2025年6月22日 ペンテコステ伝道礼拝 立証
「数えてみよ、主の恵み」 牧ノ原やまばと学園理事長 長沢道子
聖書 詩編103編1~5節
私が勤めている牧ノ原やまばと学園は、静岡県の中部にあり、本部と幾つかの施設は牧之原市にありますが、島田市や、吉田町にも幾つかの施設があります。周囲には、サッカーで有名な藤枝市や、遠洋漁業で知られる焼津市があります。
この6月、私たちは、新年度研修の講師として、神戸聖隷福祉事業団の水野雄二理事長をお迎えし、お話を伺いましたが、講師から、こんな質問が出ました。
「皆さんは、お一人一人、自分の人生で一番大事に思っていることがあるでしょう。 それを、もし、漢字 一言で表すとすれば、どういう文字になりますか?」と。一瞬ざわついた聴衆に向かって、先生は、「あまり深く考えないでいいですよ」と言いながら、マイクを持って、みんなの間を回り始めました。
牧ノ原やまばと学園には、約430人位の職員が働いていますが、その中で4%位の方、まあ20人位の方がクリスチャンで、ほとんどの方は、未信者です。
どんな回答が出るかなと思ったのですが、出た回答の中には、「楽」と いう 字がありました。「 私は 、施設のみんなを楽しい気持ちにさせたいし、 自分も 楽な 気持ちで仕事 に当たりたいので、この字です」とのこと。 別 の 人は、「 進」という字。何事にも、前進することが好きなので、ということでした。やや 年配の職員は、忘れる という字を掲げましたが、 嫌なことを忘れて 、新しい気持ちで働くという意味だったように思います。健康の健という字を述べた人もいました。
皆さんは 、何という字を挙げるでしょうか?
水野先生は、 自分は恵みの恵だと言われ、その理由として、 ご自分がまだ 30 代 後半の、 仕事を バリバリ していた時、たまたま 健康診断を受けたところ、ガンを宣告され、余命 5年位と言われた話をされました。 元気だから大したことはないと思って受けた健診によって、余命 5年 と言われ、ものすごいショックを受けたわけです。 お子さん が3人位いて、まだ幼い。それで、水野先生は必死にお祈りしたそうです。毎日 毎日 、どうか、神様、私の命を永らえさせてください。まだ 子供たちは 幼くて、私が死んだら、大変なことになります。どうぞ 私の命を永く保ってくださいって、本当に 真剣に毎日お祈りしそうです。
そうすると、徐々に良くなって。…… 私どものところに来てくださった 時は、すでに 70 歳 近くになっておられたので、 30 代 の、 その衝撃を受けた時 から 、すでに40年ぐらい 経っていたわけです。水野先生は、神様に助けられたという感謝の思いで 、自分が大切にしている字として、 恵みの「恵」を 選ばれたわけです。
私は、答えるとすれば、「愛」という字になるだろうと思います。自分に愛があるという意味ではなく、 神様の愛に感謝 してるということで 選びます。
さて、 今日私のタイトルは、「 数えてみよ、主の 恵み 」です。 実は 田口先生から依頼があった時、 すぐこのタイトルが浮かんだのですが、それは、よくこの歌を歌っていたからです。すぐ出てきましたが、お話となると、話しにくいことが分かりました。
この歌は、日本基督教団の讃美歌の中にはありませんが、ホーリネス系の人たちがよく歌う歌で、聖歌607番です。ご紹介します。
1「望みも消えゆくまでに、世の嵐に悩む時、数えてみよ主の恵み、汝が心は安きを得ん。
数えよ主の恵み、数えよ主の恵み、数えよ、一つずつ、数えてみよ、主の恵み」
2「主の賜いし十字架を 担いきれず沈むとき、数えてみよ主の恵み、つぶやきなど如何であらん。
数えよ主の恵み、数えよ主の恵み、数えよ 1つずつ、 数えてみよ主の恵み 」
3「世の楽しみ、富み、知識、汝がこころを誘う時、数えてみよ主の恵み、天つ国の幸に酔わん。
数えよ主の恵み、数えよ主の恵み、数えよ 一つずつ、数えてみよ 主の恵み」
この讃美歌は、私の解釈ではこうなります。
(1番)。貧しかったり、生活が困難だったりして、嵐のような周囲の状況に悩時、そして 生きる望みも消えそうになる時、 数えてみなさい神様の恵みを。今までいく度も助けられたではありませんか。自分に目を向けるのではなく、神様の恵みに目を向けなさい。そうするとあなたの心は平和を得るでしょう。
そして、「数えよ主の恵み、数えよ主の恵み、数えよ一つずつ、数えてみよ主の恵み」という、「恵みを振り返ってみよう」という、あのフレーズが続きます。
