詩編24編1~2節  マルコによる福音書12章13~17節

「信仰と現実とのはざまで」 田口 博之 牧師

今日はイエス様がエルサレムに入城されたことを記念する棕櫚の日の礼拝です。礼拝招詞でゼカリヤ書9章9節と10節を聞きました。

娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。
わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。
戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。
彼の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ。

このゼカリヤ書の言葉は、イエス様のエルサレム入城の預言として知られています。マルコによる福音書では、先週のエリコでの盲人バルティマイの物語に続いて、エルサレム入城の記事が出てきます。王であれば当たり前のように軍馬に乗って城に入ります。日本の時代劇のお殿様もそうしょう。しかしイエス様は争いを好まない柔和なお方としてエルサレムに入られました。それはまさにゼカリヤ書9章10節にあるように、エフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和を告げるためです。神の国の支配を海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶためです。今の政治の指導者が聞くべき言葉です。

ろばの子に乗って入城したイエス様に対し、人々はホサナと賛美します。しかしイエス様は、十字架の苦難の道を歩むことになります。でもそれは強いられてではなく、自らその道を選び取られたのです。わたしたちの救いのため、地上に平和をもたらすために。そのきっかけとなったのが、マルコによる福音書11章15節以下の宮清めの出来事であり、27節以下から「祭司長、律法学者、長老たち」といったユダヤの指導者たちの論争が始まります。彼らはイエス様のことが気に入らないのです。何とかしてイエスを排除しようとしています。しかも合法的に。今日のテキストもその一環です。

12章13節は「さて、人々は」で始まっていますが、この「人々」とは、ユダヤの最高議会を構成する指導者である「祭司長、律法学者、長老たち」のことです。彼らは、自分たちで直接手を下すのではなく、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わします。その目的は、イエスの言葉じりをとらえて陥れるためです。

このファリサイ派とヘロデ派という二つのグループは、本来は相容れません。ファリサイ派は現実に妥協せず、自分たちだけは律法を遵守することで信仰の純潔を守ろうとしたので、ローマの支配を忌み嫌っていました。対してヘロデ派の人々は、その名の通りヘロデを指示する人々です。ヘロデはユダヤ人ではなく、ローマを後ろ盾にして権力についた人です。ですからヘロデ派といえばローマに支配されている現実を受け止めていた人たちなので、両者は本来、対立していたのです。でも、この二つのグループの人々が、イエスを陥れるという共通の目的のために手を組みました。先の衆院選で立憲民主と公明が野合したことに似ています。

ところが彼らは、イエス様の信奉者を装うように近づいてきて言うのです。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」

わたしたちも税の問題には敏感です。税を納めるという言い方をしていますが、税を取られるという意識を持ってしています。公務員は税金で食べているのだろうと、揶揄されてしまうこともあります。先の衆院選でも消費税が争点となりましたが、連立政権は食料品の消費税は0%にすると公約しました。わたしはそんなことをすると、ややこしいことになるのではと思っていますが、国民会議で議論することになっています。税金の問題は、わたしたちの生活に直結していますが、ユダヤ人は尚更そうでした。

ユダヤの歴史家ヨセフスの著述に、「ローマに税を払うことは神に対する反逆だと宣言した」という一文があります。当時ユダヤはローマの支配に置かれていましたので、税金はローマに納められました。祭司長、律法学者、長老たちのみならず、ユダヤ人であるならばローマ皇帝に税金を払いたいと思う人は誰もいません。ですから、ローマのための税を徴収する徴税人は、売国奴として皆から罪人だと見なされ、嫌われていました。そういう中で、彼らは「皇帝に税金を納める」ことの是非を問うたのです。

この時イエス様が、皇帝に税金を納めることを肯定したならば、民衆の多くは、イエスはローマからの解放者だと期待していたのにと、失望することは間違いありません。逆にイエス様が、税金を納めることを否定したとすれば、それこそ彼らの思う壺です。自分たちの手を汚すことなく、ローマへの反逆罪として、そのまま訴えることができたのです。その意味でも「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」という問いは、実に巧妙なものでした。

