コリントの信徒への手紙二3章6~11節
「文字は殺し、霊は生かす」 田口博之牧師

今日の礼拝後に「信教の自由を守る祈祷会」が行われます。先だっての教会総会で決まった教会規則と法人規則について、総会で可決し、その後の全体研修会で理解を深めたことを、さらに補完しようというという思いを持っています。

教会規則についていえば、そこで制定したというのですから、わたしたちはこれまで規則を持っていなかったことになります。あえて規則を持たなくても、教会がおかしなことをしていたのではありません。わたしたちは礼拝で聖書、讃美歌を手にしていますが、規則を定めたとはいえ、いつも眺めていることはないかもしれません。間違いなく確認するのは教会総会くらいのものでしょう。総会で何を決めるか、長老をどういう方法で何人選べばよいのか。規則に則って選挙をします。

3月の臨時総会は、新しい教会規則によって行いますが、することはこれまでとは変わらないという話もしてきました。先週の長老会で、長老選出に関する細則を制定しましたが、従来の内規にあったとおりの細則です。監督制度の教会でしたら、長老は監督である牧師が任命しますとなりますが、わたしたちは変えていないのです。だったら、なおさら規則など作る必要がないではないかと思われるかもしれませんが、わたしは規則というのは指針を与えるものだと考えています。規則を知ることで、ああ、こうすればいいのだと安心もします。

運転免許を取る時に、実地試験と共に学科試験があります。どれだけ車を上手に操作できたとしても、標識が何を意味しているのか知らなければ、まさに無法状態となります。規則、ルールは絶対に必要です。この規則も文字で出来ていますので、「文字は殺す」と言いながら、文字によって生かされていることも事実です。

教会規則は教会の形を整えるためにありますが、文字が形を整えることをわたしたちは経験しています。週報に礼拝順序があります。これに沿って礼拝は進んでいきます。もし礼拝順序が文字で書かれていなければ、次はどうすればよいのかと司式者は戸惑うでしょう。わたしが、「司式者で決めてください、お任せしますから」などと言えば、誰も司式をしてくださらないでしょう。それは文字がないことで不自由を与えてしまうということです。

讃美歌も歌詞を見て歌いますが、それは文字で書かれています。自由に歌いたいから文字なんていらないとはなりません。それでは神の栄光をたたえる歌にならないでしょう。聖書も文字で書かれています。コリントの信徒への手紙二を読んでいると気が付かないことですが、第一の手紙を読むと、コリントの教会は霊の働きが豊かな教会であったことが伺えます。おそらくは礼拝順序にとらわれず、霊の導くままに自由に進んでいたことでしょう。急に異言で語る人がいれば、異言を解き明かす人がいました。そういう人が重んじられていたことに、パウロは警告を発しています。霊的熱狂主義者が教会の秩序を乱すことがあり得たのです。

わたしたちの礼拝の特徴は、司式者の祈りの後に、会衆の祈りがあることです。司式者は声を出さずに祈るよう進めていますけれども、霊に導かれたら声に出ることはあると思いますので、それを妨げることになったとしたら、よくないという思いがあります。しかし、会衆の祈りのときに、色んな声が聞こえてくることで、祈りが妨げられるとすれば、それもよくないことです。こんな話をすると、ペンテコステ派の方から批判されそうですが、霊の導きに任せるとき、人は周りが見えなくなり、独りよがりになるときがあるのです。それで礼拝の秩序が乱れてします。案外「文字は生かしますが、霊は殺します」ということもあるのかもしれません。

しかし、ここでパウロは「文字は殺しますが、霊は生かします」と言っています。ここでの「文字」とは旧約聖書の律法を指しています。7節に「石に刻まれた文字」とありますが、これは3節にある「石の板」と同じで、律法の根本である十戒を指しています。十戒を代表とする律法は、人はいかに生きるべきかを教えているのですから、人を生かしているのではないでしょうか。ところが、いかに生きるべきかを教える律法は、結局のところ自分はその教えを守れないという罪の自覚に人々を追いやるのです。パウロがローマの信徒への手紙3章20節で「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」と述べているとおりです。

一方で、「霊は生かします」の霊という言葉は、神の霊、聖霊を意味しています。3節に「墨ではなく、生ける神の霊によって」とあったのも、文字と霊との対比です。復活され。天に昇られたイエスキリストが、約束の聖霊を地上に送られたあのペンテコステの出来事から、新約の時代、教会の時代が始まりました。それは聖霊の時代と言いかえることもでき、わたしたちは今も聖霊の時代を生きています。それは世の終わりの時まで続きます。

