聖書  詩編139編23~24節
    コリントの信徒への手紙二13章1節~10節
説教 「自己吟味のすすめ」田口博之牧師

「わたしがあなたがたのところに行くのは、これで三度目です」という言葉から、今日のテキストは始まっていますが、わたしは今日の説教を皆さんへのお詫びから始めねばなりません。というのも、前回の説教12章14節の「三度目の訪問を準備しようとしている」という言葉を受けて、「実は、パウロの二回目の訪問の記事は、聖書には出てきません。おそらくとても短い訪問だったと思います」と話しました。

これは多くの注解書を鵜呑みにして語ったのですが、今日の準備をしている中で別の注解書を読んでいると、「パウロは二度目のコリント訪問のときに三カ月を過ごした」と記されていました。「あっ、まずい。嘘をついたことになる」と思って調べてみると、見つかったのですね。使徒言行録20章1節以下です。「この騒動が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した。そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ましながら、ギリシアに来て、そこで三か月を過ごした」とあります。確かにコリントとは書いてないのですが、パウロがギリシアといえば、コリントと考えて間違いないだろうと思います。たいへん申し訳ございませんでした。AIはよく間違えると言いますが、注解書の間違いもよくあります。牧師も間違えます。やはり、聖書そのものをよく読むことが大事だなと思わされた次第です。

さて、この三度目の訪問の目的が何かといえば、前回の説教で主題とした言葉を用いることができます。それが12章19節にある、「すべてはあなたがたを造り上げるため」です。今日読んだところの最後13章10節でも「遠くにいてこのようなことを書き送るのは、わたしがそちらに行ったとき、壊すためではなく造り上げるため」とあります。

パウロは、コリントの信徒への手紙二の結びで、わたしの訪問に備えることを結びの言葉としているのです。その備えとして、もう一つ述べていることが、5節「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい」という言葉です。今日の説教題も「自己吟味のすすめ」としました。この「自己吟味」については、後で改めて述べることにしますが、パウロは自分の訪問に備えるよう呼び掛けています。

誰でもお客さんを迎える時には、それなりの備えをするものです。教会で講師をお呼びして伝道集会を行う時に、何の準備をしないのは考えられないことです。少しでも多くの人に来ていただくために、チラシを作ったり、知人を誘ったり、愛餐会の準備をしたりします。家庭においてもそうでしょう。我が家の場合は、子育てはとうの昔に終わって二人暮らしとなっています。それでもたまに孫を連れて帰ってくるとすれば、普段は使っていない部屋を掃除したり、しまい込んでいた布団を干したりします。

皆さんが誰かのところに行くとしても、気を遣わなくていいと思いながらも、迎える姿勢が出来ていたとすれば嬉しいものです。パウロからすれば、次に訪ねた時に自分をがっかりさせてくれるなという思いを伝えたかった。いや、それ以上にパウロの思いは強いものでした。それは2節の「以前罪を犯した人と、他のすべての人々に、そちらでの二度目の滞在中に前もって言っておいたように、離れている今もあらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったら、容赦しません」という言葉から分かります。

「容赦しません」とは、かなりきつい言葉です。もし誰かから、「今度、こんなことがあったら容赦しない」。と言われでもすれば、震えあがってしまいそうです。そのように言わなければならない深刻な問題が、コリントの教会の中にあるということです。

「二人ないし三人の証人の口によって確定されるべき」とあります。この言葉は申命記に出てきますが、旧約の時代に裁判の判決で用いられ方法でした。イエス様もこの律法に準じて教会を整えようとしたことは、マタイによる福音書18章15節以下の記述から分かります。これは「教会憲法」とも呼ばれるものですが、罪が明らかになったとき、教会はどのように対処するのかという教えです。

イエス様は、兄弟が罪を犯しているのを見たら、まず二人だけのところで忠告し、それで聞かなかったら二人または三人の承認を連れて行って警告する。「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」と言われました。誰かが問題を起こしたときに、その罪をいきなり表ざたにするのでなく、順序を踏んで対処しなさいというのです。「教会憲法」とも呼ばれるのは、教会を造り上げるために必要なことだからです。

コリントには倫理的な問題がはびこっていました。パウロは二度目の三か月間の訪問の時にも対処しようとしたけれど、上手く治めることができませんでした。しかし、いきなり処罰しようとも思ってはおらず、「今度そちらに行ったら、容赦しません」と前もって言っておいたことを、この手紙で思い出させようとしているのです。

