ルカによる福音書4章42~44節、8章1~3節
「神の国の福音を告げ知らせるために」 田口博之牧師

今週火曜日から、中区役所市民ギャラリーで東海聖句書道アート展が始まり、書道教室に通っている生徒たちのうち7人が出品します。聖書にちなんだ言葉を学年ごとにいくつか書いて、そこから子どもたちに選ばせているのですが、小学校3年生の子が「神の国」を選びました。先週のお稽古で清書をしましたが、それを書きながら「神の国って天国のことでしょ」と話しかけてきました。

どうこたえようかなと思いつつ、「そうだよね。じゃあ天国ってどんなところかな」と言うと、「死んでから行くところ」と言いました。「じゃあ、死んでからでないと行けないの」と聞くと、「う~ん」と考えていました。そこで、もうひとこと言った方がよいかなと思いつつ、他の子から呼ばれたので、その話は終わりました。でも、「う~ん」と考えたところで終わってよかったのかもしれないと思っています。その先となると、「あっ、そうなんだ」すぐ分かるような話にはならないと思ったからです。

イエス様は、神の国について何度も話をされましたが、その多くは「たとえ」によって語られました。たとえ話として語るわけですから、はっきりこうだと言える答えにはならず、答えを聞いてもイメージとしてしかとらえることはできません。「神の国とは、そう死んだ人が行くところ、天国だ」と答えたとしても、そこで言う天国もまた、お花畑を想像する人もいるでしょうし、人それぞれだと思います。それぞれの人がイメージする天国を思い描くしかないだろうと思います。

「神の国」とは、「国」といっても、地図を広げて、ここに「日本」があるよ、というように、地図上で示せるようなところではありません。イエス様が言われたように、「ここにある」、「あそこにある」と言えるものではないのです。「神の国」とは、「神の支配」のことだと説明されることがあります。では「神の支配」とは、どういうことでしょうか。「神が王として支配されること」、「神の御心が実現している状態」そんな言い方ができるでしょう。

たとえば、争いが起こっているとすれば、それは争いが支配している状態であり、その争いに勝った者が支配するわけですから、それは強い者の支配であり、弱い者の味方となってくださる神が支配しているとはいえません。でも、苦しんでいる人がいない、誰一人として見捨てられておらず、皆が幸せに生きているとすれば、それは神が望まれる状態にあるわけですから、神の支配が実現していると言うことができるでしょう。でも、100人いて、100人が皆、幸せでいるということが、この世で実現するというのは、なかなか難しいというか。不可能だと言っていいでしょう。人間の頑張りでできるものではなく、神がなしてくださることを待ち望むしかないのです。

イエス様は、公生涯の初めに「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。これはマルコによる福音書1章15節にあるイエス様の第一声です。イエス様が来てくださったことで、この世において、神の国は近づいている。神が支配される状態が、「わたしたちのただ中にある」と言われるほどに近くに来ているのです。だから、イエス様は「悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。

「悔い改める」とは、ただ「反省する」ということではなく、心の向きを変えるということです。目に見えるものばかりに頼るのではなく、目には見えないけれど、わたしの人生を支配し、たくさんの恵みをくださっている神に心を向けるということです。

そして「福音」とは、喜ばしい知らせということです。「神の国が近づいた」こと、イエス様が来てくださったことで、神の御心が実現しようとしている。神の御心は、悔い改めて福音を信じた人が救われることにあります。ただ信じればいいというのですから、これ以上に喜ばしい知らせはありません。とは言っても、人は疑り深いです。罪により神の恵みを見つめる目が曇っているからです。だから「子どものようにならなければ、神の国を受け入れることはできない」と言われるのです。

ルカによる福音書で、最初に「神の国」という言葉が出てくるのは、マルコよりは遅く4章43節です。「イエスは言われた。『ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。』」とあります。この言葉から、イエス様が地上に来られた目的。父なら神が、御独り子を地上に遣わされたのは、「神の国の福音を告げ知らせるため」だということがはっきり分かります。

