聖書 出エジプト記4章10~17節、マルコによる福音書2章13~14節
説教 「主の召しに応えて」 田口博之牧師

今日は旧新約聖書から、モーセと徴税人レビ、二つの召命の記事を取り上げました。召命、召しという言葉は、キリスト教用語といえるかもしれませんが、呼び寄せるという意味の言葉です。主なる神は、神の国の働きのために、人を呼び寄せ、人を用いられます。

では、主はどういう人を召そうとされているのでしょう。はっきり言ってそれは分かりません。人間が考えるようなこういう条件が満たしていれば、ということではないのです。全イスラエル王となったダビデは8人兄弟の末っ子でした。親もダビデが選ばれるとは思っていませんでした。ところが、主はこう言われたのです。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」のだと。つまり、当然この人が選ばれると思う人が選ばれるわけではないということです。そして選ばれた人は、なぜわたしなが召されたのかと思うものなのです。

モーセは自分がイスラエルの指導者として選ばれたことに唖然としました。今日は出エジプト記4章10節以下を読みましたが、モーセの召命の記事は3章に記されています。主は燃えつきない柴の中からモーセの名を呼ばれ、イスラエルの民をエジプトから導くようにと命じます。「わたしは必ずあなたと共にいる」。と約束し、「わたしはある。わたしはあるという者だ」というご自身の名を証しされます。それからもずっと、主はあの手この手を尽くしてモーセを説得します。そして言葉だけではなく、目に見えるしるしも示します。杖をへびに変えるとか。それでも、モーセは主の召しに応えようとしません。

今日読んだ4章10節では、「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌が重い者なのです」と言って、自分が言葉の人ではないことを理由に、主の命令を断るのです。

確かに口が重く、舌が重いというのは、指導者にはふさわしくないと思えることです。でも主は、そのようなことは初めから知っておられたのです。主はモーセに「一体、誰が人間に口を与えたのか」。「さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」と言われます。

おそらく、モーセは人前で話すのが苦手とか、口下手だということだけでは済まない話しづらさを持っていたと思われます。それはわたしの一番の悩みでもありますから、よく分かります。名古屋教会の伝道の礎を築いた植村正久もそうでした。言葉がなめらかに出て来ない、一語一句詰まるのです。それでも、植村は言葉をぶつけるように説教し、それが聞く人の心を打ったと言われています。でも、主はその人の欠点もすべてご存知の上で、その人を用いようとされるのです。しかし、モーセは抵抗し続け、「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください」と言い、主の召しを拒絶したのです。断ることしか考えてないのです。それは神の御心よりも、自分の思いを優先したのです。わたしたちであれば、どうするでしょうか。いさぎよく、主の召しに応えることができるでしょうか。

先週の火曜日にある方から電話があり、研修会の講師依頼が入りました。その日は自体は空いているのですが土曜日です。しかもその3週間くらい前までは、予定が詰まっていて、準備する時間がなさそうです。依頼が合ったのは6月ですので、関わっているところの理事会、評議員会が集中し、やがて前後のスケジュールが埋まってくることが見えています。明日返事すると言いながら、5日経ってまだ返事をしていません。返事がないからOKと思っているかもしれませんし、忙しいので電話がないと思っているかもしれません。手遅れにならないうちに一度はお断りしようと思いつつ、今日の御言葉に押し出されそうになっている自分がいます。

主は辛抱強くモーセを説得していましたが、ついに堪忍袋の緒を切らしました。14節から17節を読みます。「主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。『あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている』。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。彼はあなたに代わって、民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。あなたはこの杖を手にとって、しるしを行うがよい」。口が重いことを理由にするモーセに対して、主は雄弁な兄アロンを代弁者として立てることとし、モーセこそがイスラエルをエジプトから導き出す者であることを示されたのです。

以前にこんな説教を聞いたことがあります。主がある青年を召されました。「わたしに従ってきなさい」。ところが彼は、「主よ、私はあなたに従うには、まだ若すぎます。もっといろんなことを学び、社会経験を積んでから従いたいと思います。」そう言って断ったのです。

