聖書 詩編146編5~10節 マルコによる福音書10章46~52節
説教題「何をして欲しいのか」  田口 博之 牧師

レントの歩みを続けています。レントの歩みとは、十字架に向かわれる主の足跡を辿る歩みでもあります。来週は棕櫚の日の礼拝となり、イエス様がエルサレムに入城したことを記念する日となりますが、マルコによる福音書では11章1節がエルサレム入城の記事にあたり、ここから受難物語へと入っていきます。

今日は受難週に先立って、マルコによる福音書10章46節以下「盲人バルティマイをいやす」という小見出しがつけられた箇所を選ばせていただきました。この物語は、イエス様の復活を除けば、マルコによる福音書の最後の奇跡物語ということができます。ただわたしは、これは確かに奇跡物語ではあるのですが、文脈からすれば受難物語のプロローグであり、広い意味で言えば受難物語に含まれるといってよいだろうと思います。

広い意味でと言ったのは、マルコによる福音書では、8章27節のペトロの信仰告白に続き、31節で最初の受難予告がなされ、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という教えがあります。二度目の受難予告が9章30節、三度目の受難予告が10章37節にあり、その間には財産を持っているがゆえに、イエス様に従うことができなかった人の話が組み込まれています。

そして今日のテキストの終わり10章52節は、目が見えるようになった盲人が「なお道を進まれるイエスに従った」という言葉で終わり、エルサレム入城の物語につながるのです。つまり、「なお道を進まれるイエス」の道とは、エルサレムへの道であり、それは十字架への道ということです。十字架の主の道に従った盲人バルティマイに対してイエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。主が受難への道を歩むことがなければ、わたしたちの救いはありません。そのような意味で、レントの季節、受難週に入る1週前にバルティマイの物語から学べることはたくさんあると考えています。

ところで、この盲人バルティマイの物語は、マタイによる福音書20章29節以下、ルカによる福音書18章35節以下の並行記事があります。内容もほぼ一緒です。ところが、マタイでは「二人の盲人」とあり、ルカにおいては「盲人」とだけあります。バルティマイという固有名詞を記すのはマルコによる福音書だけであり、なぜそうなっているのかを考えるだけでも面白いと思います。マルコはバルティマイのことを「ティマイの子で」と紹介しています。バルは子どもという意味ですので、ティマイの子だからバルティマイだといえば、そんなに大きな意味はないように思います。けれども、マルコにだけこの名前が記されているということは、マルコによる福音書の最初の読者にとって、とても馴染み深い名前であったと想像するのです。バルティマイと聞けば、「ああこれは、ティマイの息子さんの話だ」とピント来る人が大勢いた。

間違いないことは、イエス様の弟子として仕えたからこそ、バルティマイという名前が聖書に残ったということです。バルティマイは、ガリラヤからついてきたのではありませんから、十二弟子の一人には数えられていません。しかし、十二弟子はイエス様が捕らえられ、十字架につけられた時まで従うことはできませんでした。イスカリオテのユダはもちろん、三度否認したペトロも、先週の礼拝で学んだマタイとも呼ばれた徴税人レビもそう。今日の前の段落に登場するゼベタイの子ヤコブとヨハネもそうです。皆、イエス様に呼ばれるとすぐに従ったのに、十字架の道を進むイエスに従うことはできなかった。従ったのはバルティマイと、実際にイエス様の十字架を担ぐことになったキレネ人シモン、後はマグダラのマリアら何人かの女性たちだけでした。では、わたしたちは、どこにいるのでしょう。イエス様の道を従うにふさわしいレントの歩みをしているのかが問われています。

さて、イエス様とバルティマイとの出会いの舞台となったのは、エリコの町でした。エリコの町は交通の要所であり、都へ上るための宿場町として栄えました。そんなエリコの道端には物乞いをする人もたくさんいました。わたしは特に福音書を読むときですが、その時の情景を映画のシーンのように思い描いて聖書理解の助けとしています。

47節から50節までを朗読しますので、皆さんも想像してみてください。バルティマイは「ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください』と言い始めた。多くの人々がしかりつけて黙らせようとしたが、彼はますます、『ダビデの子よ、私を憐れんでください』と叫び続けた。イエスは立ち止まって、『あの男を呼んで来なさい』と言われた。人々は盲人を呼んで言った。『安心しなさい。断ちなさい。お呼びだ。』盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。」