その使命を果たすためには、イエス様は、ひとところに留まるわけにはいきません。出て行かなければならないのです。しかしそうなると、まさに4章42節にあるように「自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた」人も現れます。よそなんて行って欲しくない。わたしのところにいつまでもいて欲しい。その願いはよく分かります。でもイエス様は、「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」と言われます。それが思い込みでないことを確かめるために、イエス様は「人里離れた所へ出て行かれた」のです。「人里離れた所」とは荒れ野のことです。イエス様が公生涯の初めに40日間試練を受けたところです。イエス様は村の人たちから引きとめられましたが、荒れ野に行ったのは、初めの思いに立ち戻り、自分の使命を確かめるためです。祈るためです。祈って与えられた答えが、町や村を巡って旅を続けるということでした。

しかし、町の人々はそれでは困るのです。イエス様はたくさんの病人や、悪霊に取りつかれた人をいやしたりました。「おびただしい人をいやした」という記述もあります。だとしても、イエス様によっていやされた人は、全体から見ればほんの一握りだと思います。病んでいる人々はまだ大勢いる。だから、もっと長くとどまってほしい、引きとめる人がいるのは当然のことであって、勝手な願いだと批判することはできません。

今も病院に行くと、ほんとうにたくさんの病気の人がいることを思わされます。その人がどんな病気を抱えているのかは分かりません。中には深刻な病気を抱えている人、病気から来る悩みや苦しみから解放されたいと思が大勢いるはずです。にもかかわらず、早く自分の番が回って来ないかなと思ってひたすら待っています。結局は、自分のことしか考えられないのがわたしたちです。でも、この病気さえ治ればという思いで、イエス様に救いを求めるかたもいらっしゃいます。その動機自体は間違いではありません。

福音書の中に、12年間も出血が止まらず、全財産を使い果たし、まさに藁にもすがる思いで、イエス様に救いを求めた女性がいます。彼女がイエス様の服の房に触れた瞬間、イエス様は自分の力が抜けていくのを感じました。イエス様の力が女性に転移したように、女性はいやされたのです。でも、イエス様はそれで終わりにはしませんでした。「わたしに触れたのは誰か」と言うと、女性は震えながら、イエス様の前に進み出ました。そのときにイエス様が言われた言葉が、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」でした。

この物語が意味することは、イエス様の後ろから服の房に触れて、彼女を苦しめていた出血が止まったとしても、それだけでは、救われたことにはならないということです。イエス様に呼ばれて、とんでもないことをしてしまったかと思いつつも、勇気を出して御前に進み出て、いやされた次第を証しする。だからこそ彼女は、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」という言葉をいただいたのです。この言葉は、彼女にとって福音です。この言葉をいただいたからこそ、彼女は安心して一歩を踏み出すことができたのです。

病気のいやしも、神の国の福音がイエス様と共に到来したしるし。神の支配が、神の御心が病気のいやしを通して実現していることを証しする目に見えるしるしです。すなわち、いやしそのものが救いではないのです。障害を抱えたままでも、主に生かされていることを感謝し、生き生きと歩んでいる方がいらっしゃることでも明らかです。イエス様の使命は、神の国の福音を、すべての人々に告げ知らせることでした。そのために44節にあるように「ユダヤの諸会堂に行って宣教された」のです。神の国の宣教、福音の宣教です。この宣教の業を教会は受け継いでいるのです。

そして今日、もう一か所テキストとして選んだのは、ルカによる福音書8章1節以下です。1節には、「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった」とあります。ここでも、4章と同じことが言われています。イエス様は、神の国の福音を告げ知らせるために、同じところにとどまらず、町や村を巡ったのです。でも、全く同じではありません。4章ではイエス様一人でしたが、このときは一人で巡ったのではありません。5章に入ると、漁師を弟子にし、徴税人レビを弟子にしました。さらに6章では、使徒と呼ばれる十二人を選ぶのです。だから、8章1節に「十二人も一緒だった」とあるのです。

しかし、イエス様の福音宣教の旅には、十二人だけが一緒だったのではありません。2節、「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった」と、十二人だけでなく、何人かの婦人たちも一緒だったことをルカは告げています。