(2番)神様があなたにお与えになった試練や十字架を担いきれなくて落ち込むとき、そういう時こそ数えてみなさい、主の恵を。神様は逃れの道をこれまで必ず備えてくださったではありませんか。 自分の思いにとらわれないで、神様に目を向け なさい。そうすると、 あなたの呟きは小さいものになるでしょう。そして、「数えよ主の恵み、数えよ主の恵み、数えよ一つずつ、数えてみよ主の恵み」となります。
(3番)世の人たちは楽しそうに生きているし、お金もあっていいなあ、いろいろな知識 を持ち学び続ける世界に自分も行ってみたいと思う時 、数えてみなさい、イエス様の恵みを。イエス様はあなたのために全てを与えてくださったではないか。命を捧げて あなたを、 滅びの道から救い出し、 永遠の命を与えて下さった。数えてみなさい、主の恵みを。神様の 御国に入る幸せに、あなたの心は一杯になるでしょう。そして、「数えよ主の恵み、数えよ主の恵み、数えよ一つずつ、数えてみよ主の恵み」となります。
この讃美歌を 歌っていると 、私たちは、神様にこれまで幾度も助けていただいたのに、それらを忘れて、自分の力で乗り越えようと思ったり、不安になったり、大変だ、困ったと思い、それがストレスになり、 悩みになり、 落ち込むことになるか、気づかされます。
私は、自分の記憶力のために、今日1日、どんないいことがあったか、 3つ位のことを思い出して書くことにしています。 例えば、 昨日は 、本当はもっと早く出るはずだった のに、 9時 40分頃家を出て、10時18分島田駅到着が危うくなりました。交通渋滞があれば間に合わないところでしたが、幸い、渋滞はなく、 予定通りの列車に乗ることができました。
二つ目は、さふらん会の皆さんとお会いできたこと。皆さんが、重い障害を持つ方たちのためにクッキーつくりや 創作活動を提供していることを知りました。 私たちの施設では重い障害を持つ方は、音楽活動とか散歩とか 絵を描くとか、そういうことだけになっているので、もしかしてもっと何かを創り出すこともできるのではと思い、帰ったら 伝えようと思いました。
三つ目は、田口先生や 関係者の方とともに、美味しい ご馳走を頂いたことが、 日常のささいなことかもしれませんが、恵みとして感謝していることです。
振り返ってみると、神様に助けられたことは多々ありますが、それらの中で、大きな出来事を一つお伝えしますと、 私の夫が良性の脳腫瘍になり、手術を受けた結果、 重い心身障碍者になったことがあります。
脳腫瘍というのは、端的に言うと、脳のガンで、夫の場合は良性だと言われました。悪性のガンだと、術後も腫瘍が出てきたりするが、良性なので、一度腫瘍を取り除けば 元気になると言われました。夫が手術のため入院した時は、 健康な人と変わりなく、 大部屋に入って、 他の患者さんのために、食事を運んだりもしていました。多くのドクターたちが、脳腫瘍というのは、 脳の手術の中では軽いもので、盲腸の手術のようなものだから、2、3週間 入院すれば 退院でき、社復帰もできるよと励まして下さいました。実は長沢は それ以前にも、車で山梨から帰る途中、 車ごと谷底へ落ちたのに、奇跡的に助かったりとか、また、青年の頃は肺結核と診断され、手術することになったのに、直前に調べたところ、影が消えていて、手術は中止になったりとか、いろいろと不思議な形で助けられてきました。そういうわけで、今回も、神様はきっと助けてくださるにちがいないと、私たちは楽観的に考えていたのでした。誰もが、彼は元気になって退院すると楽観していたのでいたが、ところが手術後、大変なことになりました。
その日私たちは待ち合い室で長く待機していましたが、いつまで経っても連絡がありません。たまたま近くを看護師の婦長さんが通りかかったので、「あの、長沢は、どうなったのでしょうか?」と尋ねたところ、「あ、 ご存知 ないんですか? 意識 障害ですよ」って、 いとも簡単にいわれたのです。本当に、ショックでした。
その後またしばらく待たされましたが、私たちは、「意識障害」という予期せぬ言葉に、大きな衝撃を受け、重苦しい気持のまま、無言で座ったままでした。長沢に、大変なことが起きた。彼はもう、自分たちの手の届かないところへ行ってしまったというような思いが、私の脳裏に駆け巡ったことを思い出します。
その日を境に、長沢巌は、四肢麻痺、視力障碍、 意識障害 という障害を負い、「やまばと学園」の誰よりも重い障がい者になりました。手術前は、人のために食事を運んであげたりしていたのに、それ以来、何もできない人間になったのです。 話すことも、 歩くことも できない、 自分の額にハエがとまっても追い払うこともできない、そういう人になってしまったのでした。