登場人物は、バルティマイとイエス様と多くの人々です。わたしがここを読んで感じたことは、イエス様とバルティマイとの距離感がどうだったかということです。バルティマイは道端にいましたが、イエス様は目の前の道を歩いていたわけではなかったのではないか。近くにいれば大声で叫ぶ必要もないし、イエス様も「あの男を呼んで来なさい」と言う必要もないと思うのです。イエス様が通る前であったのか、あるいは通った後のことだったのか。いやそもそも別の道だったのかもしれない。いや物理的な距離は遠くなかったのに、近づくことを妨げる距離があったのかもしれない、そんなことを思い巡らしました。

それにしてもバルティマイは、多くの人が叱りつけて黙らせようとするほど、大きな声で「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んでいました。この「ダビデの子」という言葉には、メシアはダビデの子から生まれるという預言から、イエス様を救い主と呼んだということになります。ダビデの子であれば、ユダの国、ベツレヘムから出るはずですが、人々は「ナザレのイエスが来た」と話しています。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と呼ばれているような辺境の地です。しかし、バルティマイは二度までも「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫んでいます。

目の不自由な人は、その不自由さを補う聴覚や嗅覚など、他の感覚が優れている方が多い気がします。抜群の記憶力をお持ちの方もいます。ただバルティマイは、言わば肉の感覚が優れていたというよりも、ナザレのイエスをダビデの子と呼ぶわけですから、霊的な目が既に開かれていたとも考えられます。ダビデの子イエスが、ここを通ることは、もう二度とないことを悟っていたのかもしれません。この機会を逃してはなるものかと、いう必死の思いがこの叫びに表れています。

しかし、多くの人々は叱りつけて黙らせようとします。バルティマイの叫びを迷惑行為としたのです。その中にはイエスの弟子たちもいたことでしょう。バルティマイがどんな悲しい思いをして生きて来たのかという想像力が欠如しています。そんな彼らの思いが、叫ばざるを得ない距離となっていたのかもしれないと想像します。

するとイエスは立ち止まり、「あの男を呼んできなさい」と言われます。人々は態度を変え、「安心しなさい、立ちなさい。お呼びだ」と言って彼をイエスのもとへ連れて行きます。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」三つの言葉が連なっています。「お呼びだ」は、イエス様が呼んでいることを伝える彼らの言葉ですが、「安心しなさい」と「立ちなさい」については、彼らの言葉ではなく、イエス様の言葉をそのまま伝えたと考えた方がよいと思います。

というのも「安心しなさい」という言葉ですが、そのように言える根拠は、そうおっしゃるお方が安心を与えることができるお方だからです。さっきまで「黙っていろ」と言っていた人に「安心しなさい」と言われても、安心できるはずがありません。あなたを呼んでくださるお方が、そう言ってくださる。だから安心できるのです。だから立つことができるのです。そして立ち上ったとき、もう不安の中にはいません。

50節「盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」とあります。バルティマイが来ていた「上着」というのは、体全体を覆うようなマントのようなものだったとも考えられます。このマントを頭からかぶって、身を隠すようにした時があったでしょう。このマントを下に敷いて、物乞いをしていたかもしれません。あるいは、このマントの上に施し物を置いてもらえるように、前に広げていたかもしれません。その意味で、自分の身を守るものであり、商売道具でもありました。それを脱ぎ捨てたということは、彼は物乞いをしていたけれど、まだ捨てる物があったということです。でも彼は、唯一と言ってもよい財産を捨てて、イエス様のもとへと向かったのです。しかも躍り上がって。先ほど「安心しなさい」という言葉について考えましたが、口語訳聖書は「安心しなさい」を「喜べ」と訳していました。「喜べ、立て、おまえを呼んでおられる」と。彼はその招きに応えたのです。

ここを読んで、「目が見えないのに、なぜ躍り上がってイエス様のところに行けるのか」と突っ込みたくなる方がいらっしゃるかもしれません。でもそれは野暮な問いというものです。喜びのあまり、途中で何度も転びながらでも、向かったかもしれません。それでも、イエス様が呼んでくださっている。その喜びが彼を立たせ、踊り上がってイエスさまのもとに行ったのです。道端にいた彼が、道を真ん中から呼ばれるイエス様のところに行った。なお、道を進まれるイエスに従うためです。

