聖書 ヨハネによる福音書13章34~35節
説教 「互いに愛し合いなさい」田口博之牧師
使徒言行録によれば、ペンテコステの日、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、”霊“が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」とあります。聖霊なる神様は、一人一人に与えられた賜物に応じて御言葉を語る霊をお与えになりました。
名古屋教会ではこのことを重んじ、ペンテコステの時期には、信徒の方にも講壇に立って証をしていただいています。先週の衞藤慧志さんに続いて、今朝は山田知恵子さんの証を聞くことができたことを感謝しています。信徒の証に続く、わたしが語る説教の主題が離れたものでない方がよいという思いを持っていますので、先週は「祈り」を主題とし、今朝は「愛」を主題にすることとしました。
「愛」を主題にした理由は、山田知恵子姉が第一コリントの13章を聖書テキストとされたこと、また今日の証しにも出てきましたが、なぜ教会に戻って来るようになったのかを聞いていたからです。そこには修司さんの声掛けや聖書讃美歌のプレゼントがありました。愛に基づく祈りが、具体的な行動へと向かわせたのだと思います。そのときの言葉と行動とは、裏腹なものにはなりません。
イエス様は愛の方でした。イエス様の愛は自分の命を犠牲にして、すべての人をご自身のところへ呼び戻す愛です。今日はヨハネによる福音書13章34節から35節をテキストとしました。ヨハネの13章というのは、イエス様が十字架に捕えられる前夜、弟子たちの足を洗われるとことから始まります。今日のテキストは、弟子たちとの最後の食卓において、送別の説教を始められたときの言葉です。
イエス様はここで、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい」と言われました。「互いに愛し合いなさい」とは、イエス様の教えとして、聞き慣れた言葉のように思います。でも、聖書というのは不思議な書物で、読むたびに新しいことを教えてくれます。と言うのも、イエス様はここで「新しい掟を与える」と言われています。ユダヤ人であれば、わたしたち以上に「互いに愛し合いなさい」という言葉を聞いていただろうと思います。昔からある「古い掟」といえるように、愛しなさいという命令自体は、新しくありません。
しかし、イエス様は「互いに愛し合いなさい」と言われた後で。改めて「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われています。この「わたしがあなたがたを愛したように」ということにこそ、この掟が新しい掟となる理由があります。愛の基準が新しくなったのです。十字架に至るまで愛し抜かれたキリストの愛が、新しい尺度となったのです。
ここが肝心なのです。わたしたちは、愛の大切さを知っています。それと共に、わたしたちは愛することの難しさ知っています。愛を知り、愛を語りながら、本当の愛を見出せないでいるのです。特に「互いに愛し合う」ということは難しい。わたしたちの生きる世界は、愛し合うことよりも、憎み合うことのほうがはるかに多いのです。そのような意味でも、「互いに愛し合いなさい」というイエス様の言葉を、新しい掟としてとらえ直すことが必要ではないでしょうか。
自分が愛されていることを知らなければ、誰かを愛することはできません。その上で、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と言われます。イエス様は、わたしたちたちを愛してくださったその愛で、互いに愛し合いなさいと言われたのです。愛の弟子集団を造りなさいと言われたのです。
ヨハネによる福音書13章は、イエス様が弟子たちの足を洗う、洗足の出来事から始まっています。そして、13章14節から15節ですけれども、イエス様は、「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」と語っています。 イエス様は弟子たちの足を洗うことをとおして、愛の模範を示されたということができます。
というのも、この足を洗うというところを、愛するに言い変えるとこうなります。「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたを愛したのだから、あなたがたも互いに愛し合わなければならない。わたしがあなたがたを愛したとおりに、あなたがたも愛し合うようにと、模範を示したのである。」
当時「足を洗う」というのは、主人がするものではなく、奴隷である僕のする仕事でした。でも、「主であり、師である」イエス様が、僕となって弟子の足を洗われたのです。これには、さすがのペトロも躊躇します。8節「わたしの足など、決して洗わないでください」と言っています。そう言いながら、「主よ、足だけでなく、手も頭も」というのは何とも滑稽で、ペトロはイエス様の思いが分かってなかったようです。