長沢が退院後も、私たちは浜松にとどまり、「エデン の園 」という有料 老人ホームの 一角を借りて、私は長沢の介護の練習をし、近くの聖隷三方原病院に通う生活を続けました。
それまで、医療的ケアの必要な、重症な障碍者を看たこともなかった私でしたが、少しずつ、身体の清拭、食事介助、排泄介助等々にも慣れ、6カ月後に、牧之原市の自宅へ帰ってきました。
車椅子用の自動車に長沢と姑を乗せ、私が運転して帰ってきましたが、東名高速道路から「やまばと成人寮」の建物が見えたときは、元気で出かけたのにと思って、涙が出てきて、止まりませんでした。今でも、思い出すと涙が浮かんでくるくらいです。
どうして 神様は、神様のために一生懸命働いてきた人を、 何もできない人にしたのか ?という、 そういう思いがありました。
神様がこんなことを許されたのだからと、幾らか抗議する気持ちもあり、これからは、私が夫を守ると決意をして、それ以来、長沢の介護を最優先させる日々となりました。
手術前、私たちは「やまばとホーム」を開き、障害を持つ人数名とともに暮らしていました。昼間は私は小規模作業所の指導員として働いていましたが、長沢が重い障碍者になったため、ホームは解散。軽い障碍の人1名を除いて皆、施設へ入ったり、家族の元へ帰ったりしました。作業所は、別の方にお任せし、私は3年間は、夫の介護のみに専念 しました。
この3年間は、長沢巌は理事長に留まったままで、深井吉之助氏が理事長代行者として、法人の運営に当って下さいました。
残念ながら 3年後も長沢巌の社会復帰はならず、彼は退任となり、いろいろな経緯を経て、私が理事長に選出されることになりました。 私は、長沢の介護をするという条件で、皆さんの協力も頂くということで、理事長の役割を引き受けたわけです。3年間は介護に専念しましたが、1986年からは、夫が召される2007年まで、理事長の仕事と、夫の介護という二つの役割を果たすことになりました。
夫は身体を支えれば歩くこともできるなど、元気になった時期もありましたが、年々弱くなり、最後の十年間は人工呼吸器をつけた日々となりました。私は、夫の吸引のため夜も幾度か起きなければならず、昼夜なしの毎日で、昼間は眠たく て しょうない 日々でした 。けれども 本当に有難いことに、長沢の介護が始まった当初から、榛原教会婦人会の方や、やまばと関係者の皆さんが、次々に、何かと助けて下さいました。
そういう方々の協力も得ながら、私は、会議などがある時は その場に出かけ、長沢のことは付き添い(元看護士)にお願いしたのでした。
長沢が入院すると、私は病院に泊まりこみ、病院から、職場に通う日々となりました。そんな毎日が 24年間続きました。その間、 特別大きな病気をすることもなく、また、法人の方でも大変な課題に直面しましたが (例えば 、空港建設計画により、当法人の施設は転問しなければならなくなったなど)、それらを乗り越えることができたのは、全く、神さまのお導きと、人々の協力のおかげと、感謝しています。
長沢が重い障がい者になったとき、私は神様に対して、「どうして 神様は、神様のため に 忠実に働いてきた人を、何もできない人間にしたのか、」という疑問を抱きました。それについて明確な答えが見つかったわけではありませんが、長い年月を経て、いろいろと気づかれてきました。
彼は 何もできなくなったけれども、79歳で召される最後のときまで 多くの人との交わりが与えられました。いろいろな人がお見舞にきてくださり、 クリスマスには 毎年、キャロリングの訪問があり、多くの人が傍らで讃美歌をうたってくれました。普通なら、忘れられてしまってもおかしくないのに、 あの弱い身のまま、多くの人に気にかけていただいたのです。それは 何と、幸いなことでしょうか。
ひとりの牧師の方が、「長沢君はいいなあ。僕は、 息子はアメリカに行ってるし、 妻は 亡くなったし、 今は 1人ぼっちで、寂しいよ」と 言われました。
長沢は、「1人 ぼちっち」になる事はなく、いつも周りに彼のことを気遣ってくれる人が 備えられていました。それは、とても幸いなことだし、実は誰もがそうありたいと望んでいることではないでしょうか。
彼は何もできませんでしたが、そういう、何もできない状態をとおして、職員たちに、無言のメッセージを発していたように思われます。「自分に力があると思っているかもしれないが、人は誰でも、脳のどこかに傷を受けたりすると、たちまちバランスを崩し、時には何もできない人になるんだよ」と。
