ゼファニヤ3章16~17節    ルカによる福音書15章8節~10節
「一緒に喜んでください」  田口博之牧師

一人の女性が十枚の銀貨を持っていましたが、そのうちの一枚をなくしてしまいました。それを見つけるために家中を捜し回り、ようやく見つけました。そこで大喜びして、親しい人を集めて、「一緒に喜んでください」言いました。今日のテキストの内容は実に単純です。わたしたちも、大切なものを無くしたことが分かったとき、必死になって探すことがあるでしょう。よくある話しのように思います。

でも、よく読めば、単純でよくある話だとは言えないことに気づきます。むしろ、実に不思議な話だといえるのです。わたしたちは、捜していた物が見つかったときに、友だちや近所の人たちを呼び集めたりするでしょうか。見つけたら、ああ良かったと、財布に戻す。それで終わりではないでしょうか。聖書には「見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう」とありますが、そこに集まった人はどう思うでしょうか。普通に考えれば、呼び出されて、「喜んでください」と言われて、「はい、さよなら」とはならないはずです。これだけ大騒ぎしたのですから、集まった人にお茶1杯出して終わりというのも失礼な話です。大祝宴とはいかないまでも、ミニ愛餐会的な用意をするのではないでしょうか。でもそうすれば、銀貨1枚以上の費用がかかるかもしれないのです。

そう考えると、このたとえ話は、銀貨1枚というお金の価値の話をしているのではないということに気付きます。ポイントは、銀貨をなくした女性が、見つけるまで捜し続けたこと、さらに捜していた銀貨が見つかると大喜びをして、人々を招いたことにあるのです。忘れてはならないことは、これはたとえ話だということです。何をたとえているかといえば、神の国の喜びについてです。神の国の最大の喜びは、失われた人が見つけ出される喜びだということを伝えているのです。そのときの喜びは、一人の喜びでは済まないのです。周囲を巻き込んで「一緒に喜んでください」と呼びかけ、喜びが広がっていく。これが神の国の喜びの姿です。

この喜びは、ルカによる福音書15章の三つのたとえに共通しています。1節から始まる「見失った羊」のたとえでは、見失った一匹の羊を見つけた羊飼いは、「家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」と言っています。無くした銀貨を見つけた女性も、この羊飼いと同じく「一緒に喜んでください」と呼びかけています。

続く11節以下の「放蕩息子」のたとえはどうでしょう。父親はいなくなっていた息子が帰ってくると、僕たちに命じます。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。」 ここでずっと父と一緒にいた兄息子が経験したこともない大宴会が始まるのです。兄は不満をぶちまけますが、父親は、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ』と言って、周りにいた者たちと喜びを分かち合おうとします。

これらルカによる福音書15章の三つのたとえに共通するものは、失われていたものが見出されたときの喜びです。この喜びへと招く父親も。羊飼いも、今日のテキストの女性もすべて神様のことです。失われた者を見つかるまで捜して、見つかると途方もない喜び方をされるのが、わたしたちが信じる神様です。

考えてみたいことは、なぜ神がこれほど喜ばれるのかということです。喜ばれるということは悲しみもあるということです。見失った羊も、無くなった銀貨も、放蕩息子も、神のもとへ戻ってくる前は失われた状態にあったということであり、その状態を神は悲しまれていたということです。その悲しみは、わたしたちが想像する以上の深い悲しんみです。だから一所懸命に捜したのです。悲しんだままで済ますわけにはいかなかったからです。

これほどに神が悲しまれているということを、わたしたちは知っているでしょうか。知らないままで、悲しませていることはないでしょうか。それに気づくことが悔い改めです。伝道も悔い改めからスタートします。神に背を向けて生きている人があまりにも多い。かつての自分もそうだったと、神を悲しませていたことに気付くとことからスタートします。神に喜んでいただきたいと思う。それが伝道の出発点です。10節に「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」とあります。この神の天使たちの喜び、神の国の喜びを伝えて、この喜びにわたしたちを巻き込むために、イエス様はこのたとえ話をされたのです。

このたとえ話は、「あるいは」という言葉で始まっています。「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。」この「あるいは」という言葉は、あきらかに前の言葉を受けて用いられる言葉ですが、「あるいは」とは多くの場合、前か後のどちらかを選択する場合に使われます。でも、このたとえでは、「神の喜びは、あるいは、次のようにも語れる」という意味合いで語られています。前に語った見失った羊のたとえだけでは、見つけ出したときの喜びが十分に理解されていないと感じたので、このたとえを話されたのです。