では、イエス様がどんな思いで、弟子の足を洗われたのでしょうか。すでに13章1節にその答えが書かれてあります。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」主であるイエス様が弟子の足を洗われたのは、「弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」ことの証しです。そのイエス様が、「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」と言われます。「互いに愛し合いなさい」とは、「互いの足を洗い合いなさい」ということです。すなわち聖書でいう愛は、言葉だけで終わるものではなく、具体的な行動を伴うものです。
日進市に「アガペクリニック」という病院があります。アガペはギリシャ語聖書の愛から取られています。わたしは先代の院長しか交流がありませんが、現院長の伊藤志門先生はご子息ですが、よきクリスチャンドクターです。アガペクリニックのホームページには、「病気で身体や心が弱った患者さんに寄り添い、地域の方ひとりひとりにアガペの心で仕えていきたいと思っています」。「アガペクリニックが目指すのは、『患者に最期まで寄り添える医療機関』です」と記されています。また、アガペクリニックのマークには、イエス様が弟子の足を洗う姿が象られています。誰かの足を洗うためには、その人よりも低い姿勢を取らなければ、しっかりと洗うことはできません。相手よりも下になる。目線を合わす程度であれば、「仕える」人にはなれないのです。
弟子というのは、師を真似るところから始まります。木曜日にガリラヤホールで書道教室をしています。今は幼稚園の書きかたの子を含めると、はこぶねの子、近隣の子、幼稚園の卒園生を含めて30名以上が通っていて、時にカオス状態となっています。時おり、子どもの後ろに回って、子どもの手に自分の手を添えて教えることがあります。そこでも子どもの性格が表れて、力んでしまう子もいます。でも中には、素直に筆を委ねる子のできる子がいて、筆の入り方や、とめ、はね、はらい方など、筆の運び方を覚えて見違えるように上達します。弟子とは、まず師のまねをする者なのです。
イエス様は、弟子たちに自分の真似をして欲しいと思いました。自分のように愛する人になってほしかったのです。教会を愛の共同体にしたかったということです。わたしはあなたがたを「この上なく愛し抜かれた」ことを具体的に示すために弟子たちの足を洗いました。そして、あなたがたも互いの足を洗い合えるほどに、愛し合いなさいと言われました。とはいっても、足を洗い合うということを教会でやろうと思えば、簡単なことではないように思えます。誰かの洗うこともそうですけれど、誰かに洗ってもらうことのほうが抵抗を覚えるのではないでしょう。でも、ほんとうはそれができて、自分のプライドも捨てて、重荷を降ろすことができる。その時にこそ、教会になれるのではないでしょうか。そこにも「新しい掟」の意味があります。
批評家・随筆家の若松英輔さんがいます。以前にEテレの「100分de名著」で「新約聖書 福音書」を担当されました。最終回で、若松さんはイエス・キリストの言葉の中でも最も大切にしたいと思っている言葉として、ヨハネによる福音書15章12節ですけれども、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」を挙げられました。この言葉は、今日のヨハネによる福音書13章34-35節の繰り返しです。
若松さんは、「イエスは、わたしがあなたがたを愛したように。あなたがたは神を愛せとは言いません。『神を愛すること』よりも、『互いに愛し合うこと』を強く求めるのです。私はイエスの教えは、この一言に尽きるのではないかとすら感じています。つまり、重要なのはイエス、すなわち神からの愛を感じ直すこと、そして、それに呼応するように『互いに愛し合うことです。』さらに『互いに』という言葉には、他者だけでなく自分自身も愛する、ということが含意されている」と語っています。イエス様に愛されている自分を見失わないということです。
ペンテコステの日、聖霊は弟子たちにさまざまな言葉を語らせました。しかし、その根底にあるのは愛です。戸田伊助先生は「愛せる自由をください」と言われました。聖霊は愛の霊です。わたしたちをキリストの愛に生かし、その愛を互いに分かち合う者へと変えてくださる神の力です。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」。この新しい掟を与えられた教会として、主の愛にとどまって歩みたいと切に願います。
