エレミヤ書31章33節、  コリントの信徒への手紙二3章1~3節
「あなたがたはキリストの手紙です」 田口博之牧師
 
礼拝の説教には説教題がつきます。本来、説教題というものは、説教で何を語るか決めないと付けられないものですが、実際には説教題に沿った話ではなく、焦点がずれてしまうことが少なくありません。それは説教題をつける時に、何をどう語るのかが決まっていないことの裏返しですけれども、今日はいつもとは違う戸惑いがありました。どういう戸惑いがあったのかといえば、「あなたがたはキリストの手紙です」という説教題としたものの、これが何を言わんとしているのかが、よく分からなかったからです。
 
それは無責任だと言われれば弁解の余地なしですが、いい加減につけたのではありません。なぜなら、今日のテキストである3章3節の「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」という聖書の言葉から取ったものであり、ここが今日のテキストの肝だと思ったからです。ところが、「あなたがたはキリストの手紙です」ということがどういう意味なのかがよく分からない。
 
あなたがたとは、この手紙の受取人であるコリントの信徒たち、コリント教会のことです。では、コリント教会がキリストの手紙であるとはどういうことでしょうか。わたしたちは、確かに今、コリントの信徒への手紙二という手紙を読んでいます。ここでパウロは、自分が書いた手紙をキリストの言葉として読んでもらいたいと思って「あなたがたはキリストの手紙です」と言っているのではないのです。では、どういう意味なのか分からないと言いながらも分かっていたことは、パウロがコリント教会をキリストの手紙として見ていたということです。
 
教会はキリストの手紙であるとは、これまで考えたこともなかったのですが、とても惹かれました。そういう見方が、牧師、伝道者として必要ではないかと思ったのです。自分が名古屋教会の牧師として、名古屋教会のことを、礼拝に集われる皆さんのことを「あなたがたはキリストの手紙です」と言ってみたい、そのような見方ができるようになりたい。逆に言えば、皆さんにも「わたしたちはキリストの手紙です」と言えるようになってほしい、そんな教会でありたい、そう思いました。
 
そんなことを考えつつ今日のテキストを読んでいると、手紙と似た言葉が出ていたことに気がつくのです。それが2節の「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です」という言葉です。「それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています」と続きます。推薦状というのも手紙の一つです。手紙に推薦状が添えられていることも、逆に推薦状に手紙が添えられることもあります。では「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です」とはどういう意味でしょう。ここでは、キリストの推薦状とは書かれてありません。「あなたがた」とはコリント教会のことであり、「わたしたち」とは、パウロと弟子のテモテやテトスのことです。コリントの教会がわたしたちの推薦状になってくれていると言うのです。
 
推薦状というのは、悪い意味で使われることはありません。この人はお勧めできないことを伝えることを推薦するとは言えません。その人をぜひ推薦したいと思うから推薦する。あるいは推薦してほしいと頼まれて推薦することがあります。わたしたちの社会では、権威ある人、顔の利く人からの推薦状や紹介状を持っていくと事がスムーズに運ぶことがあります。特にビジネスの世界では、この人からの推薦があることで、簡単には会うことのできない人とでも挨拶を交わすことができる。時に大きな商談が成立するケースもあります。
 
パウロも推薦状の重さを知っていた人でした。今日のCS礼拝は、ダマスコ途上でのパウロの回心の箇所でしたが、このときパウロは、キリスト者たちを迫害することをあなたに任せるという大祭司からの推薦状を持ってダマスコに行ったのです。この推薦状がお墨付きとなって、パウロはつかまえたキリスト者をエルサレムに連行することができた。
 
また、パウロは伝道者になってからも、同労者が遣わされた教会で受け入れてもらえるように推薦の言葉を手紙に託すことがありました。パウロの手紙の中にフィレモンへの手紙という短い手紙があります。この手紙は、パウロがフィレモンに対して、かつてあなたの奴隷であったオネシモを迎え入れてくれるよう頼んでいます。手紙自体がオネシモの推薦状といえるものです。
 
