聖書  イザヤ書2章2~4節、 ルカによる福音書17章21~22節
説教  「到来する神の国」田口博之牧師

8月第1週は「平和聖日」です。世界のニュースで、今もなお争いや対立が絶えない国や地域があることをわたしたちは知っています。多くの人々が傷つき、苦しんでいる報道を見ると心が痛みます。先週、熊本で最大震度7という大きな地震が起こり、多くの尊い命が失われました。このような災害が起こったとき、マグニチュードや震度以外に、犠牲者の数で被害の大きさをとらえてしまうこともあります。けれども、「一人の命は地球よりも重い」と言われます。一人の命の価値は数量で計ることはできません。愛する人を失った方、大切な友を失った方に主の慰めがありますよう切にお祈りいたします。また、命の危険すらある猛暑の中、片付けや復旧作業に当たっている方、避難所で不自由な生活をされている方たちの上に、主の守りがあることを祈ります。

あるアンケートによれば、日本が平和だと感じている人は5割以上いるけれども、世界が平和だと思っている人は2割ほどしかいないとのことです。それでも、わたしたちの周りには、差別、貧困、いじめ、ハラスメント、将来への不安、ネット上に溢れる誹謗中傷や分断するような言葉が溢れています。

そのような社会に生きているわたしたちですが、教会に連なることで、聖書の言葉によって、また教会員との交わりをとおして、たくさんの慰めと励ましが与えられています。今朝の平和聖日にあたって、「神の国に向かう共同体」という年度標語に照らしながら、旧新約聖書から聖書箇所を選ばせていただきました。聖書でいう平和は、ただ戦争がない状態ということではなく、完全な調和です。平和を実現するためには、神との正しい関係を取り戻すことが大前提にあることを心にとめる必要があります。

はじめに、イザヤ書2章の御言葉に目を向けたいと思います。イザヤが預言活動した時代は、大国アッシリアの侵攻により、北イスラエル王国は滅亡へと至り、エルサレムのある南ユダ王国も危機にさらされている時代でした。そのような危機の中で、神はイザヤに希望の言葉を託します。今日のイザヤ書2章もその一つです。ここでは、世界の平和がエルサレムを中心に実現するという、壮大なビジョンが語られています。

2節に「終わりの日に 主の神殿の山は 山々の頭として堅く立ち どの峰よりも高くそびえる」とあります。主の神殿の山とは、エルサレムのことです。イザヤは国家存亡の危機の中で、神の都エルサレムが、世界の中心となるという預言するのです。そして、多くの民が、「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」とあるように、世界中の人々が、神の教えを求めにエルサレムに来ると言うのです。

さらに4節では、「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」と語ります。今日歌った讃美歌の歌詞にも、「剣を鋤とし、槍を鎌とす」とありました。これは単に「武器を捨てて戦いをやめる」ということだけではありません。「剣」や「槍」という人命を奪うこともできる兵器が、「鋤(すき)」や「鎌」という命を育み、生きる糧を得るための生産の農具へと作り変えられるというのです。互いに戦う世界ではなく、共に生きていける世界に変えられるという預言するのです。イザヤは、神の言葉が聞かれることによって、すなわち神との正しい関係が取り戻されることで、「もはや戦うことを学ばない」という平和な世界が到来するのだと、ユダの民に希望を与えたのです。

ところが、この御言葉が一つの拠り所となって、19世紀後半から「シオニズム」運動というものが生まれてきました。シオニズムについて礼拝で詳しく暇はありませんし、また別の機会でお話くださいと頼まれたとしても、それもあまり意味のないことです。なぜなら、シオニズムという考え方自体が聖書的とはいえないからです。少なくとも旧約の約束の土地を、現代の国家としてのイスラエルに適用することはできません。神の約束は、土地の取得ではなく、イエス・キリストによって、信じる者が血縁によらず神の子とされたことで実現したのです。そして神の子とされた者たちが集められた教会共同体によって、神の御名が賛美されることで神の国は実現するのです。

