聖書  エレミヤ書36章27~28節、 テモテへの手紙二3章14~17節
説教 日本基督教団信仰告白(2) 「聖書とは何か」 田口博之牧師

先月から毎月第一聖日に日本基督教団信仰告白を学び始めています。先月の1回目は、前段にあたる「我らは信じかつ告白す」の部分を学びました。わたしたちが何を信じ、そして告白しているのか、信仰告白を持つということにどのような意味があるのかを確認しました。そこで何が語られたのか、毎週のことですが、その日の礼拝に出られなかった方は、教会のホームページのブログに説教原稿を載せていますので、是非アクセスして読んでいだければと思っています。

さて、今日から具体的な信仰箇条に入っていくことになります。日本基督教団信仰告白は、次の言葉によって始まっています。「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会のよるべき唯一の聖典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。」

ここを読んで明らかなように、日本基督教団信仰告白の特質は、「聖書とは何か」を語るところから始めているということです。このことは、この信仰告白を持つ日本基督教団が、マルティン・ルターに始まるプロテスタント(福音主義)の教会であることを明らかにします。ルターの宗教改革は、ローマ教皇の権威以上に、聖書の権威を主張したことにありました。

それと共に、日本基督教団信仰告白は、プロテスタント教会の中で、ジャン・カルヴァンを源流とする改革派教会の伝統に立っていることを明らかにします。改革派教会の特質は、世界それぞれの国や地域で信仰告白を生み出したことにありますが、ほぼすべての告白文は、神から始まるか、聖書から始まるかのどちらかです。名古屋教会は教団に合同する1941年までは、日本基督教会に属していました。旧日本基督教会信仰告白は、「我らが神と崇める主イエス・キリストは、神の独り子にして」と、神信仰から始めています。ここにも改革派の教会らしい特質があります。

日本基督教団信仰告白は、旧日本基督教会の信仰告白に倣ったといいながら、聖書信仰から始めているのは興味深いことです。そこには新しく合同教団として歩んでいこうという志を見ることができますが、わたしは聖書信仰を最初に言い表しているのは素晴らしいことだと思っています。

カルヴァンは、ジュネーブ教会信仰問答において、最初に「人生の目的は、神を知ること」と言い表しました。では、どうすれば神を知ることができるのかといえば、聖書を通してしかありえません。キリスト教の神や信仰ついて知ろうとして、聖書以外の入門書を読んだとしても元になっているのは聖書です。でも、聖書はその分量だけでもあまりにも多く、いったい何が書いてあるのか、どこが重要なのかが分かりません。道徳的な教えなのかといえば、そうではないということも日本基督教団信仰告白を学ぶことを通して分かってくると思っています。

さて第一段落の前半で、「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり」と告白します。この部分は、説教題とした「聖書とは何か」をよく言いあらわしています。主語は「旧新約聖書」で、述語は「正典なり」です。このことは。旧約聖書39巻、新約聖書27巻の計66巻以外に聖書はないということを示しています。

わたしたちが用いている新共同訳聖書は、カトリック教会と共同で翻訳作業をした最初の聖書です。新共同訳聖書の中には「旧約聖書続編付き」という聖書も販売されていて、皆さんの中にお持ちの方がいらっしゃると思います。この続編というのは、カトリック教会では第二正典と認める文書です。旧約と新約の時代をつなぐ貴重な文献であることに違いありませんが、66巻から成る旧新約聖書のみを正典とするのがわたしたちの信仰です。ですから、礼拝では旧約と新約の両方を朗読することが多いのですが、続編が礼拝のテキストとして読まれることはないのです。

ところで「正典」という言葉は、ラテン語では「カノン」と発音される語の訳ですが、カノンとは、尺度、ものさしを意味します。あらゆるものが相対化される時代において、キリスト教会は聖書という絶対的な尺度・基準を持っているのです。旧新約聖書を基準とするということは、わたしたちにとっても明確な尺度です。これを「規範」と呼ぶこともできます。この段落の終わりは、「信仰と生活との誤りなき規範なり」という言葉で結ばれています。わたしたちは聖書以外の何かを信仰の規範とすることはありません。信仰告白を学んでいますが、これも聖書を超えることはないのです。

