聖書   イザヤ書40章27~31節      コリントの信徒への手紙二12章1~10節
説教   「弱さを誇る」田口博之牧師

人には強い性格の人もいれば、弱い性格の人もいます。自分の性格に悩む人は少なくありませんが、たいていは弱い性格の人が悩みを持ちます。性格の強い人は、自分の意見が通ることが多いので、悩む必要が少ないのです。他方、弱い性格の方は、自分の意見を押し通そうはしません。それは対立するのが辛いからであって、不満がないわけでないのです。不満があるなら言えばいいのにと思うでしょうが、そう思うのは強い人の考え方です。この世の中は、弱い人が生きづらさを感じるようになっています。

だからといって、強い人も初めから強かったわけではなく、鍛えて強くなった面もあります。あるいは「弱い犬ほどよく吠える」と言われるように、威圧的な言動をすることで、自分の弱さを隠しているのかもしれません。それでも、やはり弱い人は、同じようにはできないものです。だから強さへのあこがれを持ちます。

でもパウロは言うのです。「むしろ、大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と。自分の弱さを自覚しているからこその言葉です。強がって、そのように言っているのではありません。弱さそのものに価値があるとも思っているわけでもありません。弱さの中にこそ、キリストの力が現れるからです。

今日共に読んだ旧約テキスト、イザヤ書の40章からは通常第二イザヤと言って、バビロンに捕囚されて苦しみの中にある民に向かって、将来への希望と慰めを語ったものです。捕囚地にある民は、「わたしの道は主に隠されている」、「わたしの裁きは神に忘れられた」と嘆きます。「わたしは神に見捨てられた」という思いです。しかしイザヤは、主は「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる」と言うのです。「主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」と言うのです。驚くべき言葉です。主の恵みは、自分の力で立つことのできる強い人ではなく、弱さを覚え、自分の限界を知る人に注がれるというのが聖書の教えです。

自分の弱さを自覚していたパウロは、11章30節でも、「大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と語っています。そして12章1節で「わたしは誇らずにいられません」と言うのです。では、ここで自分の弱さを誇るのかと思えばそうではないのです。

今日の第二コリント12章1節から10節は段落としては一つですが、対照的といえる二つのことが語られています。前半ではある人の神秘的な体験を語り、後半で自分の弱さを語ります。5節に「このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」とあるとおりです。

前半の神秘的な体験ですけれども、パウロは2節で、「わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っています」と語り、「その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです」と言っています。また4節で、「彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです」と語っています。

水曜日の聖書研究祈祷会は、猛暑のため昼の部は休会し、夜の部のみ行っています。しかし、このところの暑さにより、先週の水曜日は夜の部もわたし以外に、一人しか出席者がいませんでした。ですから、その方との語らいの中で、今日のテキストを分かち合いました。はじめに「第三の天にまで引き上げられたという神秘的な体験をしたのが誰か分かりますか」と聞いてみると、「イエス・キリストのことではとないですか」と言われました。なるほどと思いましたが、答えは「ブー」です。パウロは「キリストに結ばれた人」のことを語っているので、キリスト自身ではありません。答えは、パウロ自身です。

つまりパウロは、自分自身のことを「その人」とか「彼」と三人称で語ることで、客観視しているのです。ではなぜ、そんな語り方をしたのかといえば、この体験を聞くコリントの信徒たちは、「パウロ先生は凄い人なんだ」と過大評価してしまうからです。コリントの信徒への第一の手紙を読めば分かることですが、コリントの教会は霊的な経験を重んじていました。ですので、第三の天にまで引き上げられて、人が口にするのを許されない言葉を耳にしたことを自分の体験談とすれば、それだけで持ち上げられてしまうからです。それはパウロが望むことではありませんでした。

第三の天とありますが、当時のユダヤ人は、天は三つの層に分けられていると考えていたようです。その考え方は自体はおかしくはなく、現代科学でも大気圏という時に、飛行機が飛ぶ対流圏、その上には成層圏があり、その上に中間圏、熱圏と呼ばれるものがあって、宇宙区間に入るわけです。第三の天は、当時のユダヤ人が考えた最も高いところにある天のことであり、「体のままか、体を離れてか知りません」と二度も繰り返しているのは、我を忘れるほどに霊的な状態に陥ったからです。