今も教会では、転入会のときに、転出のときもそうですけれども、相手方の教会に薦書を送ることになっています。薦書の薦という字はややこしいですが、推薦の薦の字です。薦書は、転会する人の生年月日や連絡先以外に、その人がいつ、どこの教会で誰々牧師から洗礼を受けたといった信仰の履歴を添えて、新しい地での教会生活が祝されるように祈りを込めて送ります。その薦書を扱うのは長老会です。先だっての臨時総会で決議した教会規則のうち、長老会のつとめを記した第41条(4)に「信徒の入会、転入および転出に関する事項」がありました。ですから、転入会などを教会総会で謀ることはなく、牧師の一存で決めることもなく、長老会で面接した後に決議するのです。教会籍というのは、日本独自の文化であって、外国の教会では見られないと言われていますけれども、長く大切にしてきた文化は大切にしていくべきだと考えます。
 
さて、推薦状の大切さを知っているパウロでしたけれども、コリントに伝道しに来た時には、誰の推薦状も持ってこなかったのです。パウロの後から来て、コリントの教会を混乱させた人々はそこを突いてきました。パウロは自分のことを使徒と名乗っていましたが、十二使徒らのように、地上を生きられたイエス様と共に歩んではいません。ダマスコ途上で、復活されたイエス様に出会い回心しましたが、実際にはあまりの光のまぶしさに目が見えなくなってその場に倒れてしまって、復活のイエス・キリストの声しか聞いていません。そしてイエス様の直弟子たる使徒たちから、何の手ほどきも受けることなく、伝道したのです。パウロの敵対者はそこを問題視しました。
 
1節の「わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか」という言葉は、このことを背景としています。ここでの「ある人々」というのが、パウロに敵対する伝道者のことです。彼らはコリントに来た時、推薦状を持ってきたのです。もしかすると、イエス・キリストの直接の弟子であるペトロやヤコブたちから教えを受けて、推薦状を取り付けていたかもしれません。
 
彼らにとって、その推薦状こそが自分たちを権威付けるものでした。コンサートのチラシやパンフレットにある演奏者紹介のところを見ていると、どこの大学を出て、こんな演奏活動をしているということ以外に、誰々に師事しということが必ず書いてあります。この人はあの著名な先生に直接教えてもらったということが、権威付けとなり信頼にもつながる。
 
以前にある教会のホームページを見ていると、牧師プロフィールに、説教塾の塾生であり、加藤常昭に師事と書かれてあったのを見たことがありました。確かに説教塾メンバーではありましたが、それほどアクティブとは思えない人でした。加藤先生自身、わたしは弟子を取らないとよくおっしゃっていました。申し訳ないけれども、自分がする説教の権威付けをしているとしか思えませんでした。また、名古屋教会で聞くことはないんですが、自分は〇〇教会の出身だとか、〇〇先生から洗礼を受けたと言われる人がいます。自慢ではないと思いますが、教会は神の教会であり、洗礼もキリストが定められた聖礼典ですので、大教会の出身だとか、著明な牧師から洗礼を受けたとして、その人の信仰に箔が付くということはありません。安心材料にもならない。たとえ自分に洗礼を授けた牧師が、何らかの罪を犯して牧師を辞めてしまったとしても、それで洗礼が無効になるとか、洗礼の価値が下がるなどということはないのです。
 
パウロの敵対者は、パウロは誰の推薦ももらっていないのだから、自分で勝手に自分の言葉に権威付けしているのであって、自己推薦しているにすぎないのだと批判しました。確かにパウロの手紙を読むと、自己推薦しているように思えるところもありますが、それは自分を高めようとしているのではありません。パウロはコリントに推薦状を持って来なかったですが、そもそもこの教会の創立者ですので、推薦状は必要ないのです。そういう流れの中で「わたしたちの推薦状は、あなた方自身です」と述べるのです。パウロが真の使徒、真の福音伝道者でなければ、コリントに教会が生まれることはありませんでした。コリントに教会が存在している。そのことが、パウロが使徒であることの何よりの証であり拠り所となったのです。
 
