使徒言行録4章29~31節
“祈りに押し出されて” 田口博之牧師
日本のキリスト者人口は、昔から総人口の1%未満だと言われています。日本の総人口が1億2200万人ほどですから、100万人いるかいないかとなるでしょうか。ところが文化庁の宗教統計によれば、日本のキリスト教信者は約200万人です。ただし、これは各宗教団体からの発表であり、すべてを合わせると1億7千万人を超えて日本の総人口よりもはるかに多い数となりますので、あまり当てにはなりません。日本の新宗教と呼ばれるところは、相当な数を盛っていると思いますし、日本基督教団も現住陪餐会員数ではなく、不在会員や別帳会員すべてを合わせた信者数での報告となっていますので、アクティブなキリスト者はかなり絞られると思われます。日本のキリスト者は、日本社会にあって明らかに少数派、マイノリティーです。
少数派で生きるということは、芯を持っているからこそですので、恥ずべきことではありません。しかしながら、少数派で生きていくためには、周りとは違う選択をせざるを得ませんから。「生きづらさ」を覚えるものです。
すると、どうしても防御反応が生まれてきます。「長い物には巻かれろ」的に、大方が賛成するものには、波風を立てず逆らわないでおこう。いたずらに摩擦を起こさないように、周りに溶け込もうと考えます。わたしは日本伝道の難しさは、そこにあるように思っています。イエス様のことを伝えたいのだけど、場の空気を乱してしまうのかと思い、ほんとうに大切なことが言えなくなってくる。では、どうすればよいのでしょう。ぐいぐい迫るような伝道をしなくても、誰かが来るのを待てばいい。名古屋教会は立地もいいので、そういうことに頼りすぎてきたような気がします。でも、それでは伝道したことにはなりません。
福音書の終わりから使徒言行録の初め、イエス様の十字架と復活から昇天、聖霊降臨の記事を読むとき、弟子たちは聖霊の力を受けなければ、伝道することはできなかったことがわかります。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたはたは力を受ける」とイエス様が約束されたように、聖霊こそが力の源、伝道の源泉なのです。では、どうすれば聖霊を受けることができるのでしょう。弟子たちが集まって約束の聖霊を祈り求めていたように、祈りなしに聖霊を受けることはできません。それまで恐れにとらわれていた弟子たちは聖霊を受けて、力強く御言葉を宣べ伝える者へと変えられました。
使徒たちが、大いなる神の御業を宣べ伝えたことで、何千人もの人々がイエスを信じました。それでも生まれ故郷の言葉で聞いて信じた人々は、それぞれの国に帰っていきます。エルサレムのユダヤ人社会の中で残った人々は少数派でした。しかも、彼らが宣べ伝えるイエス・キリストは、神を冒涜したという罪に問われ、死に引き渡されたのですから、自分たちも犯罪人の仲間と見なされたのです。それは、この日本において少数派で生きるわたしたちより、はるかに厳しいことです。わたしたちは、伝道したからといって逮捕されることはありませんが、大胆に御言葉を語っていたペトロとヨハネは捕らえられて、最高法院で裁判にかけられたのです。
最高法院の議員たちは、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問します。するとペトロは聖霊に満たされてこう答えました。4章10節以下です。「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
大胆な言葉です。最高法院の議員たちは驚きました。結果17節以下ですが、「このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう」と相談し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令します。しかし、ペトロとヨハネは、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」 と答えます。議員たちは、更に二人を脅して釈放しました。
教会の仲間たちは、釈放されたペトロとヨハネ、そして使徒たちのために祈ります。4章29節「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」この教会の祈りによって、使徒たちは更に力づけられました。権力者の迫害を受けても、失望、落胆するどころか強められていきました。
