イザヤ書6章9~10節 ルカによる福音書8章4~15節
「それでも種を蒔き続ける」田口博之牧師
イエス様はたくさんのたとえ話をされました。そのたとえの多くは、神の国についてです。マルコによる福音書には、「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」という言葉があります。たとえというのは、いろんな解釈が可能です。自由に解釈して悪くはないのですが、神の国について語られているのですから。自由過ぎても困ったことになります。弟子たちが間違った理解をしないように、間違ったことを誰かに伝えないように、たとえの意味するところをひそかに説明されたのです。
しかし、イエス様がたとえの説明をされたことが、明確に聖書に記されているのは、今日の「種を蒔く人のたとえ」しかありません。その意味でとても貴重なテキストだといえます。たとえをどう解釈すればよいのか、解釈の仕方を教えてくださっているのですから。
たとえ話の内容はこうです。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。
たとえそのものは難しくはありません。その情景も浮かびやすいと思います。ただし、ここを読んでわたしたちが思い浮かべることは、なんて無駄な種の蒔き方をするのか、道端や、石地や、茨の中に種を蒔いても実を結ぶわけがない。最初から土を慣らして良い土地にし、そこに種を蒔けばよいのに。そんな思いを抱くのではないでしょうか。この話を聞いた大勢の群衆も弟子たちも、そのような聞き方をしたかもしれません。でも、これはたとえ話です。蒔かれた種も、種が蒔かれた四つの土地も、種や土地そのものではなく、何かのたとえとして語っているのです。イエス様は、そこを聞き取って欲しかったので、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われたのです。
ここで大切なことは「聞く」ということです。ですから、「大声で言われた」のです。「聞く耳のある者は」とありますが、そもそも耳は聞くためにあります。耳でしゃべる人も、見える耳を持つ人はいません。当たり前のことを言っているようです。でもそのように言うと、聞こえの悪くなっている方は、辛いだろうと思います。しかし、イエス様が言われる聞く耳というのは、聞こえの話ではないのです。わたしは、耳は悪くなく、耳年齢はかなり若い方だと思いますが、家では「人の話をよく聞いていない」と叱られることがあります。聞こえる耳と、聞く耳というのは別の話です。
クラシック音楽がかかっていたとき、クラシック好きな方とそうでない方の聞き方は違うはずです。これはいい演奏だなと思って聞く方にとっては、至福の時間でとなりますが、まったく興味のない方であれば、どうということはありません。ロック好きな方がロックを聞けば、テンションも上がってくるでしょうが、嫌いな方であれば、やかましい音としか聞こえません。とは言いつつ、同じクラシック好き、同じロック好きだと言っても一括りにすることはできません。聞ける耳はあっても、自分が本当に聞きたい演奏とは違うとか、細かなミスが気になるようだと、それは、いい聞き方とは言えないのではと思いまです。
説教塾のセミナーに出ていた頃、これは説教を聞く耳を鍛えるときだと思うようになりました。その前提として、聖書の言葉を聞く耳を鍛えることは言うまでもないことですけれども、以前にあまりに厳しい説教批評を受けたことで、しばらく説教ができなくなってしまった牧師もいました。わたしも厳しい批評を受けて、落ち込んだこともがあります。そのときに、その批評を受け入れる耳。そして批評する側にいたとき、このところを、こうすればこの説教がもっと良くなるという、改善提案を出せる耳を持とうと思いました。そうすることで、自分の説教を批評できるようになるからです。事実、毎週説教を作るときには、いつもその繰り返しをしながら日曜の朝を迎えています。
イエス様は、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた後で、弟子たちにたとえの説明をされます。ここで興味深いのは、説明される前に「たとえを用いて話す理由」を語るのですが、イザヤ書の言葉が引用されていることです。10節の『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』とは、イザヤ書6章9節の引用ですけれども、イザヤ書6章というのは、預言者イザヤの召命の記事が記されているところです。イエス様が、そこを弟子たちに語ったということは、聞く弟子たちにとって必要な言葉だったからに違いありません。
イザヤという人はとても勇敢だったのです。イザヤ書6章8節ですけれども、「誰を遣わすべきか」いう主の言葉を聞いたイザヤは、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と答えるのです。このときのイザヤの前のめりな応答は、「わたしは口が重く、舌が重い」、「わたしは何者でしょう」、「だれか他の人を見つけてお遣わしください」と言って召しを拒んだモーセ。あるいは「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者に過ぎませんから」と言って、やはり主の召しに躊躇したエレミヤとは対照的です。
