詩編119編 176節、ルカ15章1~7節
説教「一緒に喜んでください」 田口博之牧師
昨日は、牧ノ原やまばと学園の新年度研修に呼ばれていました。新幹線の特急券を払い戻ししていただけるようなアクシデントもありましたが、何とか無事に務めを果たすことができたかなと思っています。
研修会では、牧ノ原やまばと学園の法人理念「共に生きる」について、更「キリスト教社会福祉の意味や、わたし田口が携わっている事業で、どんなことを大切に思っているのか、スタッフに求めること等を語って頂ければ」という依頼がありました。難しいなと思いつつ、求められていることは、「さふらん便り」などに書いていることと重なっていることから、それをレジュメ代わりにお話してきました。
講演題は「共に生きるまなざし」。副題を共に喜び、共に泣く福祉としました。副題の「共に喜び、共に泣く福祉」は、シルバーホーム「まきば」の理念にもかかわるローマの信徒への手紙12章 15節「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」から取りました。そして主題を「共に生きるまなざし」としたのは、ここにがキリスト教福祉と一般の福祉との違いがあると考えるに至ったからです。それは、神がその人を見るまなざしを知るということです。神はわたしたちのことを、いい加減な思いでは見てはおられません。ご自分が創られたものをご覧になった神は「極めて良かった」と言われました。その頂点にいるのが人間です。ご自分かたどり、ご自分に似せてお造りになったのです。そこにこそ人間の尊厳があります。
障害を持つ方も、認知症になる方も、神様の目から見て高価で尊い存在です。そんな神様のまなざしが注がれています。わたしたちに対してもそうです。この神のまなざしを知ることが、キリスト教福祉の出発点です。この神のまなざしを知れば、わたしたちがその人に向けるまなざしも変わってきます。それはキリスト教福祉に限らず、キリスト教保育、キリスト教教育、また牧会という観点からも重要なことです。
このことは今日のテキストである「見失った羊」のたとえ話にも表されています。ここで注目したいのは、イエス様のまなざしです。イエス様のまなざしは、どこに注がれているでしょうか。羊飼いは百匹の羊を飼っていましたが、そのうちの一匹を見失ったのです。残りは99匹いますが、羊飼いは一匹を見つけるために、99匹の羊を野原に残して探しに行ったのです。ここでの羊飼いのまなざしは、99匹の羊よりも、失われた一匹に集中的に注がれていることが分かります。「見失った」と言うと、羊飼いに過失があったように思うかもしれません。でも、先ほど歌った讃美歌200番の小羊のように、勝手に家を離れて迷子になったとしても、羊飼いにとっては見失ったことに他なりません。
「ある日とおくへ あそびにいき 花さく野はらの おもしろさに、 かえるみちさえ わすれました。」というのですから、お利口な小羊ではありません。能力主義、効率主義で考えたら、そんなおバカな羊は放っておけと言われても仕方ないかもしれません。でもこの讃美歌の羊飼いも、たとえ話の羊飼いも、見失った羊を見つけるまで捜して連れ帰ったのです。
たとえ話の中身を掘り下げる前に、このたとえ話をされたときのイエス様のまなざしが誰に注がれていたかを見ておきたいと思います。今日のテキストの出だしの部分をもう一度読んでみます。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 そこで、イエスは次のたとえを話された」とあります。
ここには「徴税人や罪人」たちと、「ファリサイ派や律法学者たち」という二つの集団が出てきます。今からは便宜上「徴税人」と「ファリサイ派」という二つのい方をします。徴税人はローマの手先として世間からつまはじきにされていた人々、ファリサイ派は、自分たちは正しいと思っていて、世間からもそれなりの評価を受けていた人々です。ここで徴税人がイエス様のところに近寄ってくると、ファリサイ派が、不平を言い始めています。それは自分たちが蔑んでいた徴税人とイエス様が、一緒に食事を共にするほど親しくしていたことが、ファリサイ派たちは気にいらなかったのです。つまり彼らの不平は、イエス様に向けられていたのです。
「そこで、イエスは次のたとえを話された」とありますので、イエス様は不平を言っているファリサイ派たちにまなざしを注ぎつつ、このたとえを語られたと考えるのが妥当です。その心は、ファリサイ派にこのたとえに出てくる羊飼いのようなまなざしをもって欲しいと思ってのことです。
讃美歌200番では、
4節「とうとうやさしい ひつじかいは、 まいごのひつじを みつけました。 だかれてかえる このひつじは、 よろこばしさに おどりました。」で終わっています。でも、たとえ話の方では、そこで終わりません。
