聖書 コリントの信徒への手紙二11章1~15節
説教 「神からの誉れ」 田口博之牧師

今朝は順に読んできたコリントの信徒への手紙二を4カ月ぶりに読むことにしました。これだけ間が空くと、1章から順に読んできたことも忘れてしまいそうですし、いっそのこと10章でやめにして、年度目標の「神の国に向かう共同体」に適した聖書テキストを選んだ方がよいかなと考えなくはありませんでした。

それでも、聖書1巻を礼拝で読み通すのは意味のあることです。特に第二コリントというのは、4章から5章と、弱さについて語る12章、たとえば9節の「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。10節の「わたしは弱いからこそ強いのです」以外は取り上げられることが少ないのです。しかし、読み過ごされるとことの中から福音の宝を見つけることもまた、講解説教の醍醐味と言えるのではと思いました。いずれにせよ今日の11章1節から15節は、これまでですと段落ごと3回に分けて読みたいところですが、今日は主題を絞って、一回の礼拝で読み切ることにしました。

パウロは11章の冒頭で、「わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています」と述べています。ここだけでは、何が愚かで何を我慢しているのかよく分かりませんが、パウロは10章で、自身の誇りについて語っていました。誇りについて語ったということは、言葉を変えて言えば、自慢話をしたということになります。でもどうでしょう。本人は得意気に話をしたとしても、誰かの自慢話を聞くことほどつまらないと思えることはないように思います。確かに聞いていて、それは凄いよなと思える自慢話もありますが、得意気に自慢話をしている人を見ていると、この人は気の毒な人だな、と同乗してしまうこともあります。

パウロはコリントの信徒たちに対して、自分が何を誇りとしているかを語りましたが、そんな話をするのは愚かなことだと自覚していました。だからこそ、そんな自慢話を聞かされているコリントの信徒たちは、我慢して聞いてくれている。冒頭の1節は、そんな思いから出た言葉です。

もちろんパウロは、自慢話をしたのではありません。10章の終わりで、「『誇る者は主を誇れ。』自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです」と語ったとおり、自分ではなく主を誇ったのです。それでも、「主を誇る」自分について語ることも、パウロが望むことではありませんでした。ではなぜ語ったかといえば、愛するコリントの教会が、福音から離れた偽使徒たちの教えを信じて、揺さぶられている現状を前にして、黙っていることができなかったのです。

そんなパウロは、「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています」と言います。この「熱い思い」とは、ギリシア語で「ゼーロー」という言葉が使われていますが、この言葉には、「熱心」と「嫉妬」という二つの意味があります。英語のゼラシーを想像します。それで、新しい聖書協会共同訳では、この2節を「私は、神の妬みをもって、あなたがたを妬んでいます」と訳しました。これは十戒の中で「わたしは熱情の神である」という神の自己宣言が、別の訳では「妬む神である」となっていることと同様です。

嫉妬や妬みは、独占欲のように受けとめられがちですが、誰かを熱く愛せば愛するほどに、その人が別の人の方を向いていれば、嫉妬心に駆られてしまうことはあるわけです。主なる神は、妬むほどにご自分の民を愛していましたからこそ、金の子牛像を造って、自分たちの神だとはしゃいでいる民が許せなかった。パウロのコリントの信徒たちへの愛も同じだったのです。だから偽りの教えに傾いていることがゆるせなかったのです。

そのことが、「なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです」という流れとなります。パウロはコリントの教会を愛しましたが、教会はパウロのものではなく、キリストのものです。パウロは、コリント教会を愛するあまり、「純潔な処女として、一人の夫であるキリストに献げる」ために労苦したのです。コリント教会をキリストに結ぶための、今でいうマッチングアプリとしての役割を果たしたのです。ところが、コリント教会の信徒たちが偽の教えに心を惹かれてよそを向いてしまっている。それはまさに、エバが蛇の悪だくみで欺かれ神から離れたような状態でした。そのようなことがあってはならなかったのです。

牧会というのは、信徒を教会につなぎ止めることではありません。信徒がキリストから離れないように仕えることです。見失われた一匹の羊がいれば、見つかるまで捜して主のもとへと導いてゆく、それが牧会の働きです。パウロは心血を注いできたコリントの教会が、偽使徒らによって、パウロが「宣べ伝えたのとは異なったイエス」を信じ、「違った霊」や、「違った福音」によって壊れていくことを見過ごせなかったのです。

