聖書  レビ記25章8~17節    ルカによる福音書 4章16~21節
説教 「主の恵みを告げる年に」 田口博之牧師

新しい年、2026年が始まりました。皆さん、いいお正月を過ごされたでしょうか。普段はあまり顔を合わせないお子さんやお孫さんと共に過ごされた方もいらっしゃるでしょう。あるいは、お正月といいながらも、普段とさほど変わりがなかったという方がいらっしゃるかもしれません。1日にこの礼拝堂で行われた地区の新年合同礼拝に出席された方も十数名いらっしゃいました。

お正月には、「あけましておめでとうございます」の挨拶を交わします。無事に一年を終え、新しい年を迎えられたことへの感謝と、お互いの幸福を願い合う思いを込めての挨拶ですけれども、皆さんへの公の挨拶として、毎年、新年最初の礼拝では、聖書の言葉によって祝福の挨拶をしています。使徒パウロが教会の信徒たちに送った手紙に記す冒頭の言葉です。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」

毎年、教会近くの大津橋小園で行われる越冬炊き出しだけ行くようにしています。昨夜の配食数は少なめで85名ほどでした。少なければ少ないほどよいのです。特に昨日は朝からとても冷え込んでいました。この寒空に野宿せねばならないとすれば、とても厳しいです。クリスマスに「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」という聖書の言葉を説いた牧師として、クリスマスの祝会では、宿屋の主人として「お泊りください♪」と歌ったのに、越冬炊き出しに行くたびに、主に問われています。そう問われながら、夕べは「こんばんは」と声をかけて食事を配りました。「こんばんは」とは日常の挨拶ですけれども、「あけましておめでとうございます」という挨拶はしにくいのです。どこがおめでたいのかと、受けとめられかねない。でも、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と言う祈りをもって、「こんばんは」と挨拶していました。

新年礼拝にあたって、皆さんと分かち合いたかった言葉は、イエス・キリストの祝福の言葉、故郷ナザレにおいて、安息日の会堂で語られた言葉です。また、この言葉に関連して、ヨベルの年について記したレビ記25章の一部を選ばせていただきました。但し、イエス様がナザレの会堂で朗読された聖書の言葉は、レビ記ではなく、イザヤ書の言葉です。 ルカによる福音書4章17節以下をもう一度読んでみます。

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

これは、イザヤ書61章、1,2節の言葉です。今わたしは、2026年が、「主が恵みをお与えになる年となりますように」と祈りつつ、この言葉を読み、説教を始めています。この年が皆さんにとって、礼拝を覚えながらも集うことができなかった兄弟姉妹にとって、また様々な困難の中で生きている方たちにとって、主の恵みの年となることを祈り願いつつ。

ただ、イエス様は違いました。そのように祈り願うのではなく、20節にこ「そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」とあります。イエス様は、御言葉に託して祈ったのではなく、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言されたのです。それは、すなわち、イザヤが預言した捕らわれ人を解放させるメシアはわたしなのだということです。主はわたしに霊の油を注ぎ「貧しい人に福音を告げ知らせるため」に遣わされた。さらには、「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」とご自身のメシアとしての使命を語るのです。

ところで、わたしはこのナザレの会堂での出来事にとても興味をそそられています。これは安息日の礼拝ですけれども、わたしたちの礼拝と比べて、どこが同じで、どこが違うのかを想像するのです。名古屋教会の礼拝堂はとてもシンプルですが、ナザレの会堂、シナゴーグは、ここ以上にシンプルな造りだったと思います。講壇もこのように高くなく、フラットではなかったか。別の聖書の箇所ですが、イエス様が手の萎えた人を会堂の真ん中に立たせたという記述があります。するとこのような長椅子が、講義室のように前を向いているのではなく、壁面に置かれていたか、あるいは椅子はなく地べたに座っていたのではないか。但し、16節に「聖書を朗読しようとしてお立ちになった」とあるように、聖書を朗読する時に用いるCS礼拝で用いるような演台は置かれていたのではなかったか。