神の国と言いますが、神の国とは神が支配されるところです。そこにこそ平和が実現します。人が支配するところでの平和、すなわち戦争や内乱のない状態は、自分が力を持つことで、相手が歯向かっても無駄、太刀打ちできないと思ったところで生まれます。当然のことながら、そこにいたるまでに争いは続きます。

平和は、人間の政治的な駆け引きとか、武力による抑止力によってもたらされるものではありません。イザヤの預言のとおり、すべての国民が「主の山」に登り、神の教えを聞き、神の道に歩むことで実現します。「もはや戦うことを学ばない」ことで、相手を滅ぼそうとするエネルギーは、互いを生かし合い、共に育むためのエネルギーへと造り変えられます。それは、神ご自身の御業なのです。

では、イザヤが預言したような神の国、神の平和は、いつやってくるのでしょうか。今日共に読んだルカによる福音書17章で、ファリサイ派の人々がイエス様に「神の国はいつ来るのか」と尋ねました。それに対してイエス様は、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と答えられました。

どうでしょう。ファリサイ派の問いとイエス様の答えは、噛み合っているとは言いにくいところがあります。ファリサイ派の人々の「いつ」という問いにイエス様は答えられず、「どこに」という答え方をしているからです。

その前に、イザヤが預言したような完全な平和の実現と、ファリサイ派の人々が尋ねた「神の国」も同じだとはいえません。イザヤの預言が反ユダヤ主義への対抗として、シオニズム運動が起こったように。ファリサイ派の人々も、ローマの支配を解放するメシアの到来とともに、神の国は来ると考えていたからです。それは、考えようによってはシオニズムと近いところにあるともいえます。

しかし、イエス様が答えられた神の国は、病人や障害を持つ人を癒やし、孤立した者に寄り添い、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と、宣べ伝えているところにすでに現われているのです。イエス様がいるところ、その言葉とわざにおいて、神の支配はすでに始まっているからです。つまり、イエス様ご自身が神の国の実現なのです。神の国は来ているのに、神が支配されているのに、いつ来るのかと問うているのですから、問いと答えが噛み合っていないのは当然です。

それにしても、イエス様がファリサイ派の人に対して、「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われたことを、ずっと不思議に思っていました。なぜなら、イエス様とファリサイ派とは対立関係にあったからです。弟子たちに対して言われたのなら分かります。弟子たちの中心には、いつもイエス様がいらっしゃいました。イエス様の弟子であるわたしたちの間にイエス様がいてくださるのは慰めです。でも、ファリサイ派の人々はイエス様を敵視していました。律法の掟に一字一句正しく生きようとしていたファリサイ派の人々にとって、律法を守らない罪人や徴税人たちと食事をするほど親しくしているイエスは赦せない存在だったはずです。

ですから、このファリサイ派の人々問いは、イエスを試し落とし入れようとしていたのだと考える解説者がいます。他方、「神の国はいつ来るのか」というこの問いは、表裏のない素朴な問いだと考える解説者もいます。わたしもそのように思います。なぜなら、それほどに彼らは、神の国の到来を待ち望んでいたからです。真面目に生きているからこそ、神の国がいつ来るのかを知りたい。そう思うのではないでしょうか。

わたしたちが生きるこの世にも、たくさんの痛みがあり、苦しみがあります。様々なうめきのある世の現実の中で、神の支配を見ることは簡単なことではありません。神が生きておられるというのなら、なぜこんなことが起こるのか、神の国はいったいいつ来るのか。ファリサイ派の人々の問いは、わたしたちの問いと重なるところがあります。

そんな素朴な問いに対して、イエス様は「神の国はあなたがたの間にあるのだ」と答えたのです。以前の口語訳では「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」とありました。この訳は、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない」という言葉も手伝って、心の中にあるというように、個人の内面のこととしても理解されがちでしたが、そうではありません。「あなたがたの間」とは、「あなたとあなたの間」、わたしたちの集まりの真ん中にあるということです。

