聖書 コリントの信徒への手紙一15章12~22節
説教 「復活の初穂」 田口博之牧師
毎年11月第一聖日、名古屋教会では召天者記念礼拝としてささげています。昨日も1階のガリラヤホールに、わたしたちよりも先に地上での命を終え、天に召された信仰の先達の写真を飾りました。この1年のうちに、名古屋教会の現住陪餐会員の中で天に召された方はお一人もいませんでした。このような年は、わたしが着任してから初めてのことですし、さかのぼってもほとんどなかっただろうと思います。それでも、名古屋教会として長く歩まれ、今年の1月19日に召された堀田康夫さんと、1月28日に召された野々川旭さんのお写真が加わりました。また、写真はないけれども、この1年のうちに愛する家族と死別された方もここに集われています。
わたしたちは、元気なうちは、死について考えることは滅多にないと思います。いつか死ぬということは分かっているけれど、死が遠くにあるのです。しかし、大きな病気をしたり、愛する家族を失ったりしたとき、また自分と同年齢か年下の近しい人が先に亡くなると、死が身近なものとして迫ってきます。
「人は死んだらどうなるのですか」と問われることがあります。「死んだらどこにいくのか、どうなってしまうのか。」「わたしの愛する人は、天国に行けたのでしょうか」と問われる方がいます。そのように問うということは、死んでしまった人に聞くことができないから、生と死との間に大きな隔たりがあるからです。LINEでつながっておりさえすれば、「今どこにいる?」と聞けば答えは返ってきます。大きな怪我や病気をされても、いずれは返ってくる。でも、死別するとつながりが解かれてしまうのです。
「人は死んだらどうなるのか」という問いに答えることは、牧師といえども簡単なことではありません。いや、どんな偉い宗教家でも明確に答えることはできません。仏教の御経は釈迦の教えを弟子たちがまとめたものですが、死後の世界について明確に書いているわけではありません。「人は死んだらどうなりますか」と問われたある高名な僧侶はこう答えました。「生きている者にとって、死は誰にも分からない。その問いを通して、今をどう生きるかを考えることが大切なのだ」と。その通りです。聖書もまた、死後の世界について詳しく書いてはいないのです。
それでもイエス様は、復活について否定するサドカイ派の人々との問答の中で、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」と告げられました。「神によって生きている」という言葉は、「人は死んだらどうなるのか」という問いの答えとして、ふさわしいものだと思います。
召天者記念礼拝は、死んだ人を懐かしむという目的で行っているのではありません。地上の命を終えられた信仰の先達は、天において永遠なる神との交わりにあるのです。死んだらつながりが解かれるという話をしましたが、神とつながっている限り、つながりが解かれるわけではないのです。生きている者も死んだ者も、主に在って一つとされています。住む場所は異なっていても、聖書に「眠り」と表現されていたとしても、主の御前で共に生きていることを確かめることができる。それが召天者記念礼拝です。
さて、今日の聖書テキスト、コリントの信徒への手紙一15章では、復活について集中的に語られています。この手紙を書いた伝道者パウロは、15章の冒頭で「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません」と語っています。「福音」とは、「喜ばしい知らせ」という意味ですが、「福音」の中心にあるのが「復活」です。「あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう」とあります。復活を信じることができなければ、いくら信じているからといっても、信仰そのものが無駄になってしまうのだと言うのです。
14節にも、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」とあります。更に17節には、「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」とあります。とても厳しい言葉です。「罪の中にある」というのですから、救われていないということになります。18節には、「そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです」とあります。わたしたちが復活を信じていなければ、先に天に召された人も、神のみもとで生きていることにはならず、滅んでしまったことになるというのです。それでいいはずがありません。それでも、復活の信仰をそっちのけにして、19節。「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」と言うのです。パウロは「無駄」、「むなしい」、「惨め」という言葉を重ねることで、復活の信仰に生きよと教えています。
