マタイによる福音書28章18~20節 コリントの信徒への手紙二13章11~13節
日本基督教団信仰告白(5)「三位一体の神を信じる」 田口博之牧師

長く読んできたコリントの信徒への手紙二も、今日で読み終えることになります。ただし今日は、月の第一聖日で学んでいる「日本基督教団信仰告白」を主題とした説教のテキストとして、コリントの信徒への手紙二の最後の言葉を選ばせていただきました。13章13節には、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」とあります。この言葉は、毎週の礼拝の最後に告げる祝祷の言葉としています。そういう意味で、この言葉は、コリントの信徒への手紙二の締めの言葉であり、三位一体の神への信仰を言い表す言葉であり、祝祷で告げる言葉ですので、「三位一体」を語るにふさわしいテキストだといえるでしょう。

そのように、三つの方向から語ることのできる言葉ですが、はじめに2年以上にわたって読んできましたコリントの信徒への手紙二の結びとして、11節と12節も合わせてみていきたいと思います。

これまで読んできたように、パウロとコリント教会との関係は崩れていました。コリントの信徒たちが、パウロを批判する偽使徒たちの言葉を鵜呑みにし、パウロは本物の使徒ではないと疑ったからです。パウロはコリントの信徒たちに自分との信頼関係の回復を訴えましたが、それは自身の名誉回復を求めたものではなく、キリストとの関係を回復させることであり、彼らを真の福音に立ち帰らせるためでした。

そしてパウロは、コリントの教会を健やかなキリストの教会として健やかに造り上げるために、11節で「終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい」と五つの勧告を述べ。「そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます」と約束します。「そうすれば」というと、この五つの勧告を行うことが条件のように聞こえますが、そういうことではないでしょう。たとえ、教会の中で対立があり、牧師と信徒が、また信徒同士がバラバラになったとしても、「愛と平和の神」は共にいてくださるからです。

ではなぜ、「そうすれば」というのでしょうか。それは、教会から喜びが失われ、思いを一つにすることができなくなっているとき、神を見失っているからです。神が「愛と平和の神」であることが分からなくなってしまっているからです。でも、パウロが述べた五つの勧告を受け止め、行うことができたとき、「愛と平和の神」が共にいてくださることがわかるようになるのです。

そのような教会は、「聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい」という具体的な勧告を受けることができます。口づけと聞くと、わたししたちは一歩引いてしまいますが、そこには文化の違いがあるでしょう。面白いことに、旧新約聖書を通して、口づけという言葉は何度か出てきますが、握手という言葉は出て来ないのです。それでも、わたしたちが思う以上に、コリントの人々にとっては驚くべく勧めだったのではないでしょうか。ローマ帝国によるキリスト教批判に、「あいつらは、集まっては口づけを交わし合い、生き物の血を飲んでいる得体の知れない輩だ」と揶揄する声があったと聞いたこともあります。

CSでは「主の平和」と言って、平和の挨拶をします。以前行っていた「子どもも大人も共に礼拝」では、互いに「シャローム」と言って、席を立って握手したものです。コロナをきっかけにして握手することもやめましたが、それ以前から「握手する」ことに抵抗を覚える人がいらしたことも事実です。「新来会者は引いてしまうのでは」という声や、「わたしの手は冷たい」とか「手汗が多いから恥ずかしい」という声を聞くこともありました。その一方で、あの頃の平和の挨拶が懐かしく、再開してはどうかという声を聞くこともあります。

平和の挨拶をするかしないか、握手はどうなのかはともかくとして、「互いに挨拶を交わしなさい」と言われていることに心にとめたいと思います。挨拶が交わりの基本だということは、「あの人はわたしに挨拶をしない」という理由で、人間関係がおかしくなったり、挨拶しないことがパワハラ要件と見なされることからも明らかです。ましてコリントの教会には、ギリシア人もいればユダヤ人いたし、自由な身分の者も奴隷もいたのです。いろんな人たちがいる中で、「励まし合い、思いを一つにする」ことは簡単なことではなく、主が中心にいてくださらなければ成し得ないことでした。

そして、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」という祝福の言葉でこの手紙は結ばれます。コリント教会は、パウロにとって、もっとも難しい教会でした。信徒との関係で苦しみました。その信徒たちに向かって「終わりに、兄弟たち」と呼びかけて、三位一体の祝福で結ぶのです。