イエス様が、敵対関係にあるファリサイ派の人々に対して「あなたがたのただ中にあるのだ」と語られたのは不思議だったと言いました。いくら素朴な問いだったとはいえ、そこまで言ってあげる必要はないのではないかと。でも、そこで思い出されたのは、マタイによる福音書18章で、イエス様が「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」という言葉です。

この言葉は、仲が良い二人、三人の中にイエス様がいるということではありません。前後に語られていたのは、罪を犯した人に対して、どう対処すべきなのかということでした。わたしたちの間でも、言葉が通じ合わない、信頼関係が失われている、出来れば目を合わせないようにして生きていくしかないのではと思える状態に置かれることがあります。でも、そんな難しい関係にあるあなたがたの間にわたしはいるのだと、イエス様は言ってくださったのです。

わたしたちは和解というと、人間同士の和解、仲直りをまず考えますが、人と人との和解には限界があります。裁判での和解も落としどころを決めることでしかありません。真の和解は、二人、三人いるところにイエス様が共にいてくださることで開けます。イエス様が十字架に死んでくださったことで、神が和解してくださったからです。神との間に平和を得ることで、はじめて人と人との間も平和を得ることができます。それは、国と国との争いでも同じことです。「剣を鋤に、槍を鎌に」打ち直すことさえ、絵空事ではなくなるのです。

イエス様がファリサイ派の人々に対して、「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われたということは、単にイエス様がそこにいてくださるということではなく、神に敵対する人々のいるただ中に、神の子が来てくださったということです。イザヤが「平和の君」と預言したイエス。キリストが来てくださったこと、十字架と復活という人の思いをはるかに超える仕方で「神の国」、神の支配は到来したのです。

それでもこの世には「神の支配はどこに」と思えるようなことが溢れています。復活されたイエス様が天に昇られて、目には見えない存在になられたことで、神の国は遠ざかってしまったとさえ思ってしまいます。でも、だからこそわたしたちは、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない」とのイエス様の言葉を心にとめたいのです。わたしたちがこのようであればと思うことを、自分の理想とする世界を、神の国に投影してはいけないのです。

そのことを踏まえた上で、神の国は「すでに到来した」けれども、「いまだ完成していない」という間を生きていることを自覚する必要があります。だからこそ、週毎の礼拝でも日々の生活でも折々に触れて「み国を来たらせたまえ」と祈るのです。この祈りは、「神の支配がこの世界に広がり、剣が鋤に、槍が鎌に打ち直される日が来ますように」という祈りです。神の国の実現であるイエス様ご自身が、そのようにして神の国の完成を祈ることを命じられたのです。

この世では神の国はまだ完成はしていません。なぜなら神との関係が回復されていないからです。けれども、イエス様によって、すでに始まっています。教会が誕生したことがその証しですし、「すでに」と「いまだ」を生きていることを知っている教会の務めは、この世にあって、神の国を証しすることです。

人の力で、世界の争いを止めることなどできません。わたしたちも社会活動に参加することがあると思います。そのときに忘れてならないことは、主語を自分ではなく神とすることです。自分を主語にすると、自分はこれだけのことをしているという満足を求めるようになります。そうではなくて、神が何を願っているのか御心を聞いて、神の手足となって仕えるということです。主語はあくまでも神様です。そのときに、それらの働きを通して神の国を証しすることができるのです。

神の国の完成と、聖書が語る平和の実現は同じです。その平和は、まさにイザヤが預言したとおり、諸国民が神の教えを受けることによって、神との関係も、人との関係も回復され、被造物との調和が回復されることで生まれます。

その日、その時は、天に昇り、神の右に座しておられるイエス様が、かしこより来たりて、すべての者を裁かれることで実現します。イエス様が再び来てくださる日には、わたしたちが抱えるあらゆる矛盾は取り除かれ、すべてのことが明らかにされます。ですからわたしたちは、望みをもって「御国を来たらせたまえ」と祈るのです。「マラナタ、主の御国が来ますように」と賛美の歌を捧げるのです。