6節「家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」と、周りの人を喜びへと招いています。ここに、このたとえ話のポイントがあります。
この喜びへの招きは、たとえ話の聞き手である、ファリサイ派への招きです。彼らは、徴税人ちは、神のもとから離れてしまっているどうしようもない人たちだと思っています。彼らにとってたとえ話に出てきた一匹の羊はダメな羊で、徴税人のことです。彼らに問題があるのです。ところが、そんな徴税人と一緒に食事をするほどに親しくしているのに、わたしたちのことを目に留めてくれないイエス様は、99匹の羊を野原に残して、1匹の羊を探し回っている羊飼いそのものです。ファリサイ派は、そんな思いでこのたとえを聞いていたはずです。
そんな思い持つファリサイ派に対して、イエス様は「一緒に喜んでください」と、喜びへと招いているんです。「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」と言います。つまり、「悔い改める一人の罪人」というのが、迷い出た羊であり、蔑まれていた徴税人のことです。そして、「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」というのが、野原に残した99匹の羊であり、ファリサイ派のことです。その悔い改める必要のないファリサイ派の人々に向かって、悔い改める一人の罪人である徴税人が見つけ出されていることにこそ、大きな天の喜びがある。神の喜びのまなざしが注がれている。あなたたちは、神のことをよく知っていると思っているのだから、わたしが彼らと食事をしていることを一緒に喜べる筈ではないか。わたしと同じ「共に生きるまなざし」をもって、「一緒に喜ぼうよ」と招いているのです。
教区の三役をしていた頃、よく就任式の司式をしていました。その際に多くの場合、わたし自身がモットーとしている「牧羊一念」という題で説教し、今日のルカによる福音書をテキストとしたこともあります。これはヨハネによる福音書21章に出てくる言葉ですが。復活されたイエス様はペトロに対して「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。「人間をとる漁師になりなさい」という言葉が、伝道者への招きであるならば、『わたしの羊を飼いなさい」とは、牧会者への招きと言ってよいでしょう。
教会から離れてしまう羊がいたとき、一匹くらいは仕方がないと放っておいたとすれば「牧羊一念」を実践しているとはいえません。それでもなかなか上手くはいかないことに牧会の難しさがあります。牧師としての力不足を感じるとともに、痛みを覚えるところです。それでも、求道者や他教会員であっても、礼拝に二度、三度来られて、言葉を交わしたことがあるならば、その方のことを忘れることはありません。以前は礼拝に来られていたのに、あまり来られなくなった方については、今どうしているのか。そのことは教会員に限らず考えています。他の教会でもつながっていてくださっていればいいがなあと祈っています。そう思っている方が、何年か経って礼拝に出られたときほど、牧師として嬉しいことはありません。
実はわたしが今日のテキストを読んでいて、よく分からなかった言葉が、「友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」という言葉でした。見つけた自分が喜ぶのは分かる。でも果たして、「友達や近所の人々を呼び集めて」までするだろうか、と考えたものでした。それは自分が「友達や近所の人」であったら、そこまで喜ぶかなあと思っているからに他なりません。
でも、今は良く分かります。それは、見つかった人が、特に面識がない人であったとしても、見つけた人が喜んでいるのだから、その喜びは天の喜び、神の喜びなのだということが、分かるようになったからだと思っています。その意味では多少なりとも、成長したのかもしれません。とは言っても、阪神タイガーズが優勝して喜んでいる人と共に喜べるかといえば、それはどうかなぁと思ってしまうところは、まだまだとも言えますし、成長の余地ありと言えるでしょうか。
わたしたちは、誰かと喜びを分かち合えるときがあるかもしれませんが、同じ喜びに浸れないときもあります。その人にとって喜びに包まれるような出来事であっても、一緒に喜んでくれと言われても、心がついていかない場合があります。
このたとえ話でも、「一緒に喜んでください」と言われた友達や近所の人々が、その招きに応えて一緒に喜んだでしょうか。聖書には「一緒に喜んだ」とは、書かれていません。「喜ぶ人と共に喜べ」と言われても、そのことが大いなる天の喜びだと分からなければ、喜びを共にすることは難しいのです。それは11節以下にある「放蕩息子」のたとえからも明らかです。
