屋で過ごしました。その後、四国の松山に転校、高校1年の夏に教会へと導かれます。高2のイースターに日本基督教団三津教会で洗礼を受けました。
日本福祉大学に入学したことで、再び名古屋に来ます。社会福祉学部で学びましたが、専攻は教育に関わるゼミでした。友人のほとんどは、教育と福祉の分野で活躍していますが、わたしは広島で企業に就職しました。その後、松山で父親が社長をしていた会社に入り、経営の一端を担うことになりましたが、バブル崩壊の荒波に飲まれ会社は倒産します。幼い子どもが3人いましたが、明日をどう生きればよいのか全く先が見えず、闇の中をさ迷いました。そんなわたしを支えたのは聖書の言葉でした。
その後、関連の会社で仕事を続けることになりましたが、神様に呼ばれているという経験を何度もしました。「牧師になる?」そんな幻も抱き始めましたが、ようやく生活が整い始めたところです。妻には口が裂けても相談することはできません。ところが、日本基督教団にはCコースといって、神学校に進むことができない人でも、牧師になる道が開かれていることを知りました。会社勤めをしながら勉強して日本基督教団の補教師検定試験に合格、1995年4月の四国教区総会で伝道の准允を受けました。
その後、家族がいる名古屋に生活の基盤を移し、週日は働きながら日曜日には金城教会の伝道主事として奉仕しました。1998年に金城教会の伝道師として仕えた後、1999年より名古屋桜山教会牧師、あわせて日進教会を兼務します。この間に、CBCラジオ放送「キリストへの時間」の運営に携わりました。2016年に名古屋教会からの招聘を受け、現在に至っています。
名古屋教会の牧師として働くとともに、社会福祉法人さふらん会理事長、学校法人名古屋学院理事、学校法人金城学院理事、日本基督教団常議員、日本基督教団中部教区常置委員、愛知老人コミュニティーセンター「シルバーホームまきば」監事として奉仕しています。神様は明日生きてゆくことの望みさえ失った者を見捨てることなく、用いてくださるお方です。皆さんと出会えることを楽しみにしています。よろしくお願いします。