実際のところ、わたしたちが聖書を読んでいて「『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」と言われても、一緒に喜べると思った人がどれほどいたでしょうか。それは神の喜びが分かっていないということです。この場にいた人も、自分とは関係ないと思う人や、まだ99匹もいるのだから、そこまで喜ぶ必要があるのだろうか。そう思う人も多かったのではないでしょうか。イエス様は、見失ったものが戻ってきたときの喜びを何としてでも伝えたいと思って、無くした銀貨を必死になって捜して、見つかったときに途方もなく喜んだ女性のたとえを始められたのです。

彼女がなくしたドラクメ銀貨というのは、古代ギリシアで使われた銀貨ですが、ローマのデナリオン銀貨と同じく労働者1日分の賃金相当だと言われています。安くはありませんが、ものすごく高価だというわけでもありません。しかし、「ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて」とあるように、彼女にとって銀貨10枚が全財産だったのです。そのうちの1枚が無くなったのですから、大騒ぎしても不思議ではありません。

あるいは、次のように言われることがあります。当時、女性が結婚するときに、10枚の銀貨をネックレスあるいは髪飾りとして身に着けたと言われています。それは嫁に行くときの持参金であったようです。それは世界に一つしかない、オリジナルのネックレスあるいは髪飾りだったということです。たとえ借金を返すことができなかったとしても、これだけは取り上げることが禁じられたほどの大切なものだったのです。ところが、つないでいた鎖がちぎれるなどして、何らかの拍子で1枚が無くなってしまった。ネックレスであれば、10枚とも散らばったかもしれません。かき集めたけれど、その中の1枚がどうしても見つからないのです。銀貨9枚では、そのものの価値がなくなってしまう。彼女が無くした銀貨は、ただの1枚の銀貨では済まなかったのです。

だから彼女は、無くした銀貨を「ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて」探したのです。当時のイスラエルの民家は、昼間でも暗く、小さな窓が明かりとりとなっていました。それだけでは見つからないので、ともし火をつけたのです。火をつけるだけでも一苦労だったとはずです。銀貨を落とした当時の家の床はどうだったのでしょう。古い日本の民家であれば、土でたたいた土間に乾燥した藁などを敷いていました。イスラエルでも床張りの民家はなかったはずです。見つけるのは至難のわざです。ともし火を頼りに、目を凝らして銀貨のきらめきを見つけようとします。耳を澄ましながら床を掃いて、銀貨が当たったときのコトンという音を聞き取ろうとしている。そんな姿が浮かんできます

そのようにして、ようやく銀貨を見つけたのです。しかし、このたとえ話は、失われたものを見つけたとき苦労話ではありません。神が見つけ出してくださったときの喜びを告げ、その喜びに人々を招くために、イエス様はこのたとえ話をされたのです。

10節に「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」とあります。この10節の言葉はたとえ話そのものではなく教えです。わたしは当初、8節、9節で語られたたとえ話の内容がすぐにはつながりませんでした。このたとえを初めて読んだとき、大切な銀貨をなくしてしまった女性が、自分の不注意を反省して必死で探し出した、そんな話だと思ったのです。なぜなら、無くなった銀貨が、すみませんでした、これからは気を付けますと言って、出てきたわけではないからです。無くした側がうっかり無くさないように悔い改めた。そんな話かと思いました。

わたし自身、捜し物をすることなど日常茶飯事です。ようやく見つけると、もう紛れないように、きっちり整理整頓しなければと思います。これも最近になって気づいたことですが、整理整頓といっても、整理していなければ整頓できないということです。わたしが最も苦手とすることです。近頃は、5Sという言葉も聞くようになりました。整理、整頓,清掃、清潔、躾という五つのS。工場でも事務所でも、5Sを徹底して、職場環境が整えられていないと、求人を出しても誰も入って来ないと言われます。

でも、悔い改めるとは、5Sを徹底するとか、もう無くさないように心がけることの表明ではありません。前のたとえ話の羊飼いがもそうですが、悔い改めるのは見失った羊飼いではなく、やはり失われた羊であり、銀貨のほうなのです。そういうと、羊や銀貨に悔い改めができるのかと思われるかもしれないので、そこはピンと来にくいところだと思います。そこを納得させるために、三つ目の放蕩息子のたとえが用意されていると考えることもできます。