すると、イエス様は問いかけます。「何をしてほしいのか」。どうでしょう、不思議な問いだと思います。彼は目が見えないのですから、「見えるようになりたい」という願いは当たり前ではないかと思えるからです。すると、そのとおり、「盲人は、『先生、目が見えるようになりたいのです」と言った』とあります。でも、本当に当たり前だったのでしょうか。目が見えにくいことで不自由されている方がここにもいらっしゃいます。現代の医学の中でも、目の治療が最も進んでいると聞いたことがあります。白内障であれば、手術すれば前よりも見えるようになります。目が悪くなっていくのを抑える薬や過度のストレスを与えない治療法もあります。それでも見えなくなった目が見えるようになることは、残念ながらありません。現代でもそうなのです。あきらめるしかないことを彼は知っていました。でも彼は「見えるようになりたい」と言ったのです。イエス様をメシアと信じての願いです。

「何をしてほしいのか」。実はこれと同じ問いが、マルコによる福音書の10章にもう一つあります。前の段落の10章36節で、ゼベタイの子ヤコブとヨハネが、「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」と言って進み出たとき、イエス様は「何をしてほしいのか」と尋ねています。このときの二人の願いは、イエス様が「栄光をお受けになるとき」、言いかえれば、イエス様が神の国の王座につくとき、わたしたち兄弟がその次の地位につけるようにしてくださいということでした。するとイエス様は、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」と言い、間髪入れずに、「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける杯を受けることができるか」と問われます。二人はその杯の意味が分からないまま「できます」と答えます。また、他の10人の弟子たちも、二人が抜け駆けしようとしていることに腹を立てるだけです。イエス様と同じ道を歩いてきた弟子たちは、何もわかっていなかったのです。

でも、道端にいたバルティマイは違いました。「目が見えるようになりたい」という願いは、決して当たり前のことではありません。むしろ「今日の糧をお与えください」と願うほうが自然です。あるいは、ヤコブとヨハネはじめ、弟子たちがそう考えていたように「偉くなりたい」と願ったとしても不思議ではありません。目が見えるようになるという、現実的とは思えないことを願うよりも、目が見える人よりも上の地位につきたい。そう考えたとしても不思議ではないと思うのです。

わたしは、この盲人バルティマイのテキストは、前の段落にあるイエス様の言葉、すなわち10章43節以下「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」この言葉を受けているのではと思います。

バルティマイは「偉くなりたい」ではなく、「見えるようになりたい」と願いました。見えるようになったら、これまで出来なかった楽しいことをいっぱいする、といった自分の願いをかなえるためではなく、イエス様がそうであるように人に仕えられるためでなく、仕えるためです。そういう人生を送りたいと考えたのではないでしょうか。

彼の願いを聞いたイエス様は、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。目が見えるようになって、仕える者となろうとするバルティマイに信仰を見たのです。「あなたを救った」と言いましたが、目が見えるようになること、すなわちいやされたということが、救われることではありません。

ルカによる福音書17章11節以下(142p)に、重い皮膚病を患っている十人のいやしの物語があります。バルティマイがそうであったように、この十人も声を張り上げて「どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫びました。彼らは皆いやされます。ところが、いやされたことを知って、イエス様のもとに戻って来たのは一人、サマリア人だけでした。イエス様は「ほかの九人はどこにいるのか」と言われ、神を賛美するために戻ってきたサマリア人一人に向かって「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。いやされた人が、どう生きるかで、その人が救われたかどうかが決まるのです。

詩編146編は、主に望みを置く人の幸いを歌っています。「いかに幸いなことか ヤコブの神を助けと頼み 主なるその神を待ち望む人」。主を望みとする信仰を持つ人に対して、主は捕われ人を解き放ち、見えない人の目を開き、うずくまっている人を起こし、従う人を愛してくださると約束します。バルティマイの出来事は、この詩編の言葉が現実となった出来事だといえます。

しかし、バルティマイの出来事は、目が見えるようになるという身体の回復にとどまりませんでした。「行きなさい」と言われたバルティマイは、すぐに見えるようになりました。目が見えるようになって、一人でどこへでも行ける自由を得たのに、どこかへ行ってしまうのではなく、「なお道を進まれるイエスに従った」のです。道端に座っていたバルティマイは、主の道を共に進む人とされました。その道は、エルサレムに向かう道であり、十字架への道、茨の道でしたが、そのことのゆえに、バルティマイは十字架を目撃しました。復活の証人となりました。肉の目が開かれたにとどまらない、霊の目が開かれたのです。しかも鮮やかに。

わたしたちも主に呼びかけられています「安心しなさい。立ちなさい」と。この声を聞くわたしたちは、この主の招きを伝えていく使命を与えられています。「安心しなさい。立ちなさい。主がお呼びだ。」そこに伝道する教会の務めがあるのです。