この祈りで思わされることは、祈りは人を力づけ、行動へと向かわせるということです。衞藤さんの証しにあったように、祈りは人を動かします。ふと考えるのです。信仰の自由が保障されている現代において、伝道したからと言って、捕らえられたり裁判にかけられたりすることは考えられませんが、仮にそのようなことが起こった場合にどう祈るでしょうか。「早く迫害が収まりますように」、「安心して伝道できるようにさせてください」そんな祈りをするのではないでしょうか。あるいは、わたしたちは世の政治を司る人々のために折りますが、「最高法院の指導者が悔い改めますように」そんな執り成しの祈りになるような気がします。でも、初代の教会はそんな祈りをしなかったのです。むしろ、迫害の中にあって、「大胆に御言葉を宣べ伝えることができるようにさせてください」そう祈ったのです。
顧みて、わたしたちの祈りというのは、自分が変えられることを祈るのではなく、周りが変わることを願うことのほうが多いのではないでしょうか。人間関係が上手く行ってないときも、自分はこのままで問題ない、相手が悪いのだから考えを変えてもらわなければ困ると、考えています。でも、それを前提に祈ったからといって、状況が変わることはありません。先週のペンテコステ礼拝でナグネ先生が語られたように、聖霊は愛の霊です。愛の聖霊を求めることで、愛せない人を愛することができるように求めることができます。そのようなことを自分で成そうとすれば、考えるだけでストレスが湧いてきます。でも、わたしたちが見つめるのは苦手なその人ではなく、聖霊なる神様です。愛の霊が充満すると相手の立場に立って、相手の言葉で語れるようになるはずです。
初代の教会は、迫害は避けられないことを知っていました。なので、迫害がなくなるようにとは祈りませんでした。でもなぜ、迫害に遭って、「大胆に御言葉を宣べ伝えることができるようにさせてください」と祈ることができたのでしょうか。その背景には、間違いなくイエス様の教えがあります。
マタイによる福音書5章、山上の説教の初めに八つの幸いの教え(八福の教え)があります。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」から始まる八福の教えの最後は、10節「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」です。「義のため」とは「神の義のため」ということですが、これは「イエス様のため」です。教会は、イエス・キリストの名を宣べ伝えることで迫害を受けましたが、山上の説教のこの言葉を思い出していたと思います。イエス様の名のために迫害を受けるなら幸いなことと受けとめた。だから「迫害がなくなりますように」とは祈らなかったのです。
この八福の教えで気付かされるのは、この8番目の幸いの教えは11節以下でさらに深められているということです。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」イエス様は、弟子たちがわたしの名のために迫害を受けることをご存知だったのです。ですから、ここを最も詳しく述べました。「同じように迫害された」とされる「あなたがたより前の預言者」とは、イエス様のことです。初代の教会は、天には大きな報いがあることを信じて、イエス様のように迫害を受けることを喜んだのです。そのときの眼差しは、迫害する人々ではなく天に向いていたのです。
また30節では、「どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」と祈ります。初代の教会は、大胆に御言葉を語るだけではなく、神ご自身が働かれることを求めたということです。御心と信じて祈り続け、御心が成るときに、癒しや奇跡が起こることはあり得るのです。
31節に「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」とあります。熱心な祈祷会がなされていたのです。わたしたちの祈祷会はどうでしょう。祈祷会に出ても前のままでは、意味がありません。「一同の集まっていた場所が揺れ動き」とは、神の臨在によって揺り動かされたということです。そして、ペトロやヨハネだけでなく、聖霊に満たされた人々は、大胆に神の言葉を語りだしたのです。
教会にとって一番の敵は、大胆になれないということです。迫害はなくても、少数者であることで恐れを抱くのです。ここでは語ることをやめさせようとする力が働きます。でも、周りに気を遣うあまり、神様から目を離してしまったら、わたしたちはこの世に完全に同化します。地の塩でも、世の光でもなくなってしまいます。わたしたちは周りを見るよりも先に、わたしたちに勇気を与え、恐れを打ち勝ってくださる神に目をとめることを忘れてはなりません。
聖霊が降ったのは、最初のペンテコステの日だけではありません。ペンテコステ伝道礼拝で降るだけでなく、週毎の礼拝で、祈祷会で、わたしたちの信仰と教会の営みの中で聖霊は注がれています。だからわたしたちは、恐れに支配されるのではなく、祈りによって押し出されるのです。主は、今も聖霊によって教会を満たし、大胆に福音を語らせてくださいます。その時、私たちの思いを超えて、神ご自身が伝道の御業を前進させてくださるのです。大胆に御言葉を語り、喜んで伝道することができるのです。