それから何十年か経った後、主は再び彼に呼びかけます。「わたしに従ってきなさい」。しかし彼は、「主よ、今は忙しすぎます。もう少しすれば、時間ができますから、その時あなたに従いたいと思います」そう言って断りました。

それからまた何十年か経ちました。主は三度彼に呼びかけます。「わたしに従ってきなさい」。その時、彼はこう答えたのです。「主よ、わたしはすっかり老いてしまいました。もう少し若かったらよかったのですが」。

どこか笑い話のようですが、ありそうな話です。前任地でのことですが、幼児洗礼を受けていましたが、大人になってからは教会に行っていない方がいました。わたしよりも年齢は一回り上だったのですが、その方のお父さんの葬儀がきっかけでよく話をするようになり、「先生、今はとても忙しいけれど、定年になったらちゃんと教会に行くから」と言われました。「お待ちしています」と言い、定年を迎えてからも声をかけましたが、「敷居が高いので」と言われ、結局は来てもらえないままわたしも転任しました。

しかし、それとは逆のケースもありました。その方は何十年も会計長老を務めていまでしたが、「定年になったら、もっと教会のために働く、神様のためなら何でもする」と言われました。でも、わたしは正直、疑いました。のんびりしたいと思うのではないかと。ところがその方は、教会学校の校長を引き受け、バザー委員長まで引き受けて教会の奉仕に尽くされました。教区の常置委員、教団の常議員も務められ、死のまぎわまで神に奉仕をし、2年前に現職の教区財務委員長として天に召されました。

わたしたちは、誰かから何かを頼まれたとき、やりたくないと思えば、断ることができます。そういう権利があります。でも、主の召しというのは特別です。主は誰でもいいとは思って呼ばれるのではありません。自分が助けてもらおうと思って呼び出すのではありません。むしろ、その人にとって必要なことだから、この人が働くことで神の栄光が現わされることを信じて呼び出されるのです。牧師として召された人も、わたしがそうだから言うのかもしれませんが、「こいつは牧師にしておかないと、聖書も読まなくなるし、祈ることもしないし、教会にも行かなくなる。だから、あなたを召したのだ。」追い込まれないとやらないわたしはそうですし、同じことを感じている牧師も多い気もしています。でも、そういう人だからこそ、神の御業が現れることがあると思うのです。

あれこれ理由をつけていたモーセでした。でも結局は主の召しに応えました。一方でモーセのようにではなく、イエス様に召されるとすぐ弟子となった人の代表として、徴税人レビがいます。マルコによる福音書2章13節と14節を読んでみます。

「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」

ここで最初に言及されるのは13節の群衆です。イエス様の話を聞くため集まってきたのです。しかし、イエス様は群衆の一人を召されたのではありません。14節「そして通りがかりに」と話は続きますので、13節と14節の間には分断があるように思います。群衆に話をした後そこを去って、通りがかりに仕事中のレビを召し出されたというのですから。

では、なぜレビの召命の前に、群衆に教えられたということを語っているのでしょうか。わたしが気になったのは、 13節の「再び」という言葉です。イエス様は再び湖畔散策をしたいなと思って出かけたのではなく、前にも出会った徴税人レビを召し出すために、湖のほとりに出かけたのではないでしょうか。狙いは初めからレビに定めていたのではないか、そういう意図があったからこそ再びだと思うのです。

イエス様に召されたレビはどう思ったでしょう。おそらくはイエス様のように正面に立って、レビに話しかける人はいなかったのではないでしょうか。皆、レビに呼び止められないように、余分な税金を納めなくてもよいように、彼の前を静かに通り過ぎようとしたのではないでしょうか。あるいは、背後から何か言う人はいたでしょう。15節以下で三度繰り返されているように、徴税人は罪人とセットで語られることが多いです。ローマの手先になって私腹を肥やしていると見なされた徴税人は、ユダヤ人にとっては裏切り者であり、後ろ指を指されていたいのです。背後からの言葉を聞くことはあっても、イエス様のように、面と向かってものを言ってくれる人は誰もいません。しかもこの人は「わたしに従いなさい」と言われる。レビは驚いたと思います。そして、この人について行けば、わたしの人生は変わると思ったのではないでしょうか。この人の目を見て、この人の言葉を聞いて、自分の人生をかけてみたいと思い、迷うことなくレビは立ち上がって、イエス様に従ったのだと思うのです。

