出エジプト記20章15節 エフェソの信徒への手紙4章25~28節
「盗んではならない」 田口博之牧師
「盗んではならない」。あえて言われる必要がない、とても単純で当たり前と思われる戒めです。わたしたちの社会において「盗んではならない」という戒めが守られなければ、大変なことになってしまいます。では、そんな当たり前のことが、なぜ十戒に入っているのでしょうか。
第六の戒め「殺してはならない」も実に単純でした。だからといって。わたしたちと無関係ではないことをすでに学びました。そして、盗みをする可能性というのは、殺すよりもはるかに高いのです。キレることがなければ、魔が差した程度では人殺しはしませんが、盗みはそうではりません。むしろキレてしまっては冷静さがなければ盗みはできません。魔が差したと言うのは言い訳に過ぎず、悪いことだと分かってやってしまう心は誰もが持っています。
わたしは特にこの1年で、幼稚園や学童の子どもたちと接することが増えています。ではその子たちに「人の物を盗ってはいけない」、「泥棒は悪いこと」だと、改めて教えることはしていません。自分のことを振り返っても、物心がついた頃には泥棒はダメと分かっていた気がします。「盗んではならない」は、当たり前のこととして捉えられています。それでも友だちの物を欲しがるという欲求は、小さな子どもたちの誰もが持っています。
わたしには4歳と2歳の孫がいますが、二人とも自分のタブレットを持っています。下の子も4桁の暗証番号を入れて起動させます。おもちゃも一つしかなければ取り合いになるように、お兄ちゃんだけに持たすわけにはいかないからでしょうか。人が持っているのに、自分が持っていなかったら2歳の子でも理不尽に思うのです。兄弟であればそこだけの喧嘩で済むでしょうが、よその家の子が持っていればどうなのか。羨ましい、あの子はいいなと思うだけでは済まないかもしれません。つい手を伸ばして、それが誰にも分からず自分のものになったという経験をすれば、癖になってしまうかもしれません。
皆さんは、法に触れるような盗みはしたことはないかもしれません。でもひょっとすると、見つからなかったけれども、小さい頃に万引きをしたという経験のある人が、ここに居るかもしれません。あるいはカンニングをしてしまった。そういうことがあったとすれば痛い記憶として残っていると思います。青少年犯罪と関わりを持った友人がいます。彼が言うには、最も始末の悪い犯罪は、万引きや窃盗だといいます。傷害事件を犯した青少年と比べると、習慣性が高いというのです。盗むときには見つからないかドキドキするでしょう。そのスリルを味わいたいのだと思います。盗みの問題の根深さはそこにあります。
ところで「盗んではならない」という戒めですが、何を盗んではならないかという目的語がここには記されてはいません。これまで当たり前のように「物」を盗んではならないという意味で話をしていましたが、泥棒が狙うのは物よりもお金でしょう。物もお金も財産です。しかし有力な説として、それらの犯罪は、むしろ十戒の最後戒めにあたるという学者がいます。最後の戒めというのは、10番目の戒め、17節にある「隣人の家を欲してはならないです」ここには隣人が所有するものが具体的に記されています。
では、第八戒が何を言っているのかといえば、本来は「人を盗んではならない」ではないか。つまり何を盗むのかという目的語は、物や金ではなく人を盗むということ、つまり「誘拐してはならない」という戒めだというのです。こちらの説をとる学者の方が多いようです。では誰を誘拐するのかといえば、奴隷ではなく、子どもを含めた自由人だと言うのです。
先月の十戒を説教の中で、かつての日本では、殺人の次に重い罪とは、盗みであり、釜茹での刑にあったと伝えられる石川五右衛門の話をしました。今は昔と比べて緩くなっていて、「10年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する」です。人を殺したとしても余程の悪質なものでない限り、死刑判決が出ることはありません。まして盗みをして死刑になることはないのです。では誘拐はどうなのかといえば、これは刑法第225条に規定されており、「営利目的やわいせつ目的、結婚目的、生命や身体に対する加害目的で人を略取・誘拐した場合は、1年以上10年以下の拘禁刑に処する」とされています。なので、誘拐して死刑判決が出ることはないのです。