教会と福祉活動の最前線で働いていた人間が 全く何もできない人間になったことによって、私たちは、誰もが重い障がい者になりうることを知らされました。人を助けることができるのは、自分に力があるからではなく、「健康」という恵みを頂いているからに過ぎないと気づかされたのです。
施設のご利用者たちが、長沢を見舞いに来てくれたことがあります。「ココ、ドコ?」「ナガサワセンセイノ オウチ?」と言いながら、数名が入ってきました。ところが、目を閉じて、車椅子に身を委ねている長沢を見た途端、静かになり、動かなくなりました。何か違ったものを感じたらしく、黙って立ったままになったのです。「握手したら」と言って、私が手をつないであげると、彼らは、手を離そうともせず、ナガサワの姿を見ていました。
私は、長沢もこの人達たちと同じ仲間になったのだなあと思いました。 今まで気づかなかったけれども、 身内の人間が障害を負うことによって、生まれつき障害をもって生きる人たちの悲しみや苦労が、より深く伝わってきたのでした
長沢は、何もできない人になったけれども しかし、 何かできる、そういう時よりも、かえって、多くの人に、 人間の本当の姿を伝えたようにも思います。わたしたちの命は 神様 から与えられているということを。―― また、福祉や介護などの私たちの仕事に、本当に 大事なことを示してくれたとも思います。
神さまの計画は、もしかして、長沢に、何かを達成する活動者の役割ではなく、何もできな 無力な役割を与えることだったのかもしれません。
ところで、ここで、「詩編103編」についてもお話させていただきます。
これは、ダビデの詩で、「わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるのはこぞって、聖なる御名をたたえよ」と、非常に力強い賛美のことばに満ちています。しかし、ダビデは、他の詩の中では、「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか」とも述べていて、息子に裏切られ、部下に裏切られ、心が打ちひしがれた状態になったことも分かります。
うなだれ、弱くなっているダビデ、逆に、高らかに力強く神を見上げているダビデ、そういうダビデの姿を神様は知っておられ、変わりない恵みと慈しみを注いでおられます。
ダビデは、 周囲からは立派な王様に思われ、常に、神の方をしっかり見て前進する素晴らしい王様というふうに思われていたかもしれません。 けれども神の目からは、時に落ち込み、そしてまた、 自分の罪に打ちがれたりする、 弱いままのダルデが見えていました。 そういう、 他からは見えない醜さやみじめな面を、神さまの前にさらけ出した時、 神様は、「そんなことでどうするのか」「そんなお前だったら 見捨てる」と叱ったりなさらず、逆に、ダビデを赦し、新しいいのちを与え、新しく立ちあがらせてくださった、それをダビデは体験しているので、神様に対して心から感謝し、自分の手、足、内臓ひっくるめて、自分の全存在すべてをもって、「こぞって主を讃えよ」とうたっているのだと思います。
私自身も、外からは見えないところで、 だらしなかったり、ブツブツ呟いたり、 感情的になったりとかしますが、けれども神様はその私を見捨てず、新たな思いを抱かせ、ともに歩んでくださっています。この、神さまからの恵みを忘れないでいたいと思います。
世の嵐に悩むとき、試練を受けとめられず沈むとき、世の流れに心誘われるとき、「数えてみよ、主の恵み」とうたい、神からいかに大きな恵みをいただいいているかを思い起こし、神をほめたたえ、永遠のいのちに至る道を歩んでいきたく思います。
最後に、 一言、お祈りさせていただきます。
イエスキリストの父なる神様、今日は名古屋教会で、皆様とともにあなたを賛美し、あなたから与えられる恵みについて覚えることが できましたことを感謝いたします。私たちはすぐ自分の力に頼り、 あるいは自分が偉いものであるかのように思ったりし、隣人を愛することを忘れ 自分中心的になったりしますが、 あなたの愛と恵みに立ち返ることができますようお助け下さい。
新しい1週間の歩み、 どうぞあなたから慰めと励ましを頂いて、御心に叶った歩みをしていくことができますよう、 ひとりひとりを祝し、守り導いて下さい。また、あなたから頂いた大きな恵みを、少しでも周囲の方々に届け、人々を励まし元気づけることができますようお願いいたします。
名古屋教会が、この地に在って、人々に、主に在る喜び、真理、希望を伝えることができますよう、あなたがこれまで以上に名古屋教会を祝福してくださいますようお願いいたします。このたりません感謝と願いを、イエス様のお名前を通して お捧げいたします。アーメン