しかし、だからといって、旧約の時代、律法の時代は終わったのかといえば、そうではないのです。パウロも、もはや律法という文字に縛られる必要なく、ただ霊の導きに従って行けばよいのだという言い方はしていません。律法は神の言葉ですから、本来良いものです。パウロが「文字は殺します」という言葉で何を言いたいのかといえば、律法がそれを守れない人間の罪を暴いてしまい、それでは救いがないからです。しかし、パウロが訴えたいことは後半の「霊は生かします」にあります。イエス・キリストによる新しい契約によって霊が与えられたことで、わたしたちは新しい命に生かされます。それゆえにわたしたちは、自由に生きることができるのです。

6節をもう一度読むと、「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします」と述べています。「文字は殺しますが、霊は生かします」という6節の最後の言葉を取り出すのではなく、6節全体をよく読んでおく必要がありました。新しい契約は霊に仕える奉仕であり、古い契約は文字に仕える奉仕だと言っています。パウロは、たくさんの手紙を書きました。文字によって伝道する人でした。まさか読む人を殺すために手紙を書いていたのではありません。パウロは霊に仕えるように手紙を書いたのです。

パウロは新しい契約に仕える人でした。イエス・キリストが、十字架で血を流されたことによって立てられた契約です。イエス・キリストは、最後の晩餐において、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」と言われました。契約というのは、主には経済的な取引ですけれども。契約内容に双方が合意することによって結ばれます。契約の当事者は、基本的には対等です。甲が得をして乙が損をするということはありません。しかし、神と人間との契約は、人間同士の契約とは違って、神と人との合意で結ばれたのではありません。神の一方的な恵みによって結ばれたものです。

このとき、人間に求められるのは、契約を結んでくださった神に対する真実です。神の恵みの契約に対して、真実に応えることが求められます。古い契約も新しい契約も、この点は変わりません。旧約のイスラエルの民も、律法を守ることで義務を果たすのではなく、小さな者を選んで宝の民としてくださった神の恵みに生きることが求められたのです。でも、それができなかったので、新しい契約はイスラエルを通して全人類に広がることになりました。神は契約の仲介者としてイエス・キリストを与えてくださり、わたしたちも契約の民とされました。

7節以下で「栄光」という言葉が繰り返し出てきます。ここで語られていることは、律法を付与されシナイ山を降りてきたときのモーセの顔の光と、霊に仕えている人が主から受けている光との対比です。出エジプト記34章に29節以下(152p)を読んでみます。「モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかった」。また、35節を読むと、「イスラエルの人々がモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は光を放っていた。モーセは、再び御前に行って主と語るまで顔に覆いを掛けた」とあります。ここでモーセの顔や肌が輝いていたのは、モーセが主の栄光を写し出していたからです。それは、イスラエルの人々が近づくことができなかった、見ることができなかったほどのまばゆい光でした。

ところが、今日のテキスト3章7節以下を読むと、モーセが受けた主の栄光と比べても比較にならないほどに、霊に仕える務めを成すときに神の栄光を帯びることが述べられています。9節以下を読みます「人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。」この言葉が、「文字は殺し、霊は生かす」の解き明かしだともいえます。

律法は神の言葉ですから素晴らしいものですが、どうしても人を罪に定めてしまうのです。説教塾で加藤先生が、説教がファリサイ派のように、律法主義的になってはいけないとよく言われました。多くの説教者が当たり前のように使う「〇〇するものでありたいと思います」という説教の終わり方を批判されました。それでは律法主義的な勧めになります。わたしたちは新約の聖霊の時代を生きています。感謝と喜びに生きることは、律法でそうしなさいと言われるからするものではありません。イエス・キリストの福音は、罪に定められた人に赦しを与えます。「あなたの罪は赦された」それは闇から光へ、死から命を与える言葉です。説教者には9節にあるようい「人を義とする務め」が託されています。これはまことに尊い務めです。

人は神に似せて造られました。神との正しい関わりの中に生かされていましたが、罪によって神から離れてしまった。神から離れた人を呼び戻せるのは、律法の言葉ではなく、福音の言葉です。しかし言葉だけでは、神と人とを取次ぐことはできません。聖霊の働きが必要です。聖霊に仕える務めの尊さを、パウロは栄光という言葉で語られたのです。

霊に仕えるパウロの務めは、モーセと比べると貧弱なものでした。着ている服も貧しく、パウロを見てまぶしく感じた人はいなかったでしょう。しかし。そこにこそ、神の栄光がモーセの場合に勝って現れているのです。牢獄に捕らえられることが何度もあり、迫害にあって生きるにもやっとだったパウロ。そんなパウロと共に神はいてくださったのです。そこにこそ。神の栄光が現わされていたのです。