マタイによる福音書6章25~34節
「神の国に向かう共同体」田口博之牧師

毎年、第二次総会を行う日の礼拝では、年度標語と年度聖句に沿った説教をしています。2026年度は、「神の国に向かう共同体」という年度標語を掲げ、聖句として、マタイによる福音書6章33節の「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」を選びました。

これは長老会で協議し、第一次総会に提案して承認されたものですが、もともと長老会に提案したのは牧師です。つまり、この標語と聖句には、牧師としての思いが込められているわけですので、今日はまずその思いをお話したいと思います。

主には三つの理由があります。第一の理由は、それは牧師個人の思いではないかと言われそうですが、イエス様のたとえ話を主題とした説教に、改めて取り組んでみたいと思ったことです。もちろん、たとえ話の説教はこれまでもしてきたことですが、そのたびに感じさせられることは、イエス様のたとえ話は独特であり、とても深いということです。そして、「その多くが「神の国」は何かを語っているのです

一般にたとえ話というのは、ある事柄を分かりやすく伝えるために、他の身近な事柄に置き換えて話すことを言います。ですから、たとえによって、かえって分かりにくくなってしまったり、別の方向に想像を広げさせてしまうものであるならば、それは良いたとえとは言えないでしょう。ところが、イエス様のたとえ話はどうもそれとは異なるのです。

一例を挙げれば、「種を蒔く人のたとえ」があります。マルコによる福音書では4章に記されていますが、四つの種が違うところ、道端、石地、茨の中、良い土地に落ちて、良い土地に落ちたものは、30倍、60倍、100倍もの実を結ぶというものです。この情景自体は、イメージしやすいですし、決して分かりにくいものでもありません。ところがイエス様は、この種が何を意味するのかは言わないのです。弟子たちも理解できないので、その意味を尋ねます。

するとイエス様はこう言われます。
「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、
『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、
こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである」

これを読んだときに、自分は外の人であって、赦されることがないのかと、どきりとさせられます。しかしその後で、たとえの意味について、「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」と神の国の秘密を打ち明けてくれているので、わたしたちはほっとします。けれども、イエス様はいつもこのようにたとえの説明をしてくださるわけではありません。

では、そのとき何が求められるのか。その役割を担うのが、牧師の説教かなと思うのですが、おそらく説教は、たとえの意味を説明することではありません。むしろ牧師の説教というのは、説明するというよりも、イエス様の語られる言葉に、共に耳を傾けることではないかと思うのです。皆さんと一緒にイエス様にお聞きする中で、神の国の秘密が少しでも開かれていくならば、これはとても豊かで、喜びの出来事になるかもしれない。そのような期待が第一の理由です。

二つ目の理由は、イエス様の福音宣教の中心が「神の国」にあることです。これはマルコによる福音書1章15節において、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というイエス様の宣教の第一声からも明らかです。また、ルカによる福音書では4章43節において、「はかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」と言って、ご自身の使命を明確にされています。

「神の国」はこれほど重要な主題でありながら、十字架と復活を語るほどには、十分に語ってこなかったのではないか、という思いがあるのです。これは、わたしがということとともに、日本の教会はあまり語って来なかったのではないか、そういう思いを抱くようになってきました。

もちろん、十字架と復活は、神の国の福音の中心であり頂点であるといえます。しかしそれでもなお、「神の国」という言葉そのものに、もっと光を当てる必要があるのではないかと思わされています。イエス様は、「神の国は近づいた」と言われ、「神の国はあなたがたの間にある」と言われ、さらに「神の国を求めなさい」と言われました。この「神の国」とは何かを、改めて探っていきたいという思いが強くなってきたのです。

わたしも今日で66歳になりました。あとどれだけ牧師としての務めが許されるのかわかりません。しかし、務めが与えられている間に、やってみたい、また、やるべきと示されたことを放置したままにしていてはだめだ、そんな思いになっています。

そして第三の理由が、牧師個人の思いにとどまらず、名古屋教会がこれからどこへ向かって歩んでいくのか、そのことを考えるなかで、神様から示された主題が、「神の国に向かう共同体」でした。

今年度は特に、8年後に迎える教会創立150周年に向かって、教会の将来計画について考え始める年と位置付けられています。1月の全体集会では「名古屋教会の将来像」をテーマとして、信仰面、施設面、会計面からの発題と話し合いがなされました。

わたしは信仰面を担当しましたが、実は全体集会の時点ではまだ明確とはいえませんでした。そこで、それを探るためにも、さっそく2月から日本基督教団信仰告白を主題とした説教を始めることにしました。その第1回の説教をこういう言葉で結びました。

「イスラエルの民は、一つの旗のもとに集められて約束の地に入ることができました。わたしたちもまた、確かなる信仰の告白をたずさえて、神の国へ向かう旅を続けてゆくのです。」この言葉は、教会の将来を思い巡らす中で、説教しながら与えられた言葉でした。その流れの中で、水曜の聖書研究でも、これまで創世記と出エジプト記に続いて、レビ記、民数記、申命記を読み進めることにしました。そのことをとおして、約束の地を目指す歩みを始めたいと思ったのです。

このようにして、一つ目の、イエス様のたとえ話を通して神の国を聴きたい、二つ目の、イエス様の宣教の中心である神の国の福音にそのものを掘り下げたい、そして三つ目の、教会が将来どこに向かって歩んでいくのか見据える必要がある。この三つが重なりあって「神の国に向かう共同体」という年度標語が示されたわけです。おそらく、この主題については、しばらく続くのではないかと思っています。