第三の天に引き上げられたのは、「十四年前」のことと言われています。聖書学者の多くは、14年前というのは、使徒言行録11章にありますが、バルナバがパウロを捜し出して、アンティオキアにいた頃だと語っています。

わたしが松山にいた信徒の時代、分区が著名なパウロ研究者を招いて、その講演を聞いたことがあります。でも講師は、パウロの信仰や具体的な活動ではなく、紀元何年頃にどこいたとか、どの手紙をいつ頃書いたという話を延々と話されました。その方がアンティオキア説を述べたかは覚えていませんが、研究者が計算すれば、14年前のアンティオキア滞在の時期が当てはまるということなのだと思います。

でも大事なのは、そこではありません。第三の天も、楽園(パラダイス)という言葉で言い変えられているように、この世ではないところ「体のままか、体を離れてかは知りません」といえるところに引き上げられたということです。臨死体験と言う言葉は適切ではない気もしますが、実際にパウロは、前に述べているように「死ぬような目にあったことも度々」だったのです。

いずれにせよ、このような経験は、パウロにとって誇らしいことだったはずです。しかし、人に誇るべきことだとも思っておらず、あくまでもコリント教会に入り込んだ偽使徒たちに対抗するために語ったのです。しかし、これを自身ではなく、第三者の体験として客観的に語ったのは、福音の本質ではないと考えたからです。キリストの福音でなく、パウロに関心が向いてしまってはいけないと思ったのです。

パウロにとって、より重要なのは7節以下です。第三の天に引き上げられたというあまりにも素晴らしい体験のゆえに、思い上がらないように、一つのとげが与えられたというのです。このとげとは一体何でしょうか。いくつかの説がありますが、とげというのですから、何らかの痛みを伴うものであったことは間違いありません。

アフリカでの地域医療に尽力し、ノーベル平和賞を受賞したアルベルト・シュバイツァーがいます。シュバイツァーは神学者でもありました。シュバイツァーの著作にパウロの内面を掘り下げたものがあります。この12章で語られているパウロの神秘的体験と病気のどちらも、シュバイツァーの専門分野に属していました。シュバイツァーは、聖書の記録だけでは、その病名までを確定することはできないけれども、その病気が発作を伴うものであることは、ガラテヤの信徒への手紙で伺えると述べています。

ガラテヤの信徒への手紙というのは、4章13節。14節の記述です。「知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。 そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。」

シュバイツァーは、「忌み嫌う」というギリシャ語が「唾を吐く」とも訳せる言葉であることに注目します。当時の人々は、奇妙な病気に取りつかれた人たちに対して唾を吐きかけた。それは、その病気が悪霊の仕業と考えられ、この悪霊から身を守るためでした。特に、てんかん病と精神病の患者に対してそのように防御したと言われます。パウロは病名も病状も書き残してはいません。それはコリントの信徒たちなら分かっているから書かなかったのかもしれませんし、パウロとして言うのも辛かったのかもしれません。しかし、聖書の読み手からすれば気になります。聖書学者たちの意見は一致してはいませんが、シュバイツァーの所見が参考されていることは興味深いことです。

パウロはこのとげについて、「わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです」と述べています。サタンが送ったというのですから、福音宣教の妨げになるものだということです。人々のつまずきになるような病気を持っていたのです。「この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました」とあります。三度とは文字通りの三度ではなく、何度も繰り返し願ったということです。しかし、主の答えは「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」というものでした。パウロにとって迷惑でしかないサタンから送られたとげが、必要なものなのだと主は言われたのです。何でサタンの働きを認めるのかと思いたくもなりますが、サタンもまた神の手の中にあるということです。旧約の義人ヨブを試みるために、神の許可をもらったサタンのことを思い出します。ヨブにとって大きな苦難となりましたが、そのことを通して神の栄光が現わされました。

わたしたちも、これさえなければ、と思うようなとげを持っているのではないでしょうか。思い病気になれば、良くなるように祈るのは間違いではありませんし、そうなるにこしたことはありません。でも、よくなったら信仰が深まるのかといえば、それはよく分かりません。むしろ、弱さが与えられているからこそ、わたしたちは祈ることができるのではないでしょうか。主の恵みは、パウロを痛めつけるとげ、弱さの中で発揮されました。だからこそパウロは、「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています」と言うことができたのです。