ところがイエス様は、彼らの問いが信仰的なものではないことを見抜いていました。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい」と言います。彼らがそれを持って来ると、イエス様は「これは、だれの肖像と銘か」と言われました。当時のデナリオン銀貨には、時の皇帝ティベリウスの肖像と「神とされた、尊厳なるティベリウス・アウグストゥス」という銘が刻んであったようです。また、裏にはティベリウスの母が神々の王座に就く姿が像と、母なる神とする銘が刻まれていたと言われています。

ユダヤ人にとって、ローマの皇帝を神とする刻印のあるデナリオン銀貨は、触れることさえ嫌だった筈です。とは言っても、1日の労働の対価であるデナリオン銀貨は、誰もが持っていました。持っていないと生活できないからです。「デナリオン銀貨を見せなさい」という言葉には、「あなたも持っているでしょう。そのお金を使って生きているでしょう」という意味が込められています。

彼らは銀貨を財布から出しました。「これは、だれの肖像と銘か」と問われれば、「皇帝のものです」と答えるしかありません。だったら皇帝に返したらよいではないか、とイエス差は言われるのです。このやり取りの中で、彼らは自己矛盾に陥ると共にローマの支配の中で生きているという「現実」を突きつけられることになりました。

さらにイエス様は、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われます。何もイエス様は、信仰生活と日々の生活とを住み分けをするように勧めているのではありません。また、現実は現実と受けとめ、信仰も妥協することが必要だと、言われたのでもありません。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とは、わたしたちがどこに拠って立って生きていくか、生活の指針を与える言葉です。

詩編24編はダビデの詩となっています。ダビデは、「地とそこに満ちるもの 世界とそこに住むものは、主のもの。主は、大海の上に地の基を置き 潮の流れの上に世界を築かれた。」と歌いました。ダビデは王でありながら、天と地にあるすべては神のものであり、自分自身も神が創造された世界に生かされている小さな存在にすぎないことを自覚しています。

今日の説教題としたように、わたしたちは「信仰と現実とのはざま」で生きています。だとしても、すべてが神のものであるとダビデが言ったように、わたしたちも神のものだということを忘れてはなりません。イエス様は、デナリオン銀貨に皇帝の肖像と銘が刻まれているのを見せることで、否応なくこの世の権力に伏して生きねばならないという現実を認めさせました。でも、それがすべてではなく、「神のものは神に」という言葉で、もっと大事なことを思い起こさせようとしたのです。それは、人間は何に属しているのかということです。

創世記は1章27節には、「神はご自分にかたどって人を創造された」と記されています。イエス様は、この御言葉を念頭に入れて語ったはずです。すなわち、「銀貨には皇帝の像が刻まれているから、それは皇帝に返せばよい。しかし、あなたには、あなたの存在そのものには、神の像が刻印されている。あなたは神のものとされているのだから、あなたという存在を神にお返しすればよい」そういうことを伝えたかったのです。

子どもや孫が生まれたときに、この子はパパ似だとか、ママ似だとか、いやいやどっちの家のおじいちゃんに似ているなど、大人は子どもの思いはそっちのけで、勝手なことを言っています。その言葉に逆らうかのように、成長するにつれて子どもの顔つきは変わってきます。父親似だと思っていたのに、いつの間にか母親に似てくることもあります。大人になると、どっちに似ていると言われて喜ぶ人はいません。でも大事なことは、わたしたちは神にかたどり、神に似せて造られたということです。