そえにしても「容赦しません」とは厳しい言葉です。小学生のときに母親から、「次のテストでこんな点数を取ってきたら容赦しない」と、言われたかどうかは覚えていませんが、こんな点数のテストを見せたら大変なことになると思い、隠したりしたことを思い出します。

その一方で思わされることは、キリスト教は愛の宗教と呼ばれますが、その愛を具体的に表すのは赦しなのにどうしてなの、という思いです。マタイによる福音書18章をんでいくと、イエス様は教会憲法を定めた後で、弟子たちに対して「七の七十倍までも赦しなさい」と言われました。片方で赦しなさいと言っているのに、片方で容赦しないと言っているのですから、どちらが本当のキリスト教なのかと思ってしまいます。

しかし、罪や悪を放置してよいことにはなりません。日本基督教団の教規に「戒規」という規定があります。戒規とは、就業規則にある懲罰規定とは違って訓練規定です。罪を犯した人を罰することが目的ではなく、その人が悔い改めて交わりを回復することが目的です。悔い改めることなく、赦されているからと言って好き放題なことをしていたら、教会の秩序は保てません。パウロは、この問題を放置すれば、その人のためにならない、キリストの栄光を傷つけることになってしまう。キリストの教会を造り上げるためにも、罪を放置するわけにはいけないと思ったのです。

コリントのもう一つの問題の一つは、パウロの後に入って来た偽使徒たちが、異なる教えを吹聴した上に、自分たちは推薦状を受けていることを良いことに、推薦状もないパウロは使徒ではないと批判したことでした。3節に「証拠」という言葉が出てきます。これは、コリントの信徒たちが偽使徒たちに惑わされて、パウロが本物の使徒であるならば、その証拠を求めていたことを受けています。とはいえ、そんな証拠を見せるなど不可能です。パウロは、病人をいやすなど、奇跡の賜物を持っていました。でもそれは、使徒であることの証拠として見せつけるものではありません。イエス様も自分のため、メシアとしての証拠を見せようとしたことは一度もありません。

目に見える証拠を求めるのは、現代人だけが求めるものではなく、昔からそうだったのです。そもそも信仰とは、「見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ」ことです。「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と、パウロがこの手紙の4章18節で語っているとおりです。目に見える証拠があって信じることができたとしても、それは信仰とはいえません。信仰とは、見たから信じるものではなくキリストとの生きた関係に入るということです。飛び込んでみて初めて分かるのが信仰なのです。どれだけ見える証拠があったとしても、それは見えるものによって支えられているに過ぎないのです。

パウロは、二度目の訪問の時に強い態度を取ることはありませんでした。牧会者としての魂をもって柔和に接しました。しかし、そのことのゆえに、コリントの信徒たちに弱い人だと舐められてしまったのです。

わたしはパウロという人に魅力を感じるのですが、その魅力の一つが、強い人だったのか、弱い人だったのか、よく分からないところにあるということす。迫害を受けて、何度も死ぬような経験をしましたが、それに耐え続けることのできたパウロは、明らかに強い人です。そして「手紙は力強い」と言われながらも、この手紙では強さではなく、弱さを誇っています。

4節以下でパウロは、自分の弱さと強さを、キリストの弱さと強さに結びつけて語っています。キリストの弱さとは、十字架で処刑された弱さです。神であるならば死ぬことはありませんが、人となられたがゆえに、その弱さのゆえに死んでしまいました。しかし、キリストは弱いだけでは終わりませんでした。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです」とあります。死にて葬られた後、復活し、天に昇り、全能の父なる神の右で、世界を統べ治めておられます。

パウロは「わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています」と言います。パウロの願いは、弱いと思えるわたしの姿を通して、キリストの強さを見てほしかったのです。そのことが、5節の「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい 」という言葉に通じます。

人を批判するとき、自分のことは見えていないものです。往往にして、自分を正しい側に置いておいて、その正しさが基準になって誰かを批判します。コリントの信徒たちがパウロを批判するときも同じでした。パウロは、「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい 」と言いました。人を批判する前に、「自分を反省し、自分を吟味」することを勧めたのです。自分を安全地帯に置いたままで、批判ばかりしていてはダメなのだというのです。