聖書はどうなのでしょう。聖研に出られている方にはお馴染みになっている契約の書、出エジプト記21章16節ですが、ここに「人を誘拐する者は、彼を売った場合も、自分の手元に置いていた場合も、必ず死刑に処せられる」と書かれてあります。死刑だと言われる、とても重いです。日本の誘拐は、たいていの場合は身代金目的となりますが、上手く行くことはない犯罪ですけれども、当時のイスラエルは人を盗んでどうしたかといえば、奴隷として売るのです。
ヤコブの息子ヨセフは、兄たちによって穴に落とされましたが、拾い上げたミディアン人の商人からイシュマエル人の隊商によって銀20枚でエジプトへと連れて行かれました。商売上手のイシュマエル人は、高値で宮廷役人ポティファルに奴隷として売られます。聖書は奴隷制度を認めています。当時の世界は、奴隷自体が財産でしたので、経済原理から考えれば仕方ない面があります。また奴隷が皆、重労働を課せられたわけではありません。ヨセフは誘惑に負けませんでしたが、主人の妻に見初められることもあります。妻の座を脅かす女奴隷もいる。生活が良くなるケースがあるのです。それでも、奴隷制度を認めるのは、聖書の限界だと言えます。なぜならその人の自由を奪い取ることになるからです。
現代において、奴隷制度はなくなったと思っていました。しかし似たようなこと、いやもっと悪質なことが起こっていることを知りました。わたしは最近ニュースもまともに見聞きできていないので、よく理解出来ているわけではありませんけれども、タイ国境付近のミャンマーで起こっている人身売買が報道を賑わせていることを知っています。そしてそれは、特殊詐欺だと言われています。わたしはこのことがよくわかっていません。特殊詐欺と言うと、オレオレ詐欺が事の初めだと思いますが、以来、悪質かつ巧妙な手口で、かつ組織的に人のお金をだまし取ることを言うようになりました。でも、今起こっていることは、人をだまして取って一稼ぎするということなのでしょう。愛知県の高校生までが被害にあったと言われています。聖書は物やお金を盗むことでは死罪とはなりませんが、人を盗ることにはとても厳しい。それは、人は神に似せて造られた尊い存在だからです。人は誰も神様のものです。
ブラックと呼ばれる企業は、働く人に対して不当な労働条件を押して受けて搾取をします。働く人の自由を犠牲にして働かせて利益を上げています。それも人を盗ることに他ならないとは思いますし、結局それはお金目的になるのです。わたしはかつて印刷関係の仕事をしていましたが、40年前と比べて、費用は今の方が圧倒的に安くなっています。それはコンピュータ化が進んだからでしょう。印刷前の工程として必要だった活字組版、写植、製版会社も不用になり、働き場を奪われた人は大勢います。教会もネット印刷の恩恵に浴することがありますが、安くできるのは営業経費がかかっていないからです。そのことで、昔からあった印刷会社は労苦しています。
人間関係においてはどうでしょう。十戒に「父母を敬え」という戒めがありますが、ルカによる福音書の放蕩息子を一つの見方からすると、親の世話をすることを放棄し、せしめた財産を自分勝手に使い果たした人です。親の財産を盗んだのと同じです。現代の放蕩息子は、親の世話をどこかに任せた上で、本来は親が自由に使えるお金を当てにしている。そんなケースもあるわけです。教会には年金生活者もたくさんいます。働いていた時代と比べると不自由があると思いますが、昔と変わらずに献金をされる方がいます。そういう方たちによって今の教会は支えられています。ならば教会は、そこで献げられたものが、よりよく神の栄光を現わせるように力を尽くしていく。そこにこそ教会の役割があります。
それにしても、人であれ物であれ、この世界は盗みの罪に満ち溢れていることを思います。個人情報保護法というのは、特に学校現場においては大きな枷になっています。かつては個人の名簿に親の職業までも載っていまいした。それに基づいてPTAの役員を選ぶという時代でした。今では考えられないことです。
実は宗教団体というのは、報道機関と同様、個人情報取扱事業者ではありません。つまり個人情報に縛られる必要はないのです。それは憲法に保障された自由に関わる活動をしているからです。2024年度は、本来であれば会員名簿を更新して配る年でした。名簿をデータベース化して何かに利用しようとしているわけではないので、あまり神経質になる必要もなかったかもしれません。それでも、たとえばどこかに置かれていた会員名簿が悪意を持って用いられることが起こるならば、教会はそのことへの責任が問われるでしょう。皆さんに配布しなくても、その情報が盗み取られる可能性もなくはない。ガリラヤホールに施錠することになったのは防犯上の理由からですが、盗られていちばん拙いのは何かと聞かれたら、パソコンだと答えます。パソコンの本体は10万円下らないので痛いことは事実ですが、いちばんの問題は中に個人のデータが入っていることです。しかし現物を持ち去られなくても、牧師や書記のパソコンにもデータは入っています・ウイルスをメールに忍ばせて情報が盗まれることだってあり得るのです。盗みはどんどん巧みになっています。