それにしても、とげという表現を用いているのは面白いなと思います。幼い頃、虫眼鏡でようやく見えるようなとげが指先に刺さることがしばしばありました。幼心に痛いのは指先だけど、それで泣いてしまうような痛みになることを不思議に思ったことがあります。今、歯の治療をしていますが、ひどくなると歯が痛いだけでは収まらず、以前には礼拝を休んでしまったこともあります。シュバイツァーに準じて、とげを何らかの病気として解釈しましたが、「とげのある物の言い方」という表現があります。そのような言い方が、人の心を突き刺して立ち上がれなくすることもあります。

先週の説教の終わりに、わたしも「皆さんが思っている以上に弱さを抱えている」というお話をしました。聞いていて、そんなことはないでしょうと思われた方がいらっしゃるかもしれませんし、いや、そうだろうと思われた方もいらっしゃると思います。これまで皆さんの前で公言することはなかったのですが、わたしがもっとも弱さを覚えるのは吃音です。言葉が詰まったり、繰り返したりすることがあることをご存知の方は多いはずです。吃音は病気ではなく発声障害なので、治ることはありません。緩和することはありますが、生涯付き合っていくしかないのです。

これまで公言したことがなかった理由は、知っていても、そのことを敢えて指摘する方はおられませんし、わたし自身も知られていなければ、知らないままの方がいいと思っていたからです。なぜそう思かといえば、知っていたとしたら、「牧師は今日の説教をどもらないでできるかしら」と心配させてしまうからです。そのような様子に、わたしはすぐに気づいてしまうので、あまりよいことにはなりません。中学三年のときに絶対にわたしに音読を当てない国語の先生がいました。その優しさに感謝すると共に、苦しさを覚えたこともあります。

ではそんな自分の弱さを、今なぜは話しているのかといえば、それは弱さをも誇りとするパウロに触発されてというのが直接の理由ですが、名古屋教会の牧師となって10年という区切りもあり、いろんなことを見つめ直しているからです。また、間接的な理由というか、きっかけがありました。

一つは、先々週の木曜日に散髪をしに行ったときのことです。待ち時間に中日新聞を読んでいると「吃音と生きるあなたへ」と言う記事がでていました。こういう記事を読むことも避けていたところがありますが、読んでいると内容はすべてよく分かるものでした。ところが一度の記事ではなく、次は23日と書いてあったので、先週の木曜日にはコンビニで買いました。そこに書かれてあった内容も共感できるもので、自分と重ねながら読んでいました。これで終わりかと思っていたら、その記事は「中」であり、今週木曜日30日に「下」が出ることが分かりました。

また、これもたまたまなのですが、金曜日に帰宅した後でテレビリモコンのチャンネルを触っていると「リーガルビート」というドラマが始まるところでした。弁護士ものか、と思って見ていると、主人公は吃音の弁護士でした。これも、そうなんだよなと思える内容でした。たまたま目にした新聞記事、たまたまつけたドラマが、そのような内容だったわけですが、実はキリスト教の考え方において、人との出会いもそうですが、たまたまという考え方はなく、そこに何らかの神の示しがあるものと考えるのです。それが何かは、よく分かっていないのですが、今日の説教で話をするように主が導かれたとしか言えないことです。

それでもわたしなどは、たくさんの人前で話が出来ているのですから、たいしたことはないと思えるかもしれません。でも、たいしたことないわけではなく、努力や工夫を重ねています。だからといって、自分と同じような考え方や努力を勧めようとは思いません。それは強い人が考える論理です。それでも、そのようなとげ、弱さを持ちながらも、このように牧師をしていることがいることを知り、勇気が与えられ、希望を持つ人が一人でもいるとすれば、それは感謝でしかありません。そのようにつたないものを用いてくださる神を誇ることができます。

皆さんも、それぞれに弱さ、これが取り去られたらどんなに楽なことかと思うとげを持たれていると思います。でも間違いないことは、それらはすべてイエス様がご存知であり、一緒に担ってくださっています。そして教会もまた、弱い者が集められ、共に生きていくところです。パウロはコリントの信徒への第一の手紙11章で「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」と言いました。そのようにして互いに支え合って歩むことを教会に求めておられるのです。

最後に今日のテキストの9節と10節を読んで、続いて祈りをいたします。
「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」