ここに「信仰を持つ」という言葉が出てきます。信仰者のことを「信仰を持つ」という言い方をすることがありますが、「持つ」といっても、信仰を自分の所有物のように持つということではありません。そうだとすれば、信仰を捨てることができることにもなってしまいます。信仰とは、自分の判断で持ったり捨てたりするようなものではありません。ガラテヤの信徒への手紙に「生きているのは、もはやわたしではありまえん。キリストがわたしの内に生きておられるのです」とあります。信仰を持つとはキリストとの関係に生きることです。「キリストによって生かされているといえますか」と問われたときに、「はい」と言えるかどうか。それが信仰による自己吟味です。

6節以下に、失格者とか適格者という言葉が出てきますが、これも信仰の自己吟味によって判断されるべきことです。つまり何がしか善と悪を判断する道徳的規準によって、失格者か適格者かという判断がなされるものではなく、「イエス・キリストがあなたがたの内におられる」のかどうかを常に吟味しなさいというのです。

「それはわたしたちが、適格者と見なされたいからではなく、たとえ失格者と見えようとも、あなたがたが善を行うためなのです。」とあります。パウロは、コリントの信徒たちに使徒として適格者と見なされたいと思って、このように言っているのではありません。たとえ自分は失格者と見えたとしても、悔い改めて善を行うようになってくれればそれでいい。親が子どものことを思う気持ちと同じです。

8節に「わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。」とあります。自己吟味は、真理に照らして判断されるべきものです。そのように言うと難しく思えてしまうのですが、わたしが聖書で「真理」という言葉と出会ったとき、いつも思い出すのが、イエス様が言われた「わたしは道であり、真理であり、命である」です。ですから、真理という言葉をイエス様に置き変えて読めばよいのです。ここでは、「わたしたちは、何事もイエス様に逆らってはできませんが、イエス様のためならばできます」というように。

キリスト教信仰とは、人はこのように生きれば救われるというものではありません。そうではなく、救われるに値しないにわたしが、神の一方的な恵みによって救われている。その恵みに応えて生きるのがキリスト教信仰です。数われるに値しないわしのために、キリストが死んでくださった。その恵みに気付くことが信仰の自己吟味です。自己吟味できていれば、いたずらに人を批判することの愚かさも知らされます。

詩編139編の詩人は、「神よ、わたしを究め わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。御覧ください わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを とこしえの道に導いてください」と祈りました。詩人は、自分で鏡を見つめ続けたとしても、本当の自分を知ることができないことを知っていたがゆえに、「神よ、わたしを究め わたしの心を知ってください」と祈ったのです。自分で自分を知ることよりも、神がわたしのことを知ってくださっていることの方が確かであることを知っていたのです。

9節はパウロの祈りです。「わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています。」ここでいう「完全な者」とは、信仰の自己吟味ができている人のことを言います。「あなたがたが強ければ喜びます」も同じで、キリストを土台とした信仰にしっかり立って、教会を造り上げる手足となるならば、わたしは喜びますとパウロは祈ります。

そして、使徒の権威により「容赦しない」ときついことを述べてきたけれども、わたしの真の願い、この手紙を書いたのは「厳しい態度をとらなくても済むようにするためです。」と言うのです。パウロは人間の弱さを知っていました。訓練と言っても厳しいことをすれば、人は脆くも壊れてしまうことを知っていたので、わらしが主から与えられた権威は、「壊すためではなく造り上げるため」のものでした。

パウロはコリントへ三度目の訪問をすると言ってこの手紙を結びました。備えをすること、自己吟味することを求めました。しかし、コリントへの二度目の訪問についてはうかつなことを言ってしまいましたが、パウロがコリントへ三度目の訪問をしたかどうかについては、聖書は記していないのです。

そこで思わされることは、パウロはこの手紙で自身の弱さと強さをキリストと重ねていました。わたしたちもこの手紙を、2千年前にコリントの信徒たちに宛てた手紙というだけでなく、わたしたちに宛てた神の言葉として読んできました。わたしたちは、主の訪れを待っています。でも、まだその時は来ていません。しかしそれは、まさにペトロの手紙二3章9節にあるように、「主は約束の実現を遅らせているのではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、忍耐して待っておられるのです。」厳しい態度を取らなくて済むように、わたしたちが目を覚ましていることを待っていてくださいます。主の期待に応えられるよう、自己吟味して備えることができますように。