その意味で、マタイによる福音書6章33節を年度聖句としましたが、この聖句でなければという思いがあったわけではありまでん。むしろ聖書全体を通して、「神の国に向かう共同体」という信仰が養われたいと願っています。それでも、「神の国に向かう共同体」という主題を考える上で、もっともふさわしいと示されたのが、今日のテキスト、マタイによる福音書6章25〜34節でした。

一読して気付かされることは、イエス様が「思い悩むな」と繰り返し語られていることです。わたしたちは、さまざまな不安の中に生きています。生活のこと、健康のこと、仕事のこと、将来のこと、家族のこと、教会のこと。思い悩むことなく生きている人など、一人もいません。そのようなわたしたちに対して、イエス様は「思い悩むな」と繰り返し命じられるのです。

25節「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」、27節「思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」 28節「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。」31節「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」そして34節「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

さまざまなことで思い悩んでいるわたしたちを見て、イエス様は言われるのです。「空の鳥をよく見なさい。野の花を注意して見なさい」と。空の鳥も野の花も、何も蓄えることもなく、将来の計画を立てることもありません。それでも生かされているだろうと。それは、神が養い、装ってくださるからです。

なにもイエス様は、「鳥や花のように生きなさい」と言われているのではありません。そうではなく、神に似せて造られたあなたがたは、どんな鳥や花以上に価値ある存在ではないか、神は、そのようにしてあなたがたを見ていてくださることを知れば、「思い悩み」に支配されることはないのではないかと。

名古屋教会も、人の減少、財政問題、将来への見通しなど、さまざまな課題や不安を抱えています。目に見えて状況が厳しくなったとき、わたしたちは「どうすれば維持できるか」を考えます。けれども主は、そこに踏みとどまるための方策に思い悩むのではなく、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われます。これは守りの発想ではなく、教会の歩むべき方向を定める言葉です。「そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな」と。

ここで言われる「神の国」は、この世の国のように、場所ではありません「国」と訳されたギリシア語の「バシレイア」は、「神の支配」、「神の統治」という意味します。すなわち、神の御心が現実となること、それが神の国で。それは、来世という意味での神の国、すなわち天国への希望にとどまるのではなく、すでにイエス・キリストにおいて始められ、イエス・キリストが再び来られる日、終わりの日の完成へと向かう現実です。

この世において、神の国は教会において実現しています。しかしまだ完成ではありません。神学的にいえば、「すでに」と「いまだ」の間を生きています。礼拝、とりわけ聖餐式において、わたしたちは神の国の食卓に与ります、しかしまだ前菜を味わっているにすぎません。教会の交わりも完全ではありませんから、どうすれば神が喜ばれるのかを祈り求める必要がります。「神の国を求める」とはそういうことです。

イエス様はさらに「神の義を求めなさい」と言われます。「神の義」の「義」とは「正しい」ということですが、神から見て「正しい」とされる状態であって、言いかえれば「救われている」状態です。すなわち、人間の努力によって得ることができる正しさではなく、神との関係が正しくされることです。パウロが語るように、律法によっては罪の自覚しか生じない、求めるべきは、信仰によって与えられる義です。神ご自身が、罪ある人間を正しい関係へと回復してくださることです。

ですから、「神の国に向かう共同体」と言っても、それはわたしたち教会が、自分の力で到達するものではありません。むしろ、神の国は向こう側からやって来るのです。だからこそ「御国を来たらせたまえ」と祈るのです。

そのときに大切なことは、わたしたちがどこを見ているかです。神の国が向かう側からやってくると言っても、その向こう側を見失っているとすれば、やってきても気づくことはありません。あわてふためくだけです。だからこそ、目指すべき「神の国」を信仰のまなざしをもって、目を覚まして、しっかりと見つめ続けることが求められます。

イエス様は、最後にこう言われます。「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」これは、「先のことまで考えてなくてもいい」という意味ではありません。もしそうであれば、教会の将来計画も考えなくてよいという話になってしまうでしょう。どれだけ思ってもいい、でも「思い悩むな」というのです。

神の国と神の義を求めて生きるとき、思い悩みに支配されることから解放されます。「明日のことを思い悩むな」とは、「今日という日を、すべてを備えてくださる神、良いものを与えてくださる神に信頼して生きよ」という招きです。

わたしたちは、先の見えない世界に生きています。その中にあって、今日の総会は報告総会ですけれども、名古屋教会は、他教会から見ればうらやましがられるような報告ができていると思います。それだけ多くの賜物が与えられていることに感謝しなければなりません。与えられているからこそ、「受けるよりも与える方が幸いであある」という御言葉に生きる教会でありたいと思います。神のために、また地域のために、今以上に仕える教会となる必要があると思います。そのことを通して、教会は今以上の祝福を受けることができます。

わたし自身が運営の責任を持っているところでは、さふらんは「高齢化対策」が喫緊の課題となっていますし、関係している学校は、「少子化問題」で、生き残りをかけて方策を練っています。でも、課題と向き合う時に、思い悩みにとらわれてしまったら、視野を狭めてしまいます。えれども、「神の国と神の義を求める」とき、新しく大胆な方向性が拓けてきます。

教会は何によって結ばれているのでしょうか。神様によって結ばれていることは間違いありませんが、そこで、足りないもの、失われるかもしれないものに心が奪われてしまいならば、思い悩みは増し、教会共同体は揺らぎます。しかし、「神の国と神の義を求める」という一点において結ばれるとき、神が備えておられるという信頼の中で、互いに支え合って生きることができます。

名古屋教会が、創立150周年に向かって、「神の国に向かう共同体」として整えられていくことを願います。思い悩みではなく、信頼によって結ばれた群れとして歩んでまいりましょう。主は、必要なものをすべてご存じであり、必ず備えてくださるお方なのですから。