すると主は、イザヤに言われるのです。「行け、この民に言うがよい よく聞け、しかし理解するな よく見よ、しかし悟るな」と。これはイザヤの思いを挫くような言葉です。イザヤがその気になっているのに、あなたが神の言葉を語っても、皆が喜んで聞くような民ではないよと、主は言われるのです。あなたが出て行くところは、神の言葉を素直に聞くような世界ではない。むしろ、語っても誰も聞かない、見ても誰も悟らない、そんな現実が待っている。人の心は頑なで、神の言葉を聞いたくらいでは、そう簡単に悔い改めはしない。そういうところに、わたしはあなたを遣わすのだと。伝道者の厳しさを告げています。
そのことを語られた上で、「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である」と言って、たとえの意味を説明されるのです。御言葉の種は四か所に落ちますが、はじめの三つ、道端、石地、茨の中は、それぞれに良い地とは言えず、実を熟すには至りません。ここを読んで興味深いのは、その三つの土地、それは神の言葉を聞いた人のことを指していますが、それぞれ、御言葉を聞いていないわけではないのです。
もう一度読んでみます、「道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。
三者三様に御言葉を聞きはするけれども、聞く耳を持たないのです。いや持っているけれども、あるいは持っているつもりではあるけれど、いろんな要因によって御言葉が心にとどまらない、またそのようになる理由や事情が語られています。
イエス様は、「蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった」のたとえの説明として、「道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである」と語ります。人に踏みつけられるとか、空の鳥に食べられるのは、自分の内ではなく外からの要因ですが、イエス様はこれを悪魔の仕業だと説明しています。
説教中に襲ってくる睡魔は、聞いていて退屈になってきたとか、疲れているとか、睡眠不足とか、本人の事情といえるかもしれませんが、それは御言葉を奪いに来た悪魔の仕業だというのです。悪魔からすれば、御言葉を喜んで聞かれてしまっては、面白くないのです。その人が信じて救われてしまったら、自分の働き場がなくなってしまうからです。だから睡魔を使って御言葉を奪いとろうとしている。起きていてもよそごとを考えさせて御言葉を奪い去ろうとしている。そういう意味で、礼拝に出ている皆さんは最大の標的にされているといえます。
第二の土地、「ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった」について、「石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである」とあります。先ほどの道端が、外からの要因とすれば、石地は内側、自分自身の問題です。その時には御言葉を喜んで聞くことはあるかもしれません。よし、来週も教会にも行くぞ、そう思っても、その思いは長く続かないことがあります。打ち上げ花火的な信仰というものは、一瞬は華やかでも根がないので、枯れてしまうのです。神様を信じていいことが続いたと思っていたけど、そんなことはなかった。ここに救いがあると信じて、洗礼を受けたけれども、いつの間にか教会に行かないことが普通になってしまうことがあります。それは外の人の問題ではなく、その人の内に持っている石地のような頑固さです。それゆえに、信仰が枯れてしまう。そいうことがあると思うのです。
そして第三の土地は茨の中です。「ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。」茨が妨げるのですから、内ではなく外からの要因です。「そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである」というイエス様の説明はよく分かると思います。御言葉を聞いて、育ちもするのだけれど、その「途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて」実を結ぶに至らないことがある。でも、人は誰でも、自分の内に茨のように邪魔するものがあるのではないでしょうか。茨も種と一緒に成長してしまうのです。
皆さんもこれを聞いて、三者三様、それぞれに思い当たる節があるのではないでしょうか。でも、自分が道端タイプだとか、石地タイプだとか、茨タイプだとか考える必要はありません。人間は複雑ですから、単純にそのように分けることはできず、御言葉の成長を阻む、様々な要因というものを、わたしたちは内にも外にも持っています。ある時には道端になり、ある時は石地となり、ある時は茨にもなるのです。そのようにして御言葉を聞くには聞くが、聞く耳を持ち続けることは難しいことです。それは自分だけでなく、誰でもそうなのです。
イザヤは「わたしを遣わしてください」と名乗りを上げましたが、神様はそんなに簡単には行かないよと釘を刺されました。そのことをイエス様は弟子たちにも伝えられるのです。今日の箇所は先週説教した「神の国の福音を告げ知らせる」ことと密接につながっています。このたとえは、マタイもマルコもほぼ同じ内容ですが、先週8章1節から3節を学びましたので、その続きとして語られているルカのテキストを選びました。イエス様は、御言葉を告げ知らせるために、弟子たちを召してあらゆる町や村を巡り歩きましたが、皆が喜んで聞いたわけではないのです。