イエス様は、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われましたが、何も二者択一に皇帝か神様かを選ばせているのではないのです。皇帝には確かに権威がありますが、それは神が認めておられる範囲での権威に過ぎません。今の政治の指導者も同じです。自分が神のようにふるまうなどとんでもないことです。どれほどの権力を手にしたとして神にはなれません。ダビデもそのことを認め、「すべては主のもの」と告白したのです。この地上におけるいかなる権力、皇帝の支配も、首相の支配も、大横領の支配も、すべては神の支配のもとにあるのです。

ローマの信徒への手紙13章1節の「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」という言葉も、そこから理解せねばなりません。上に立つものがこのことを忘れて、すべてを自分の力で決めることができると考えてしまうと、とんでもないことになります。

イエス様を陥れようとした彼らは、「イエスの答えに驚き入った」と書かれてあります。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。イエス様は、知恵に満ちた言葉で、敵対者のたくらみを一掃しましが、感心すべきはそこではありません。イエス様は、一本取るためにそのようにと言われたのではなく、気づいて欲しかったのです。自分は神のものであることを。

わたしたちは日常生活の中で。こうすべきだと思っていながらも、簡単には言い出せないと思うことがあると思います。神を信じているのだから、こうすべきだと分かっている。でも現実にはそのようにできなくて苦しむことがあります。人の顔色を伺ったり、さまざまな力関係を考えたりしているうちに、良心に従えないということがあるのです。特に現代は、良心従って行動する人に対して厳しい時代となっています。権力に逆らえば左寄りと言われる。教会のあり方も問われています。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。この言葉は、今わたしたちに向けられている言葉して読むことが大事です。信仰と現実のどちらを選ぶかで悩むということではなく、それぞれを正しく位置づける必要があるということです。

わたしたちにとって、「皇帝のものは皇帝に」という言葉は、納税もそうですが、社会の中で責任をもって生活せよということです。でもそこに留まるのではなく、すべては神のものなのだから、「神のものは神に返す」生き方をしていくということです。週の初めに、神の前に進み出て礼拝するということもそうです。神に似せて造られたわたしたちには、神の像が刻まれています。そして今日も神の言葉が彫り込まれています。わたしたちは神のものとされているからこそ、自分のものも神にお返しすることができるのです。この命も、この体も、仕事も、お金も、家族もすべて神様からお預かりしたものです。礼拝は「神のものは神にお返しする」という心をもって御前に出るときです。礼拝を出発点として、主の御前に責任をもった生き方ができるようになるとき、神が創造されたこの世にあって責任ある生き方ができるようになります。それなくして、どうすれば主を証する生き方ができるでしょうか。

最近、説教塾から出た説教集を読んでいると、ある牧師がこんなことを書いていました。「しばらく前のことですが、ご夫君を亡くされた姉妹が訪ねて来られました。ご夫君の残された蓄えが、思いのほかに高額で、そのふさわしい用い方を一緒に考えていただきたい。そして、『私が神様に捧げものをする時に、傲慢にならないように祈ってください』と言うのです。多額の捧げものをするときに、自分の信仰を鼻にかけることがないように祈ってほしい。なんという尊い願いをいただいたことかと、深く感謝しながら、こうお伝えしました。わたしたちは神様のものとされているから。神様に捧げものができるのです。そのことがわかっていれば、傲慢になることはありません」と。なるほどと思いました。自分が持っているものから出すと思うと、そこで高慢な心が芽生えてきます。

このテキストは、受難週の出来事の中におかれていますが、わたしたちも受難週の歩みを始めています。イエス様は、ご自分を陥れようとする者に対しても、いい加減な気持ちでなくしっかりと向き合い、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」という尊い御言葉を心に刻んでくださいました。わたしたちはこの世の動きに対して、何も言わずにいるときも、信仰者としての良心を持って発言したり行動したりすることがあります。そのときに、こういう考えを持つ自分は何者なのかを問い。神の像を刻まれた者としてふさわしく歩んでいきたい。十字架に向かわれた主の御心を問いつつ、受難週からイースターへの歩みを進めていきたいと思います。