キリスト教の名を標榜しながらも、キリスト教とは呼べず異端と見なされる集団がありますが、必ず旧新約聖書以外の経典を持っています。しかもそれは、聖書に並ぶものどころか聖書の上に位置づけられています。そのようなことは、聖書こそが唯一の正典であり規範とする限りありえないことです。別の言い方をすれば、聖書を正典としているからこそ、教会は教会であり得るということです。

このようなことを踏まえた上で、あらためて第一文の主語が、ただ「聖書」ではなく、「旧新約聖書」と言われることを重くとらえたいのです。それは、聖書は旧約と新約とに分けられていながらも、聖書といえば旧新約聖書であるということです。当たり前のようなことですが、これはとても大切なことで、わたしたちが「旧約聖書」と呼んでいるヘブライ語聖書だけを「聖書」とするユダヤ教との違いを明らかにします。それと共にキリスト教会は、旧約聖書はイスラエルとの旧い契約であるからという理由で軽んじることもしていないのです。

福音書を読んでいると、イエス様が、「聖書にこう書いてある」と、何度も言われています。旧約聖書と新約聖書は「預言と成就」の関係でもありますから、旧約聖書なしに、新約聖書を正しく理解することはできません。また、旧約聖書それ自体から、福音の真理を読み取ることができません。なぜなら、イエス・キリスト以前ですので、福音におおいがかかっているのです。そのおおいは、新約の光を通すことによって取り除かれます。ですから礼拝で、旧約聖書を主なテキストとするときには、必ず新約聖書も読むようにしているのです。

ところで、日本基督教団信仰告白において、旧新約聖書が「神の霊感によりて成り」と告白されているのはどういうことでしょうか。この後で「全き知識を我らに与うる神の言にして」という言葉も続きます。聖書は、人間が書いた言葉に違いないけれども、神の言葉だということです。いかにも矛盾するようですけれども、テモテへの手紙二3章16節には、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」とあります。この言葉は、「旧新約聖書は神の霊感によりて成り」という告白の聖書的典拠となっています。

霊感という言葉についてですが、元のギリシア語では「セオプニュートス」と言いますが、これは「セオス」神と、「プネオー」(息を吐く)という言葉の合成語です。創世記2章7節に、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。主なる神は、土の塵で形づくった人間に、ご自身の命の息を吹き入れられました。この「息」と訳されている言葉は、「霊」と訳すことができます。神の霊である命の息が、聖書を書いた人々に吹きこまれたのです。それゆえに、聖書は人が書いた言葉であるにも関わらず、その人は自分の思いを綴ったのではなく、その人のうちに神の霊(聖霊)が働き、神ご自身の言葉が書き記されたのです。

このことは、聖書がどのように理解されるかということに関わってきます。聖書が聖霊によって書かれた言葉であれば、聖霊の助けがなければ理解できません。聖霊が働かれることで、聖書は人の言葉ではなく、神の言葉として立ち上がります。聖霊の導きにより、正しく聖書が理解できるよう、祈りつつ読むという姿勢が大切です。

ところで、皆さんの中に「逐語霊感説」という言葉を聞かれた方がいらっしゃるでしょうか。聖書の一語一句が、神の霊感によって書かれたものであるがゆえに、絶対に誤りがないのだという考え方です。そうなると、たとえば進化論を否定します。また同性愛もとんでもないという話になります。同じキリスト教でも、聖書で否定していることを肯定するような考え方を非難するようになります。わたしたちの教会の信仰は、聖書が神の霊感によって書かれたことは信じますが、逐語霊感説を取ってはいません。

逐語霊感説によれば、神の霊感を受けた聖書の書き手は、半分意識が失った状態のようになっていて、筆記用具のようになっていたことになります。しかし、わたしたちが聖霊を受けたときに、恍惚状態になるのではなく理性の人となります。聖霊を受けたときに、神に造られた本来の自分を回復することになるからです。

テモテへの手紙二の受取人であるテモテについて、この手紙の1章5節には次のように紹介されています。「そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています」。テモテは、祖母ロイスと母エウニケの信仰を受け継いでおり、純真な信仰を持っていた人でした。それで、3章15節にあるとおり「幼い日から聖書に親しんできた」のです。母と祖母からは、聖書を読む時には、信仰をもって祈りつつ読むように勧められてきたことでしょう。ここで語られる聖書が「旧約聖書」であることは言うまでもありません。