今は、わたしが桃山教会の代務者をしている関係で、多くの先生に説教奉仕に来ていただく機会があります。礼拝の終わりに祝祷をしていただきますが、先生によって祝祷するときの所作も言葉も違いがあるだろうと思います。でも、おそらく多くの教師が、このパウロの言葉の通りか、何かしらの言葉を付け加えて祝祷してくださっているのではと思います。理由は、ここに「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」とあるように、父、子、聖霊なる三位一体の言葉が出てくるからです。

祝祷にふさわしい言葉というのは、讃美歌93-7にも載っていて、全部で11出てくるのですが、三位一体の神がすべて出てくるのは、このコリントの信徒への手紙二13章13節しかないのです。そして「父と子と聖霊」という言葉で明確に出てくるのが、今日もう一か所読みましたマタイによる福音書28章19節です。
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

復活されたイエス様の言葉です。わたしたちの教会もそうですが、代々の教会はこの主の教えを忠実に守り、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けています。しかし、キリスト教を標榜しながらも異端と見なされているところは、そもそも三位一体の教理を認めていないので、父と子と聖霊の名による洗礼を行うことはありません。

今日は第一聖日で聖餐を祝います。聖餐は洗礼を受けておられる方が受けるものですが、決して閉じられているわけではなく、他教派で洗礼を受けた方にも開かれています。聖餐式の序詞でもそのことを告げていますが、そこでは「父と子と聖霊の名によって洗礼を受けておられる方は、教団教派を問わず、どちらの教会に属している方であっても聖餐をお受けください」と言っています。「父と子と聖霊の名によって授けられた」ことが明確でなければ、キリスト教会の洗礼とは言えないのです。

お手元にある信仰告白を見ていただくと分かるように、第一段落で聖書信仰を語ったのち、第二段落では神について、「主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ」と語ります。「唯一の神が、三位一体の神である」とは、普通に考えると矛盾であり、訳の分からないことが語られているように思います。しかし、三位一体とは、三つの神が存在するということではなく、神はあくまでも唯一の神です。そして、洗礼が、父と子と聖霊の名によって授けられるように、三位一体の神への信仰は、わたしたちの救いの根幹にかかわることなのです。

先週は、桜美林大学で宗教学を専攻する学生たちが礼拝出席しました。「牧師と話をする会」にも残っていただき、豊かな時を持つことができましたが、その中で「キリスト教は、多神教ではなく唯一神教だけれども、ユダヤ教もイスラム教も同じ唯一の神を信じていることをご存知ですか」ということを学生に尋ねた方がいました。学生たちは「分かっている」とうなずいていましたが、考えてみると、ユダヤ教だけでなく、イスラム教でも、天地を創造し、アブラハムが信じた同じ神を信じているというのは、不思議なことだなと思いました。キリスト教でいう「父なる神」と、ユダヤ教の「ヤハウェ」の神、イスラム教で「アッラー」と呼ばれる神も、同じ唯一の神なのです。

ところが、同じ唯一の神でありながら、同じ唯一の神を信じているとは言い切れないことも事実です。それは、ユダヤ教やイスラム教には三位一体の考えがないからです。ユダヤ教の場合、エジプトの奴隷の家から導き出された主なる神(ヤハウェ)こそが、唯一の神です。旧約聖書に「神の霊」はあっても「聖霊」という言葉は出てきません。イエスを旧約聖書で預言されたメシアと見なしていません。ユダヤ教を信仰する人にとって、イエスは歴史上の一人の人物にすぎないのです。つまり、イエス様も聖霊も信じていないのに、同じ唯一の神を信じているといえるのかという話です。わたしたちは、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白していますが、「我は天地の造り主、イスラエルの神を信ず」と言い変えることがえきるのでしょうか。

イスラム教にも三位一体の神という考え方はありません。そして、イスラム教の開祖者であるムハンマドが神かというと、そうではなく、アッラーの神の言葉を伝えた最後の預言者として重んじているだけで、ムハンマドを信仰しているのではないのです。ちなみにイスラム教では、イエスも神に遣わされた預言者として重んじています。そこだけを取れば、ユダヤ教よりも親和性があるといえます。面白いのは、聖霊についての考えで、ムハンマドに神の啓示を運んだ天使ガブリエルを聖霊だと見なすイスラム学者が少なくないのです。もちろん、イエスも聖霊も神ではなく、信仰の対象ではありません。

アッラーの神はアラビア語の呼び方ですが、ムハンマドの啓示によってまとめられたコーランの中での唯一紳ですので、わたしたちが信じる唯一の神と同じかと言われれば、同じであるけれど、信仰の対象にはなり得ません。わたしたちが信じるのは、「主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神」であり、その唯一の神は、三位一体の神だからです。

