マルコによる福音書4章26~29節
「神の国ってなあに」 田口博之牧師
みなさん、おはようございます。今日は「花の日家族感謝礼拝」として、子どもたちや保護者の方も一緒に礼拝を献げています。礼拝堂にいくつか可愛いらしいお花が飾られていますが、昨日CS、はこぶね、幼稚園の子どもたちや卒園生も集って、牛乳パックを加工してフラワーポットを作りました。
花の日というのは、19世紀の中頃、アメリカの教会で6月の夏の花が咲き始める頃に子どもたちを集めて、特別な礼拝を行ったことが始まりと言われています。数には限りがありますが、皆さんの中で、家族や知り合いの方、お世話になっている方にお花を持って伺い、感謝の気持ちを表すことができればと思っています。お花を育てることが得意な方は、鉢に植え替えして上手に育てておられます。
今日の花の日の礼拝ですが、5月第4聖日から始まったペンテコステ伝道月間の最終日となります。子どもたちが歌った「ふしぎな風が、びゅうっとふけば」は、ペンテコステの讃美歌です。聖書にも、弟子たちが家の中に一緒にいたときに、ふしぎな風が吹きつけると、弟子たちは神様が一緒にいてくださることを知り、勇気が湧いてきて、神さまの言葉を堂々と語り始めたことが記されています。
その様子を見た人々は、弟子たちには神さまの力が働いていることが分かり、イエスさまのことを知りたいと思う人々が、弟子たちの周りにどんどん集まってきたのです。そのようにして、生まれたのが教会でした。それは2000年も昔のことですが、今も世界中に教会があり、日曜日に礼拝をしています。イエス様のこと、神様のことを知りたいと思って教会を訪ねてくる人は、大勢います。それは神様が今も生きておらあれることの証しです。
さて、今日は「神の国」についてお話します。皆さんは、神の国って聞くと、どんなところを思い浮かべるでしょうか。神の国は、「御国」と呼ばれることがあります。主の祈りで「御国を来たらせたまえ」と祈りました。「御国を来たらせたまえ」とは、「神の国が来ますように」という意味です。「神の国」が素晴らしいところだからこそ、イエス様は、「御国を来たらせたまえ」と祈りなさい、と教えられたのです。
また、「神の国」は、「天の国」とか「天国」と呼ばれることもあります。では、天の国とは、どういうところでしょうか。天の神様のいるところが天の国ですが、そこは雲の上にある、お花畑のようなところなのでしょうか。あるいは天の国はと、わたしたちが死んだ後に行くところなのでしょうか。実際に「天国」という言い方をすると、死んでから行くところと考える人は多いと思います。わたしは地獄には行きたくないから、天国に行くために善いことをして生きようとか、天国に行けるんだったらイエス様を信じてもいいかなと、思っている人がいるかもしれません。
でも聖書には、神の国は死んだ後で行くところだとは書かれていません。わたしたちが「御国を来たらせたまえ」と祈るということは、わたしたちが生きているこの世界に天国が、神の国が到来することを祈るということなのです。
イエス様は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。と宣べ伝えられました。「近づいた」と言うのですから、神の国は、死んでからしか行けないようなところにあるわけではないということです。また。イエス様は、「神の国はいつ来るのか」という質問に対して、「神の国は、見える形では来ない、『ここにある、あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」とも言われました。
聖書を読んでいると、イエス様は「神の国」についてたくさん話をされていることが分かってきます。そして、そのほとんどすべてが、人々の生活の身近なところにある「たとえ」によって語っているのです。今日の聖書もそうです、「神の国は次のようなものである」と言われたイエス様は、そのものズバリ「こういうものだ」と示すのではなく、「種」を蒔くと、芽が出て、茎が伸びて、その先に穂がついて、やがて実を結ぶというように、植物が成長する様子にたとえて、神の国について語っています。
ところで皆さんは、お花や野菜の種をまいて育てたことがあるでしょうか。ここに咲いているお花も、はじめは小さな種でした。ではなぜ花を咲かすのかと言えば、その種に命があるからです。では、その花を咲かせたのは、いったい誰でしょうか。ここにも種があります。昨日、フラワーポット用のお花を買った後で買いました。ただしこの種は、お花の種ではなく、枝豆の種です。今日にでも種を土に蒔こうと思いますが、順調にいけば9月初め位には収穫できるかなと期待しています。