どうやら、偽使徒たちは雄弁だったようです。物事を論理的に雄弁に語る人の言葉には魅力があります。当時のギリシア社会では、弁論術は高く評価されました。紀元前4世紀のギリシアの政治家にデモステネスという人がいます。元々は訥弁で人々から嘲笑されていましたが。口の中にいくつかの小石をいれたままで演説を練習することで、言葉の不明瞭と舌のもつれを正し、発音の明晰さと声を鍛えることで、アレクサンドロス大王率いるマケドニア軍に対抗しました。そのような背景のあるギリシア世界で伝道するには、雄弁であることが必須だったのです。反対者たちはそこを突いてきました。

もっともパウロは自分が話し下手であることを知っていました。10章10節で「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と揶揄されていたことを自覚していましたし、11章6節で「話し振りは素人でも」と認めているとおりです。でもデモステネスのように弁論の訓練をするのではなく、何を語るか、福音の中身で勝負しました。

わたしも滑らかに話をすることが苦手であり、雄弁な牧師へのあこがれを今も持っています。説教塾の学びの中で、雄弁であるとはこの人のことだと言える牧師との出会いがありました。その方は、高校では弁論部に属し訓練を受けてきた方で、自分が雄弁であることを自覚されていました。そして説教も当然のごとく、雄弁の延長として考えたようです。ところが、加藤常昭先生はその方の説教を聴いて、「この雄弁が危険だ」と指摘されたのです。

説教塾では説教を聞いた牧師が第一印象を語るのですが、その方がある本で回顧されていたものによると、「堂々としている」「力強く語っている」「説得された」などポジティブな印象が続いたそうです。その時、加藤先生が言われたことが、「この説教者が身に着けている雄弁は、今語られた説教が持つ本質的な問題点を覆い隠している。それにもかかわらず、聞き手を説得してしまっている。聞き手も説得されている。これは危険である」と言うことでした。その牧師にとっての出来事となったのです。

わたしも加藤先生から、「この説教者の問題は声がいいことである」という指摘を受けました。「声のいい牧師の説教は、聞き手は聞いていて気持ちがよくなってしまう。説教中に眠っている人が多いでしょう」と言われました。事実その頃、礼拝の聞き手の多くが寝てしまっていることが一番の悩みでした。礼拝に出て心安らかになっているならそれもありかな、と自分を納得させたこともありましたが、礼拝で催眠療法をしているわけではありませんので、福音を聞かないまま終わっていてよいはずがないのです。だからといって、雄弁である人が訥弁になる必要はありませんし、声がいいと言われているのにだみ声を出す必要はありません。肝心なのは、福音の真理を語っているかどうかです。パウロは、話し方がどうであろうが、聖霊の力によって人の心を動かすことを知っていました。

ところが、反対者たちのパウロ批判はそこにはとどまりませんでした。7節以下で語られていることは、パウロはコリントで伝道活動するにあたり、コリント教会からは報酬を受け取らなかったということです。このことが、パウロ批判の材料となったのです。一つには、偽教師たちの間で、これだけの報酬を受け取ることを自身の誇りとし、自分の地位を高めるという考え方があったからです。彼らは、パウロが報酬を受け取らなかったのは、そもそも本物の使徒ではない、受け取る資格がなかったからだとか。マネーロンダリング(資金洗浄)しているとは言わなかったでしょうが、表立っては言えないお金を受け取っていると言わんばかりに、結局はお金目的でやっているなど言いがかりをつけられていたのです。

でも、パウロが報酬を受け取らなかったのは、そういうことではありません。高尚な志を持って働いていることを示したいからでもありません。そもそも、開拓伝道するためにコリントに入ったのですから、そこで信徒たちに支えてもらうなど、余計な負担はかけたくないと思ったからでした。

このことについては、コリントの信徒への手紙一の9章(310p)を参照しておきたいのですが、パウロは伝道者が正当な報酬を得ることは当然の権利だと語っています。でも12節の後半(8下の段の段落が変わるところ)で、「しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした」と語っています。今、聖研でレビ記を学んでいる方は分かると思いますが、神殿で働く祭司は、人々が神殿に献げた物の分け前にあずかっていました。神に仕える者の当然の権利であり、14節に「同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました」とあります。今日も名古屋桜山教会の牧師就任式がありますが、就任式の式文、教会員に求められる誓約の中で引用されている言葉です。牧師に生活の心配をさせずに、御言葉の奉仕に専念していただくというのは、日本基督教団の招聘制度の大前提となっています。しかし、それが厳しい時代に入っていることも事実です。