「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」とあります。彼女らの奉仕として、食事の世話をしたことは容易に想像がつきます。イエス様は、大勢の罪人や徴税人たちと食事をしましたが、彼女らは自分たちで手に入れた食材を出し合って、食事を作ったのです。何も、食事の世話は女性がするものと決めつけてそう言っているのではありません。そういう考え方が批判される現代でも、教会で食事会をしたときに、食事の用意をするのはたいてい女性です。それが教会の古い体質だといえば、そうなのかもしれませんが、自主的な奉仕を拒む必要はありません。年度初めに出していただく教会の奉仕担当表で〇を付けた方がしているのではないのです。そもそも〇を付ける欄もない、誰が頼んだわけでおもなく自主的にされていることです。昨日も少しだけ様子を見ていましたが、楽しそうに話をしながら野菜を刻んだりしています。大変な奉仕だと思いますが、礼拝の後でたくさんの人が残って、この食事をしてくれたら嬉しい。そこで喜びを感じているからしている。そう思っています。そこにも神の国の到来の喜びを見ることができます。

イエス様も十二弟子も、彼女たちの奉仕があったからこそ、町や村を巡り歩いて神の国到来という福音を告げ知らせることができたのです。しかも、マグダラのマリアら三人の女性たちの名前がここに出てきていますが、この女性たちは、イエス様に最後まで従ったのです。彼女らは、イエス様が十字架に死なれ、墓に葬られたこと、三日目にその墓が空になっていることを目撃し、主の復活の証人となったのです。

一方で、ここで「十二人も一緒だった」と言われる男の弟子たちがどうだったかといえば、彼らはイエス様が十字架に架けられるときには、逃げ出していたのです。イスカリオテのユダは、イエス様を銀貨30枚で売り渡し、一緒に死にますと豪語していたペトロは、三度までイエス様を否認したのです。イエス様が捕らえられたことで、恐れをなした男の弟子たちは一人も残らなかったのに、この女性たちは最後まで従ったのです。

神の国の福音は、イエス様が一人で担われたのではありません。逃げ出してしまうような十二弟子を巻き込みました。そして女性たちが福音宣教の旅を支えました。すると、神の国の福音を宣べ伝えるのは、共同体の業だということが分かります。イエス様によって招かれた人々が、神の国の御業に巻き込まれていったのです。

そして9章に入ると、イエス様はこの十二人を派遣するのです。9章1節に「イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり」とあります。イエス様がその言葉と業を通して、神の国の福音を告げ知らせる姿を間近で見てきた十二人を、イエス様は彼らを神の国の宣教のために遣わされたのです。彼らはイエス様から離れて、神の国の到来と喜ばしい知らせを、町や村を巡って告げ知らせたのです。

それだけではなく、10章1節では、「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」とあります。イエス様は9節で「その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」と命じています。しかし、誰もが神の国の福音を受け入れるわけではありません。だからイエス様は言うのです。「町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と」。捨て台詞のように聞こえますが、伝道というのは上手く行かない方が圧倒的に多いのです。それは辛いことだし、こんなことしても無駄ではないかと思えてくることがあります。

でも、だからと言って尻込みしていたら、神の国が到来したという喜ばしい知らせを告げる人はいなくなってしまいます。だからイエス様は命じるのです。聞かない人に向かって、「しかし、神の国が近づいたことを知れ」と言いなさいと。これはこのときの七十二人の後に続く、わたしたち教会へのメッセージです。

地上に生きられたイエス様は、イスラエルの町や村を伝道されましたが、福音宣教の業は十二弟子、女性たち、七十二人、やがて教会共同体に受け継がれました。十字架の死より三日目に復活され、天に昇られた後、地上には聖霊が注がれました。イエス様が捕らえられたときに逃げ出していった臆病だった弟子たちにも力が与えられました。そして主が約束されたとおり、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、福音は宣べ伝えられました。

やがて福音は地中海世界に広がり、2000年前にはその存在さえ知られていなかった日本を含め、世界中に福音は宣べ伝えられていきました。復活されたイエス様が「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」という大宣教命令を、自分に与えられた務めとして聞いた人々がいたからです。でもそれは一人でなすことはできません。イエス様ですら弟子たちと一緒になされたのです。伝道は共同体のわざです。「神の国に向かう共同体」である、わたしたち教会がなすべき務めがここにあります。