「盗んではならない」。この戒めについて語るときに、どうしても触れなければならない御言葉として、エフェソの信徒への手紙4章28節があります。357頁です。「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人に分け与えるようにしなさい。」
エフェソの信徒たちの中に盗みを働いていた者がいたのでしょうか。そうでなくても、誰もがその過ちに陥る危険性があることが分かっていての言葉ではないでしょうか。ここで大切なことは、盗みをやめるようにと言われただけではなく、「むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人に分け与えるようにしなさい」と言われていることです。
世間一般の常識で言えば、盗みの罪を犯した者に何か諭すならば、もう二度と盗みをするな、人様に迷惑をかけず、しっかり働いて、自分の食い扶持ぐらいは自分で稼げ、そんな言い方になるのではないでしょうか。しかし、エフェソの信徒への手紙では違います。自分の生活は自分で働いて支えないといけないと言うだけでなく、さらに一歩踏み出して。困っている人を助けるようにと勧めるのです。聖書には、たくさん稼いだから、余ったものの中から貧しい人に分けるという考え方はありません。稼いだものを他者に分けるということを、常に目標にして働くということです。社会貢献という言葉をよく聞くようになっていますが、そこは聖書の労働観とつながっています。そこから寄付文化が生まれます。ウェルビーングの経済、誰もが幸福に生きられる社会が形成されると考えます。
「盗んではならない」この戒めには、人を盗むこと、自分の利益のために、人の自由を奪う奴隷として売ることであり、その奴隷制度を認めることで古代社会は成り立っていたという話をしました。このことは事実ですけれども、それでも古代イスラエルにおいて、特に同胞のユダヤ人を生涯奴隷として働かせるということはしませんでした。50年目のヨベルの年には、土地の安息、負債の免除、奴隷の解放などが行われました。捕われ人に自由を与えたのです。それは十戒を与えられた神が、十戒前文20章2節にあるように「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」からです。その神がヨベルの年を定めましたが、現実にはこれがどの程度、またいつまで適用されたかということは分かっていないのです。
実はカトリック教会では25年に一度「聖年」ヨベルの年を定めていて、2025年の今年をヨベルの年と位置付けています。この年、ローマの4つの聖堂の扉が開かれ、中にある聖遺物を拝むことができ、信徒たちは巡礼することが勧められています。教皇フランシスコは大勅書において次の祈りをささげています。
「2025 年の聖年は、ついえることのない希望、神への希望を際立たせる聖なる年です。この聖年が、教会と社会とに、人間どうしのかかわりに、国際関係に、すべての人の尊厳の促進に、被造界の保護に、なくてはならない信頼を取り戻せるよう、わたしたちを助けてくれますように。信じる者のあかしが、この世におけるまことの希望のパン種となり、新しい天と新しい地―主の約束の実現へと向かう、諸国民が正義と調和のうちに住まう場所―を告げるものとなりますように。」
世界で起こっている戦争、これは歴史的なことを振り返っても、土地を巡る争いであることは間違いありません。これも第十の戒めとの関りで考える方がよいのかもしれませんが、ほんのわずかな土地の境界を巡って隣の家と争うことは、いたるところで起きています。わたしたちが当事者となることもあります。教皇は「諸国民が正義と調和のうちに住まう場所―を告げるものとなりますように」とい祈りました。これはわたしたちの祈りとすべきことですが、人的な努力を超えて、「新しい天と新しい地―主の約束の実現へと向かう」終末的な祈りであることを忘れてはなりません。
聖書の舞台でも、これは神様が約束された土地ということで争いが起きていますが、それは強者に与えようとされたのではないのです。謙遜な心でのとらえ直しが必要です。すべての人、すべての民が他のものを欲しがる貪欲から解き放たれて、主にある自由を得ることができますように。そのことのために、主よわたしたちのところに来てください。アーメン。