もう一か所確かめておきたいのが、使徒言行録18章です。ここにはパウロがコリント伝道を始めたときのことが記録されています。ここを読むと、パウロは当初、イタリアからやってきたアキラとプリスキラというユダヤ人夫婦の家に住み、彼らと共にテント造りを生業として福音を宣べ伝えていたことがわかります。コリントの信徒たちに負担をかけるようなことはしていなかったのです。

ところが5節で転機が訪れます。「シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し」とあります。ここでパウロはテント造りの仕事を捨てて、御言葉を語ることに集中するようになったのです。御言葉を語ることに集中するためには、コリントの教会はパウロを支えねばならなかったはずです。パウロも報酬を得ることは権利だと言っていたのです。ではなぜパウロはその権利を放棄したのでしょう。

その点で見逃せないのが、5節前半の「シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると」という言葉です。この言葉は、後半の「御言葉を語ることに専念し」の枕詞のようになっていますが、この言葉が今日のコリントの信徒への手紙二11章の7節以下を理解する上で重要だということに、気付かされました。

第2コリントの11章9節には、こう書かれてあります。「あなたがたのもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけませんでした。マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれたからです。そして、わたしは何事においてもあなたがたに負担をかけないようにしてきたし、これからもそうするつもりです。」

ここで言う「マケドニア州から来た兄弟たち」とは、シラスとテモテのことで、「わたしの必要を満たしてくれたから」というのは、生活に必要なことです。つまりここで語られていることは、マケドニアすなわちフィリピの教会が、パウロのコリント伝道を支えるための献金をシラスとテモテに託したということです。だから、パウロはテント造りで稼ぐ必要がなくなったし、コリントの教会に経済的な負担をかける必要もなかったということです。それでも、それを偽使徒たちは、パウロは怪しいと批判したのです。8節の「わたしは、他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも、あなたがたに奉仕するための生活費を手に入れました」という言葉は、偽使徒たちへの皮肉です。

偽使徒たちからの攻撃が激しくなったとき、パウロは再び「誇り」を口にしました。この誇りを何人も妨げることができないことを、「わたしの内にあるキリストの真実にかけて」言い放ちます。これは自慢話ではなく偽使徒との戦いをサタンとの戦いと見なしています。

12節以下です。「わたしは今していることを今後も続けるつもりです。それは、わたしたちと同様に誇れるようにと機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切るためです。こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。」彼らは雄弁であり、外見もパウロと比べれば立派だったようです。でもその働きはキリストのためではなく、彼らは自身の誉れのためにしたことでした。しかしパウロは、人からの誉れを求めることはなく、神からの誉れ、ただキリストに忠実であることだけを願ったのです。

この世では、人からの評価がすべてのようです。そういう世界に生きているので、わたしたちもまた、人の評価に心を左右されてしまいます。誰でも褒められれば嬉しいですし、批判されれば落ち込みます。しかし聖書を読んでいると、神に喜ばれた人々は、必ずしも人々から高く評価された人ではないことが分かります。預言者たちは迫害されました。使徒たちの多くは殉教しました。イエス様ご自身は十字架に架けられ死なれました。人の目には敗北に見える出来事が、神の救いの完成でした。

パウロもまた敵対者から多くの苦難を受けました。報酬の問題も受けないことで非難されました、当然の権利として受けたとすれば、結局はお金目的だと更なる非難を受けたでしょう。何をしても批判する人はするのです。でも、そこで批判されるのが嫌だからと、彼らとも上手くやっていく道を選ぶとすれば、サタンの術中にはまってしまうことになります。パウロは人からの誉れではなく、ただ神からの誉れを求めて生きました。人が与える勲章ではなく、最後の時に、神が「よくやった。忠実な僕よ」と言って、命の冠を受けことを求めて生きました。

この世にあって真摯な信仰に生きようとすれば、多くの誤解を受けることがあります。そのときにどう生きるかということがわたしたちに問われています。信仰者にとって本当に大切なのは、「人からどう見られるか」ではなく、「神からどう見られるか」です。今日の聖書箇所は、そのことを私たちに問いかけています。