でもみなさんの中には、復活に関して、今一つ納得できないという人がいらっしゃると思います。葬儀が終わると遺体は火葬場に移されます。火葬が済むと、葬儀が済んだときにはまだ見ることのできた肉体が、真っ白な骨と灰になっています。もう二度と生きていた時の体を見ることができない。激しい喪失感が襲います。そこから体の復活と言われても、無理な話ではないか。せめて、土葬であればまだ信じることができる余地があるのにという思いにもなります。こうした目に見えるところの厳しい現実からすれば、体の復活とか永遠の命と言われるよりも、魂だけが天に昇って、神の御前で安んじていると言われたほうが、慰められるのではないでしょうか。
あるいは、わたしたちにとって復活というのは、死んだ後でも心の中に生き続けるということを考えるかもしれません。NHKの朝の連続テレビ小説がありますが、お昼の再放送の前の12時半から、かつて放送した朝ドラの再放送をしています。夏までは、「マッサン」の再放送していました。ウイスキーづくりに生涯を尽くした夫婦の物語です。「マッサン」の最終回で、妻のエリーが残した手紙が、マッサンの心を癒すシーンがありました。エリーはこういう言葉を残したのです。「一日、一度、夜、寝る前に、わたしのことを、思い出してください。そして、おやすみと言ってください。そしたら、わたしもおやすみなさいと言います。マッサンには見えないと思うけれど、いつでも、わたしはマッサンの側にいます。だから寂しがらないでね。ありがとう。おおきに。」と。これは、残された者への励ましの手紙ですけれども、先に行く者にとっても、残された家族が、わたしのことを思い出してくれる。あの人の記憶の中で、わたしは生き続けることで居場所を得る。消えてなくなってしまうのではない。そこに慰めを得ることがあるのです。
では、エリーが手紙で願ったように、その人の記憶の中で生き続けることが、キリスト教信仰でいう復活とか永遠の命であるのかといえば、そうではないのです。聖書は、死は終わりではないことを告げています。主に在って生きるのです。わたしたちの主イエス・キリストが復活されたことで、生きている者と死んだ者とを隔てる死という大きな壁は打ち破られたのです。キリストが復活されたとき、墓を塞いでいた大きな石が動かされていたことはその証しです。死が終わりであれば、最後の勝利者は死ということになりますが、そうではない。この手紙15章の終わりに「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」という、勝利の歌がこだましています。教会はここを立ち処としています。復活はわたしたちの信仰の中核にあるのです。
ところで、今日の説教を聞きながら、あれ?と思われた方がいらっしゃるかもしれません。牧師は、復活なき信仰は、無駄だとか、むなしいとか、惨めだと言っていたけれど、それは、わたしたちが復活することが信じられないという話ではなく、キリストの復活を信じていない人のことを言っているのではないかと。確かに14節には、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」とあります。17節には、「そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」と書かれてあります。
でも、パウロはこう言っているのです。13節「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。」16節でも「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです」と繰り返しています。死者の復活とキリストの復活を一つのこととして捉えています。死者が復活するからこそ、キリストも復活したのだという論理です。キリストの復活を信じていて、わたしたちが復活することを信じないということはありえない。キリストの復活と、わたしたちの復活とを分けて考えること自体が、そもそもできないことなのだという論理展開をしているのです。
このパウロの考え方の背景には、ギリシア哲学の霊魂不滅論との戦いがあります。日本人も死んだ魂が天国に行くと言われれば、それでホッとするところがありますので、体の復活よりも霊魂不滅という考えの方が受け入れやすいだろうと思います。そのことを体系立てたのが、プラトンをはじめとするギリシアの哲学者たちです。それは霊肉二元論を説くグノーシスと呼ばれる宗教思想に発展しました。コリントの教会もその影響下にあったので、わざわざ体がよみがえる必要はないし、魂の救いで十分だと考えたのです。その方が理解しやすい気もするのですが、霊魂が救われれば、ほんとうに救われたことになるのでしょうか。