放蕩の限りを尽くして帰って来た弟息子を、父親は喜び迎え入れました。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」と言って大喜びし、肥えた子牛一頭を屠って食べるという豪勢な宴会を催しました。しかし、その喜びの歌や踊りの声を外で聞いた兄は、怒って家に入ろうとはしません。兄は父親に言います。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか」と。 それなのに、父からもらった財産を食いつぶした弟が帰って来ると、肥えた子牛を屠って宴会を開いている。そのことに我慢できなかったのです。死んだも同然だった弟が生き返ってきたけれど、一緒に喜ぶことができないのです。
お気づきかと思いますが、さきほどの見失った一匹の羊は、悔い改めた一人の人であり、このたとえにおいてはと放蕩の限りを尽くしたて戻ってきた弟息子のことであり、徴税人や罪人たちを指しています。一方の野原に残った99匹の羊は、悔い改める必要のない九十九人の正しい人であり、このたとえにおいては父のもとにずっといた兄息子であり、正しいと思って生きているファリサイ派や律法学者たちを指しています。
そして、見失った羊のたとえがそうであったように、放蕩息子のたとえもまた、ファリサイ派に向けて語っています。それは31節以下で、「すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」と、兄を「一緒に喜ぼう」と、喜びへと招いていることからもはっきりしています。
そして、このたとえでもまた、兄が同じ食卓に着いたとは書かれていないのです。おそらくは、最初のたとえで「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言ったファリサイ派も変わらなかったのではと、想像するのではないでしょうか。彼らが一緒に喜べるよう心の持ちようが変えられたとすれば、イエス様が十字架につけられることはなかったと思えるからです。そしてそのことは、この物語を読む「あなたがたはどうなのか」とわたしたちへの問いかけに通じています。
わたしたち、特に毎週のように礼拝に出席している者は、イエス様に救われた一匹の羊、放蕩息子の一人であることを自覚しながらも、いつしか99匹の羊の側に身を置き、父のもとで過ごしている兄の心を持つようになりがちです。そんなわたしたちに向かって、イエス様は「一緒に喜びなさい」と呼びかけているのです。初めの思いに立ち帰ることを願っているのです。
よく今日のテキストで「主人公は誰か」と問われることがあります。聖書の小見出しから言えば、主人公は、見失った一匹の羊であり、放蕩息子のように思います。また、このたとえが誰に向けて語られたかを考えたときには、99匹の羊であり、兄息子の方かもしれないと思います。では誰が主人公なのか、わたしの答えははっきりしていて、それは見失った一匹の羊を探し出した羊飼いであり、放蕩息子を迎え入れた父親、すなわち神様が主人公です。失われた者を見つかるまで捜し求めるほどに、わたしたちを愛してくださっている。一緒に喜ぼうと招いてくださる神、この神の愛のまなざしに目を向けることを求めています。神のまなざしを知る時に、わたしたちの自分に対するまなざし、そして隣人に対するまなざしも自ずと整えられるのではないでしょうか、そしてそのとき、一緒に喜ぶことのできる人になれるのではないでしょうか。
詩編119編は聖書の中で最も長く、176節まであります。詩編176編は詩人の信仰告白です。そのもっとも最後の言葉が、
「わたしが小羊のように失われ、迷うときどうかあなたの僕を探してください。あなたの戒めをわたしは決して忘れません」です。詩人は長い信仰の告白の最後に、「だから、わたしは迷うことはありません」とは結びませんでした。自分の弱さを知っているからこそ、「わたしが小羊のように失われ、迷うときどうかあなたの僕を探してください」と祈りました。 わたしたちが、どんな状況に置かれていたとしても、神はわたしを見捨てることなく、探してくださることを信じている。この祈りは、まことの羊飼いであられるイエス様によって実現しました。
教会はファリサイ派のような立派だと思っている人が集まる場所ではなく、迷った人が帰ってくる場所です。傷ついた人が迎えられる場所です。はじめてや久しぶりに礼拝に出られた方は、神が探し出してくださった方です。とりわけ、長く礼拝から遠ざかっていた人が戻ってきたとき、心の底から一緒に喜びあえる群れでありたい。そこにこそ、神の国は近づいているのです。