もう10年くらい前になりますが、「100分で名著」というNHKの番組で、「旧約聖書」というテーマで放送されたことがありました。「聖書」でも「新約聖書」でもなく「旧約聖書」が、「名著」として紹介されていたのです。勉強にはなりましたが、違和感を持ちました。解説者の姿勢から仕方のないことですが、旧約聖書を「神の言葉」として重んじた放送ではなかったのです。聖書は「名著」というよりも、テモテへの手紙二3章15節にあるように、「キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く」ことを目的に書かれた神の言葉なのです。

ところで、聖書が「神の霊感によりて成り」と言うとき、わたしがいつも思い出すのが、旧約聖書のエレミヤ書のエピソードです。エレミヤ書は、エレミヤの書記官バルクが筆記したものです。エレミヤ書36章18節(旧1246p)に「エレミヤが自らわたしにこのすべての言葉を口述したので、わたしが巻物にインクで書き記したのです」というバルクの言葉があるとおりです。しかし、時のユダの王であるヨヤキムは、自分の政策に物申すエレミヤの言葉に腹を立て、23節「王は巻物をナイフで切り裂いて暖炉の火にくべ、ついに、巻物をすべて燃やしてしまった」のです。この時点でエレミヤ書は燃えてなくなったのです。ところが、エレミヤは、燃やされた巻物の記した同じ言葉を、別の巻物に再現しました。そのことを記しているのが36章27節以下です。こうあります。

バルクがエレミヤの口述に従ってこれらの言葉を書き記した巻物を王が燃やした後に、主の言葉がエレミヤに臨んだ。「改めて、別の巻物を取れ。ユダの王ヨヤキムが燃やした初めの巻物に記されていたすべての言葉を、元どおりに書き記せ」。

それでどうなったかというと32節です。「そこで、エレミヤは別の巻物を取って、書記ネリヤの子バルクに渡した。バルクは、ユダの王ヨヤキムが火に投じた巻物に記されていたすべての言葉を、エレミヤの口述に従って書き記した。また、同じような言葉を数多く加えた」。

わたしは説教をパソコンに打っていますが、これまでに何度かある程度できたところで、土曜日の深夜にデータが消えて、真っ青になってしまったことがあります。一度はそのことを講壇でお伝えした上で、走り書きしたメモでお話しました。また2018年のことですが、パソコンが重くなったのでデータをハードディスクに移した後でそれを落としてしまって、2004年以来のあらゆる記録を無くすという経験もしました。泣きたくもなりましたが、どうしようもないことです。

エレミヤはどうだったかといえば、エレミヤ書25章1節から3節によれば、エレミヤはヨヤキムの第4年までの23年間、主の言葉を語ってきましたが、その言葉をバルクは巻物に記していたのです。そして今日の36章9節によればヨヤキムの治世の第5年ですから、24年間語ってきた神の言葉を記した巻物が燃やされると言う事件が起こったわけです。ところが、その言葉をすべてエレミヤは語り直すことができ、さらに数多くの言葉を加えます。これをバルクは口述筆記したものが今のエレミヤ書です。聖書が「神の霊感によって成り」というのは、こういうことを意味します。

旧新約聖書合わせて66巻。1巻の聖書が書き上がるのに、どれだけの人が用いられたでしょうか。執筆された時代も1000年上の幅があります。書いた人たちの職業や立場も様々です。羊飼いもいれば漁師もいます。四つの福音書にも個性や特徴があります。しかしながら、内容そのものは一貫しています。すべてが神と救いについて全き知識をわたしたちに与えてくださる神の言葉です。エレミヤがしたことも、人間の為せる業ではありません。神の霊がその人に働いて、聖書は出来上がったのです。

聖書の言葉は、わたしたちを命の道へと導きます。テモテへの手紙二3章16節は、神の霊の導きの下に書かれた聖書が、どのようにして有益であるのか、「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をする」という4つの益を示し、17節「こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです」と語ります。

聖書は人が書いたものであっても、神の霊感によって書かれたがゆえに神の言葉であることを学びました。このことは、聖書をどう理解するかという問題にもかかわってきます。それは聖霊の導きの中で聖書を読むことです。そうすれば、聖書がただの名著としてではなく、神の言葉として立ち上がってくるはずです。だからこそ聖書は、わたしたちの信仰と生活との誤りなき規範となり得るのです。