わたし自身は、魂と体が分かれること自体がよく分かりません。病気で苦しむのは、体の苦しみといえますが、その苦しみは心で感じるのでしょう。脳が苦しみを伝達しているともいえるわけです。死んだら苦しみから解放されると考えたとしても、肉体が滅びれば霊魂は救われることになるでしょうか。
20年位前になるでしょうか。前任地の教会でコンサートをしたときに、演奏者が「千の風になって」を演奏してよいかと聞いてこられました。秋川雅史というバリトン歌手が紅白で歌ったことで注目を浴び、翌年大流行したのです。もともとは英語の歌詞が日本語に訳されたのですが、こんな歌詞です。
「私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません 千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹き渡っています。」
この歌に慰められること自体は否定しませんが、わたしは演奏者に止めてくださいと頼みました。教会の信仰に馴染まないと考えたからです。その方も「演奏してよいか」と聞かれたということは、以前にストップをかけた教会があったからでしょう。魂が千の風になるというのは、肉体は死んでも魂は自然界の諸要素の中で溶け合うよう存在する。わたしはあなたのそばで生きているから、泣かなくてもいいよというのです。この歌には「神」という言葉は出てきません。この歌は、当時、流行っていたカタカナで書くスピリチュアル的な歌です。繰り返しますが、この歌で慰められることは否定しません。でも福音ではないのです。
パウロは、「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」と言いました。すなわち、イエス・キリストは神の子としての特別な力を持っているから、復活したのではないということです。そこで出てくるのが20節です。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」「初穂」とは、収穫の最初に刈り取られる実のことです。初穂が収穫できたなら、それで終わりではなく、その後も収穫が続くと約束されるということです。つまりキリストの復活が、眠りについた人の初穂だということは、死からの復活はキリスト一人にとどまるのではなく、後に続く人が出てくるということです。キリストが復活の初穂だということは、キリストに結ばれたわたしたちも復活するという約束であり証拠なのです。
今朝わたしたちは、先に天に召された方々を覚えて集いました。その方と過ごした日々を懐かしく思い起こせば、もう会うことのできない寂しさを覚える人がいらっしゃるかもしれません。イエス様は、マルタとマリアに寄り添い、ラザロの墓で涙を流されました。わたしたちの悲しみを誰よりも知っていてくださいます。しかし、そこにとどまることなく、「ラザロ、出てきなさい」と言って、死者の中から呼び起こされたのです。ラザロの復活は、終わりの日に起こるわたしたちの復活のしるしです。
かつて、加藤常昭先生をペンテコステ伝道礼拝に招いたとき、説教の中で最愛の妻を亡くされた時の話をされました。「私の妻は、三年前に、ほぼ三年の在宅介護ののちに地上の生涯を終えました。施設に入れず、ヘルパーさんたちの協力を得て、私がおむつをかえ、食事を作り、食べさせ、体をぬぐい、肉体の世話をしました。友人のハイデルベルク大学のメラーさんにメイルで知らせました。間もなくメイルが届きました。「愛する加藤さん、悲しい知らせです。あなたは書いてこられました。妻が土曜日、午前10時、眠りに就いたと。長い舌癌、そしてリンパ腺癌の病苦は終わりました。神が眠らせてくださいました。神がお定めになったとき、再びみ手に取られ、こう呼びかけてくださるためです。「起きなさい、さゆり、甦りの朝だよ!」と。この後も慰めの言葉が続きました。私は深い悲しみのなかで本当に慰められました。神は妻に告げてくださる。「起きなさい!」と。そして体が甦るのです。
「人は死んだらどうなるのか」について、聖書は克明に描いていないので、はっきりこうだとは言えません。むしろ、神のみが知る範疇と捉えてもよいのではないでしょうか。しかし、聖書全体を読んで分かることは、わたしたちは今がそうであるように、死に時も、死んだ後も、神に覚えられ、神の御手のうちにあるということです。主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられて、人は生きる者とされました。体と魂が一つのものとして人は造られました。アダムは死にわたしたちも死すべき存在となりましたが、それで終わりではありません。22節にあるとおり、「キリストによってすべての人が生かされることになるのです」と書かれてあるとおりです。新しい霊の体が与えられて、起き上がるその日その時が来るときまで。