わたしたちは、土にまいた種が上手く成長すれば、花が咲いたり実を結ばせたりすることは分かります。では、そのことと神の国とはどんな関係があるのでしょうか。わたし自身、そのことがよく分かりませんでした。でも、聖書というのは不思議なもので、繰り返し読んでいると、ああそういうことかもしれないと、分かるようになってきます。ここで大事なことは、種を蒔いた人が、「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 土はひとりでに実を結ばせるのであり」と書かれてあることです。
つまり、この種は人間が知らないうちに育っているということです。わたしたちは種を蒔いたら、それが育つように、水を注いだり、肥料を上げたり、世話をすると思います。でも、「夜昼、寝起きしているうちに」とイエス様が言われるように、わたしたちが働いてないうちに「種は芽を出して成長する」のです。そして、どうして成長するのか、種を蒔いた人は知らないのです。「土はひとりでに実を結ばせる」とは、土を創造されたのも神様ですので、わたしたちが育てているのではなく、神様の働きによって種はちゃんと育つのだと、イエス様は伝えているのです。
では神様は、どのように種を育てているのでしょうか。その秘密を見抜こうとして、種を蒔いたその時から、三日間寝ずに観察したとしても何も変わりません。ところが、「夜昼、寝起きしているうちに」とあるように、目を覚ましてふと見たときに、芽が出ていることに気付くのです。茎が伸びてきたなあ、穂が膨らんできて、いつの間にか実がなっていることに気がつくのです。つまり、人間の知らないところで、ひとりでに成長しているのです。それは人間の知らないところで、神様が育てているということなのです。
今日の礼拝には子どもたちだけでなく、子どもたちの親も出席されていますので、これからの時間は子育てのお話をしたいと思います。というのも、今日のたとえ話は、子育てのあり方に通じていると思うからです。
わたしには3人の子どもがいますが、子育てはとっくに終わって、長男は今年40歳です。一番下の娘も今年35歳になります。赤ちゃんだったときのことを思い出すと、とても不思議な気がします。そして、今にしてはっきり言えること、妻は異論があるかもしれませんが、子育てをしたのは親である自分たちではなく神様だということです。その時々に大変なことは確かにありました。いちおう3人とも大学を出ていますので、それなりにお金もかかっています。それでも、今振り返ると、ひとりでに成長し、大人になり、独立したと思っています。それは、孫と会う時にも、会うたびに大きくなっているので、親が大きくしているわけではないよなと、思わされています。
子育て最中の皆さんにとっては、子どものことでいらいらすることもあるかと思います。でも、親が出来るこというのは、種が蒔かれた後は、水をまく位のことしかできない。つなり、子どもが育つ環境を整えてサポートするだけです。子どもが育つのは、その子に命を与えた神様が養ってくださっているに他なりません。子どもは授かりものです。自分たちで育てるのではなく、神様が育ててくださっていると思えば、気持ちに余裕ができてくると思います。
種も蒔いてから芽を出すまでには時間がかかります。でもその間も、わたしたちの目には見えない土の中で、しっかりと根を張っています。神様が働かれている。神の国とは、そのようなものだとイエス様は言われているのです。それが分からずにいると、まだ芽が出ないのかと土をほじくったり、ようやく出てきた芽をつまんでみたり、伸びてきた茎をもっと早く育つようにと手で引っ張ったら、まさに良い芽を摘んでしまうことになりかねません。長男は1歳3カ月でようやく歩きました。次男は8カ月で歩きましたが、それは成長の速度が違うだけで、一喜一憂することではありません。種を蒔いて、いきなり花が咲くことがないように、すぐに結果をすぐに求めるのでなく、長い目で見るというこが必要ではないでしょうか。
よく教会教育、幼稚園もCSもそうですが、種蒔きの働きだと言いますが、小さかった頃のことを思い出して、聖書を学んでみたいと思って教会を訪ねてくる方がいます。種蒔きがなされていないと、そういうことは起こらないので、キリストの名によって立てられている教育機関の働きの大切さを思います。
さらにいえば、教会の働きは、今日の花の日礼拝もそうですが、蒔かれた種に水を注ぐことだと思わされでいます。ここに集っている子どもたちが、神様に生かされていること、愛されていることを知る。一人一人に愛の種が育つように祈る。その子のうちに、神様が働かれて、時が来れば、芽が出て、花が咲き、良い実を結ぶ日がやってくるように祈る。それがその子にとって、神の国が来たる時となるのではないでしょうか。