では、唯一の神が三位一体の神であるとはどういうことでしょうか。三位一体という言葉についえは、三つの異なるものが協力しあったり、緊密な関係であったりすると。それを三位一体という言葉で説明されることがあります。小泉政権の時代、地方分権を進めるために三位一体改革が提唱されたことがありました。一方で、聖書には三位一体という言葉は出てきません。三位一体とは,教理上の言葉です。

以前に毎月発行する長老会だよりで、日本基督教団信仰告白の短い解説を続けたことがありました。ある時期から次月の礼拝予定を入れることになり、41回目の「主の再臨」のところで休止状態となっています。あらためてそれを読み返すと、8回目で三位一体の神について解説していました。そこを読んでみます。

「先回は日本基督教団信仰告白の第二段落にある「唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神」であるという話をしましたが、どうすれば分かりやすく言い表せるか、「太陽と熱と光」、「水(液体)と氷(固体)と水蒸気(気体)」など、ずっと考えていました。これを三つの位格(ペルソナ,Persona、人格)ととらえたとき、「わたし」は一人だけれど、親から見れば「子ども」、子どもからみれば「親」、妻から見れば「夫」となります。そういう説明で十分とはいえませんが、それ以上の説明は難しいと思っています。三位一体とは、理屈ではなく信仰の言葉です。
三位一体という言葉自体は聖書の中には出てこいないので、人間が作り出した言葉として批判的な見方がされることがあります。しかし、三位一体の信仰を抜きにして聖書を正しく理解することはできません。むしろ、聖書を正しく理解しようとした結果として、三位一体の信仰が生まれてきたと考えることができるのです。」

あらためて読んで、分かりやすい解説だなと思いました。けれども、三位一体の神は説明しやすいものではないと思いますし、日本基督教団信仰告白も「三位一体の神」という言葉を出しながら、細かな説明まではしているとはいえないのです。では、言いっ放しなのかといえばそんなことはなく、後半の使徒信条で詳しく語るのです。使徒信条には、三位一体という言葉は出てきませんが、三位一体の神を信じるという告白です。その意味で、前文に三位一体という言葉が出てくることに大きな意味があるといえます。

讃美歌351番を歌いました。この1節と4節に「三つにいまして一人なる」という歌詞が出てきます。ちなみにインマヌエル宣教団が出している「教会福音讃美歌」という讃美歌集がありますが、そこには、この讃美歌が1番の讃美歌として出てきます。それは「教会福音讃美歌」が、三位一体の神、父なる神、イエス・キリスト、聖霊なる神という配列になっているからです。ちなみに、「讃美歌21」の場合は、目次を見ると「礼拝」から始まります。次に諸式、詩編、教会暦という配列になっています。それに従って、ペンテコステの翌週が三位一体主日なので、三位一体の神をたたえる讃美歌も354番という後の方に出てくるわけです。この配列は、20世紀終わりの礼拝改革という世界的な流れの影響を受けています。礼拝から始まると言っても、ミサの様式にそっているので、どうなのかなという思いを正直言って持っています。他にも三位一体の神の栄光を賛美する頌栄と呼ばれる短い讃美歌があります。24番から29番までがそうです。普段の礼拝では、礼拝の前か後のどちらかで歌うようにしています。今日に限っては、礼拝初めと終わりの両方歌うようにしました。

さて、さきほど紹介した、長老会だよりに記した三位一体の解説でも、次の文章を続けています。
「毎週の礼拝の初めか終わりに歌う讃美歌は、父と子と聖霊の三位一体の神をたたえる頌栄を選んでいます。賛美の後の祝祷では、コリントの信徒への手紙二13章13節「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」の聖書の言葉をそのまま読むことにしています。牧師が祝福を祈るという以上に、神の祝福を宣言するという思いをもって。礼拝堂から出ていく一人一人の一週間にどんなことがあったとしても、三位一体の神の名による永遠の祝福に守られているのです。」

牧師の役割というのは、極端な言い方をすれば、父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、祝福を告げることだと言ってもいいのではと思いました。わたしたちは、唯一の神を信じていますが、その唯一の神は、わたしたちの造り主である父なる神であり、わたしたちを罪と死の滅びからに救い主である神の独り子、イエス・キリストであり、今もわたしたちの人生を助け、導いてくださる慰め主なる聖霊なのです。キリスト教会は、旧約聖書も正典としていますが、旧約だけでは三位一体の考えを見つけることはできません、父なる神が御独り子をお送りくださり、父と子が聖霊を送ってくださいました。父と子と聖霊の三位一体の神の豊かな交わりの中で、わたしたちの人生は、永遠に育まれていくのです。