でもパウロは、コリント教会が自分の推薦状と言うだけでは、教会のことを十分に言い表したとは思えなかったのです。そこで3節にあるように、「あなたがたは、キリストの手紙です」と述べるのです。コリントの教会は、パウロを通してキリストのことが書き記された手紙だということでしょうか。あるいは、キリストがパウロという道具を用いてコリントの教会という手紙を書きあげたということでしょうか。どちらの理解でもよいと思いますが、3節に「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています」と述べていることからすれば、コリント教会は、キリストが書いた作品となります。ただどちらにしても、コリント教会という手紙を通して、キリストが証しされる。教会に生きる一人一人がキリストを証しする群れとなっているということになります。
 
さらに「墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」と言います。手紙というものは、今でこそいろんな道具を使って書くことができますが、当時はパピルスに墨を使って字を書いたのでしょう。しかしパウロは神の霊によってとあるので、手紙という表現自体が比喩であったことがはっきりしてきます。それと共に、ここには古い契約と新しい契約の対比が、石の板と人の心の板という言葉によって対比されています。古い契約、律法は墨によって文字に書き起こされましたし、十戒は石の板に文字が彫られました。しかし新しい契約、福音は、神の霊によって人々の心に書きつけられるのです。
 
預言者エレミヤは、エレミヤ書31章で「新しい契約」について述べています。31節から34節がその中心ですが、33節をもう一度読んでみます。「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」パウロはエレミヤのこの言葉を知っていたに違いありません。そしてパウロは、教会こそがエレミヤの預言の成就と見なしたのです。ペンテコステが教会の誕生日と言われるように、教会は神の霊によって生まれました。教会の民は律法を守ることではなく、福音によって救われ生かされています。今日行われる聖餐式は、割礼という古い契約でなく、洗礼によって新しい契約を交わしたことを味わう時です。
 
それにしても、コリントの信徒たちは、「あなたがたはキリストの手紙だ」と言われて驚いただろうと思います。彼らはパウロを敵対視する人たちの言葉に乗じて、パウロのことを疑っていました。よく信頼関係が失われると、言葉が届かないと言われます。事実そのとおりです。信頼している人の言葉でなければ、人は聞こうとしません。一度失われた信頼関係を回復することは不可能のように思えます。
 
でもパウロは、信頼してもらえなくても、聞いてもらえなくても諦めなかったのです。だからと言って、誰かの推薦状に頼ることもしませんでした。そうではなく、パウロから教会に近づいたのです。あなたがたこそがわたしの推薦状だ、それが支えとなってわたしは立っている。ここに教会があるということが、わたしがまぎれもなくキリストの使徒だと証している。でもそれだけではない「あなたがたは、キリストの手紙です」というのです。あなたがたこそがキリストを証しているのだと。コリントの信徒たちは、そのようにパウロ先生は自分たちのことを見てくれていることに驚いたと思うのです。
 
初めにもお話しましたが、わたしは教会の牧師として、「あなたがたはキリストの手紙です」と言ったパウロのまなざしに学びたいと思いました。確かに然るべきところからの推薦状があって名古屋教会に招聘されたわけですが、着任してしまえば、推薦状の効力など失われてしまうものです。9年経っても、教会との信頼関係は失われていないと思っていますし、重んじてくださっていることに感謝しています。わたしも、名古屋教会はいい教会だと思っていますが、だからこそもっとやれるはずなのにと、教会の足りないところを見てしまうこともあります。まして、名古屋教会がキリストの手紙であるとは、考えたことがありませんでした。新鮮な響きのある言葉だなと思います。
 
手紙ですから差出人があります。キリストが書いたのですから、キリストが差出人です。そして書かれてあることもキリストです。では、名古屋教会がキリストの手紙だということは、名古屋教会に宛てたのではありません。教会はこの世にキリストを伝えるのです。それが神様の願いです。礼拝の説教は教会に語っていますが、その背後には、皆さんが生きている世があります。
 
神はわたしたちに、すべての人に対するキリストの手紙になることを願っています。教会という手紙を通して神の御名が宣べ伝えられますように。一人一人がキリストの手紙となってキリストの香りを運んでいくことができますように。神による救いと慰めと贖いを伝えていくことができますように。主の御名によって。