そして9章で十二人を伝道旅行へと遣わしますが、9章5節では、「だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」言われています。また10章で七十二人を二人ずつ遣わした時も、「しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と」言われるのです。その町の人たちがあなたがたを迎え入れなくても、そこで落ち込む必要はない。足についた埃を払って、「しかし、神の国が近づいたことを知れ」と言って、次の町や村へ進めというのです。そこがどんなと地であったとしても「それでも御言葉の種を蒔き続けよ」と言うのです。このたとえは、そのことを伝えているのです。
すると神は顧みてくださいます。8節「また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」あなたが思う以上の大きな恵みが、「百倍もの実を結ぶことがあることを約束されるのです。
このたとえを読んだとき、疑問を持つ方がいらっしゃったと思います。最初から良い土地だけに蒔けばよいのではないかと。道端や、石地や、茨の中など、あまりに無駄が多いやり方ではないか。いつ頃からか「コスパ」とか「タイパ」という言葉を聞くようになりました。皆さん意味が分かるでしょうか。コスパとはコストパフォーマンス。費用に対してどれだけの効果が得られるかを示す指標です。タイパとは、タイムパフォーマンス。短時間で効率的に成果や満足を得ることを重視することです。最近になってもう一つ、スペパという言葉を聞くようになりました。スペースパフォーマンスといって、限られた空間をいかに効率的に活用できるかを示す指標のことです。不要な物の削減することで、狭い空間でも広く使うことができるようになります。
そういうことが常識的になると、この御言葉の種を蒔く人ほど効率の悪いことをしている人はいない。するとキリスト教は時代遅れだという話になってきます。確かに、効率という視点は全くない。見さかいもなく、あらゆるところに種を蒔き散らしているようです。ではなぜこんなことをするのでしょうか。理由ははっきりしています。この種は無駄にならないからです。この種は山ほどある。言葉は悪いですが捨てるほどあるのです。だからケチることなくいくらでも、たっぷり時間を使って、どこにでも蒔いたのです。たとえ石地に落ちて空の鳥が種をつまんでも、途中で落として良い土地に蒔かれるかもしれない。石地に落ちた種が跳ねて、良い土地に蒔かれるかもしれない。伸びた茨に引っかかった種でも、風が吹いて良い土地に飛んで行くかもしれません。蒔かれた種がむなしく落ちることはないのです。
ギデオン協会が、無料で新約聖書を配っています。わたしも牧師になる前に、一宮に住んでいた頃、中学生への聖書の配布に協力したことがあります。慣れないわたしは、警戒する雰囲気を出している子には遠慮してしまって、他の会員程には配れなかったことを覚えています。相手の反応を気にすると委縮してしまいます。とてもいい経験になりました。
そのときにギデオンの会報をいただいたので、家に帰ってから読むと、捨てられていた聖書を拾ったことをきっかけに教会に行き、洗礼を受けられた方の証が出ていました。まさに道端に落ちた種が良い地に落ち、大いなる実をもたらしたことを知りました。良い地と言っても、その人が初めから良い地だったわけではありません。石地のように心が固く、茨の中のように思い煩っていた方でした。でも、御言葉が固い心を溶かしたので、思い煩いを解き放ったのです。神の言葉にはそういう力があります。福音の力です。御言葉の種は小さくても力がありますから、思いがけない仕方で大きな実を結ぶことになるのです。
以前に金城学院が、金城のハンドベルの歩みを記した「ベルは鳴らさなければベルではない」という本を出版しました。「ベルは鳴らさなければベルではない」とは、ハンドベルを持ってきたケリー宣教師の言葉です。本の裏表紙にこんな言葉も記されています。「歌は歌わなければ歌ではない ベルは鳴らさなければベルではない そして愛は人に与えて愛となる」。
教会も御言葉を語らなければ教会ではありません。神の国の福音を宣べ伝えてこそ、神に喜んでいただける教会となります。イエス様は、あらゆる町や村を巡りました。名古屋という地も、宣教師の目から見れば固い土地だと思われたのです。でも、そこに遣わされた人がいました。植村正久、山本秀てる2名。名古屋教会の創立者です。この地に御言葉の種が蒔かれて150年。神様と出会う人、救われる人がたくさん現われました。わたしたちにも御言葉の種が蒔かれたからこそ、今ここにいるのです。決して良い土地とは言えないのに、ヨハネによる福音書15章16節にあるように。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ」そこに神の大いなる愛と恵みがあります。
同時にヨハネ15章16節には「わたしがあなた方を選んだ」に続く言葉があることを心にとめたいのです。「あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと」。神様はそうなることを望まれています。その神の思いに応える歩み、与えられた恵みを感謝してお返しする歩みをしていきたいと思います。