繰り返しとなりますが、イエス様がこのたとえを通して伝えたいことは、前のたとえ話もそうですが、罪人が悔い改めるときに湧き上がる神の国の喜びです。羊、まして銀貨が、自分の意思で悔い改めたのではありません。しかし、放蕩息子にしても、罪人が自分の意思で悔い改めて、神のもとへ帰ったわけではないのです。放蕩息子のたとえ中、17節ですけれども、「そこで、彼は我に返って言った」という言葉が出てきますが、彼は悔い改めたわけではなく、父のところには何でもあることを思い出して帰ろうと思ったということでしかないのです。悔い改めとは、反省するとか後悔することではなく、心を神様のほうに向けるということです。これは、自分の意思で起こせるものではなく、主体は神の側にあります。父が帰って来る息子を見つけて、「憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻し」奴隷ではなく、元のとおり息子として迎え入れてくださったから、息子は悔い改めたのです。無くした銀貨のたとえも、捜してくださる神がいるから、見つけたら法外な喜びを表してくださる神がいるから、その神が招いてくださることに気がつくとことろから、悔い改めが起こるのです。

罪人が悔い改めて、本来あるべき神のもとに戻ったときの神の喜びは、計り知れないものがあります。『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』という言葉が、法外な神の喜びを表しています。この言葉を聞いて、「ほんとにそうかなあ」と思っている限り、わたしたちは神の喜びが分かったことにはなりません。放蕩の限りを尽くした弟が戻ってきた時、なぜこんな大祝宴が行われているのか、意味が分からなかった兄も同じように神の喜びが分からなかったのです。わたしたちの中にも、真面目なお兄さんは気の毒だと、同情する気持ちにもなる人がいるでしょう。でも、今日の説教を聞いたからには、そこにとどまっているわけにはいかないのです。

ルカによる福音書15章の三つのたとえ話は、徴税人や罪人たちがイエス様のもとにきたのを見て、ファリサイ派の人々や律法学者たちが不平を言い出したことが発端となっています。イエス様が、徴税人や罪人たちが、ここにいることを喜んでいるのに、その喜びが分かっていない、ファリサイ派や律法学者たちに神の国の喜びを伝えるために、語られたたとえ話なのです。

何かの事情により、教会から離れてしまうことがあります。忙しくて教会に行くどころではなくなったとか、教会に行っても、仲の良かった友だちと会うことができない。そうこうしているうちに教会から遠ざかってしまい、行かなくても何とも思わなくなるということがあるかもしれません。久々に教会に行くと、「久しぶり、良く帰ってきたね」と歓迎してくれたけど、歓迎した側の人が、よしこの人に自分がしてきた奉仕の跡を継がせようという企てを持つとすれば、それもおかしな話です。それでは、見失った人が神のもとに帰ってきたという、喜びを共にしたことにはなりません。後継者を育てることも大事ですが、それは時間がかかります。人の力でなせるものではなく、聖霊の助けが必要です。奉仕とは、どこまでもわたしを見つけ出してくださった神様への感謝としてすべきことです。そのような奉仕を、神は喜んでくださいます。神が喜んでくださっていることを嬉しく思えたとき、その奉仕は更に祝されます。

この礼拝に集われた方は皆、神に見いだされた方です。何年、何十年と教会から離れていたという方だけでなく、ずっと教会に来ているという人でも、神に見いだされ、招かれているからここにいるのです。神を知らなかった方が、神の子として歩む、洗礼を受けようと思うのは、悔い改めて、心が神のほうに向いたからです。そのときに神の天使たち、天の国はざわめきます。喜びに溢れかえっています。

週毎の礼拝も、わたしたちが思っている以上に神は喜ばれています。わたしたちは、一人でもたくさんの方と神を礼拝できれば嬉しくなります。でも、神の喜びは、私たちの嬉しさとは比較にならないのです。神はその喜びを知ってほしいと思い、「一緒に喜んでください」と、一人一人に呼びかけています。神が喜ばれることを、私たちも共に喜ぶ。そのような教会共同体として、神の国に向かって共に歩んでいきましょう。