でも、わたしたちはこの記事を読んだとき、すぐに従ったということに違和感を覚えたのではないでしょうか。むしろモーセのように、ぐじぐじしてくれた方が、親しみが湧くのではないでしょうか。レビのようにそんなにすぐに結論を出すのではなく、立ち止まってしっかり考えてから決めた方がよいのではないかと。けれども、先延ばししたとしても、先延ばししたときには、別の事情ができているものなのです。

忘れてはならないのは、呼びかけるお方が確かな方であるということです。いい加減な気持ちで「わたしに従いなさい」と言っているのではありません。さだまさしの、関白宣言に「だまって俺について来い」というフレーズがありました。でも、関白宣言よりも先に「だまって俺について来い」という歌があることをご存知の方がいらっしゃると思います。牧師もよくそんな古い歌を知っているなと思われるかもしれませんが、歌ったのは植木等です。「ぜにのないやつぁ 俺んとこへこい 俺もないけど 心配すんな」。「仕事のないやつぁ 俺んとこへこい 俺もないけど 心配すんな…そのうち何とかなるだろう…だまって俺について来い」。何とも無責任な歌詞だなと思いますが、イエス様の招きには責任があります。それでも植木等が歌うように「そのうち何とかなるだろう」という思いをもってついていくという心も必要なことという気がします。

わたしは2007年の地区総会で愛知西地区の会長に選ばれました。ありにも突然で、何という選挙かと思いました。わたしは前の年まで地区委員でもありませんでしたし、たくさんある地区の委員会の委員長すらしたことがありませんでした。教団、教区もそうですが、地区総会でも選挙で地区会長に選ばれたら、その場で議長を交代するのが慣例となっています。ただし、地区委員でもなかったわたしは、どうしてこんな議案が出ているのかも分からない。反対したいと思える議案もりましたので、議案説明だけは前地区会長にしていただきました。後になって早乙女先生が、そのときの地区総会に出た長老が、この世の総会のように筋書きもなく、とても面白かったという感想を「土器」に書いていると教えてくれました。今は愛知西地区総会もおとなしいのですが、20年前は皆若かったですし、血気盛んなところもありました。どうなることかと思いましたが、でも何とかなったのです。

その後も、なぜわたしが、と思うようなことはたくさんありました。名古屋教会の牧師になった10年前も、すぐに幼稚園おひさまマンション問題があり、やがて裁判にもなりました。今もいろんな問題の責任を負わねばならないことも、たくさん抱えています。それでも、神さまはいつも何とかしてくださっているのです。今も説教ができないで、どうしようと思うことはしばしばです。今朝もそうでしたが、多分何とかなっています。それがわたしにとっての財産になっていて、神様は牧師にならなければ見ることができなかった景色を見せてくれていると思い、感謝しています。

主がなぜレビが召されたのか、その理由は分かりません。しかし、はっきりしていることが一つあって、レビの方からが求めたのではないということです。レビはイエス様に会いたいと湖に押し寄せた群衆の一人ではなく、収税所に座って仕事をしていたのです。レビはイエス様に関心があったかどうか分かりませんが、イエス様はレビに関心があったのです。イエス様の方がレビに関心を寄せ、目を留めてくださり、語りかけてくださったのです。わたしたちがここにいるのもそうです。主に呼ばれたからです。

主は思いがけない呼び出しをされることがあります。それは、自分など力不足で、とてもできないと思うような召しもあります。でも、そこには主のご計画があります。モーセは主の召しにためらいましたが、アロンという必要な助けが与えられて、エジプト脱出という主の御業が現わされました。レビは「わたしに従いなさい」との呼びかけに応えてすぐに立ち上がり従いました。このあとレビがどうなったか、聖書は何も語っていません。でも、すぐに従う潔さを証しすることにおいて、レビは神の御業を現しています。イエス様の召しに従う時に、わたしたちの人生は新しくされ、豊かな人生を送ることができるのです。