そして、ここでのイエス様がそうであったように、聖書を朗読する人は資格のあるラビでなくてもよかった。また聖書は、「イザヤの巻物」とあるように、このように1冊に製本されたものではなく、聖書毎に巻物となっていた。また、「預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった」とあるように、この礼拝でイザヤ書を朗読することは決まっていたけれど、何章の何節を読むのかまでは決められておらず、朗読者に委ねられていたのではなかったか。そう思うと、わたしたちの礼拝と比べても自由さがあった、そんなことを想像しています。

さらに20節、「イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた」という言葉から想像するに、イエス様の聖書朗読は普通の人の朗読とは違っていた。朗読する人と説教する人が同じだったのかどうかは分からないけれど、今日の礼拝がそうであるように、聖書を読まれたイエス様ご自身が説教もされた。その説教の内容については、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」という言葉でしか分からないけれど、22節に「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った」とあるように、これまで聞いたことのないような恵みに満ちた力強い説教だったということです。

わたしは説教塾で加藤常昭先生から多くのことを学びましたが、その一つに、説教では説明してはいけないというアドバイスを受けました。でも、それは簡単なことではないのです。説教準備で勉強してきたことは、どうしても伝えたくなる。これはこういう意味だと、説明したくなってしまう。それでも、教えたいと思うのは当然だけど、それではいけないのだと指導されました。そういう意味で言えば、「説いて教える」と書く、「説教」という日本語自体に問題があるのかもしれません。

では、どんな言葉がふさわしいのかと言われると、それも難しいのですが、わたし自身の思いとしては、礼拝が終わった後で、皆さんが「学んだ」とか「教えられた」と思って帰るのではない。それはポジティブな感想と言えるかもしれないけれど、そう思ったとしても、何を学んだか、教えられたかは忘れてしまうものです。それよりも、ベツレヘムの羊飼いが「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」ように、「ああ、やはり神様って素晴らしいな」と思えるのが、ほんとうの説教であり、礼拝だと思っています。素晴らしいと思えたということは、何かしらの感動があったということですから。そうであれば、説教で何が語られたかは、忘れたって構わない。でも感動すれば、感動したということは覚えているし、来週もまた礼拝に行きたいと思えるはずです。

この時イエス様は、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と、福音を宣言したのです。皆の前で「わたしは、イザヤが預言したメシアとして、貧しい人に福音を告げ知らせるために、捕らわれている人を解放するためにやってきたのだ」、説教でそう宣言されたのです。そのような言葉を聞いた人は、普段聞いている律法主義的な説教でなく、説明的でもない説教に驚いたはずです。

当たり前の話ですが、わたしはメシアではありませんから、イエス様と同じ説教はできません。それでも、この出来事を二千年前にあった過去の出来事として聞くだけでは終われない。イエス様がわたしたちのために何をしてくださったのか知る者として、今日、わたしたちに起こり得る出来事として、語り、聞くことができるはずです。イエス様が、ザアカイの家を訪れたときに、「今日、救いがこの家を訪れた」と言われた同じ出来事が、今日、この礼拝において起こるのです。

先ほど「2026年が、主が恵みをお与えになる年となりますようにと祈りつつ、説教を始めています」と言いましたが、今はむしろ、イエス様が言われたように、「主の恵みの年を告げるため」という思いで説教しています。この「主の恵みの年」とは、レビ25章で読まれ、讃美歌431番でも歌ったヨベルの年のことを言います。先ほどはレビ記25章の一部しか読みませんでしたが、25章9節から25章の終わり55節までは、すべてヨベルの年について書かれてあります。これをザックリとまとめてしまえば、50年に1度めぐるこの年には、すべての所有地が元の持ち主に返され、奴隷は解放され、負債は帳消しになるなど、すべてがリセットされるということです。

しない方がいいと言った説明になってしまいますが、ここは知っていただくとよいと思うので、聖書をお持ちの方は、巻末にある語句解説を開いてみてください。後ろからページをめくった42頁に、ヨベルの年についての説明が出ていますので、よくまとまっていますので、そこを読んでみます。(朗読する)

お分かりいただけたと思いますが、素晴らしい仕組みですね。しかし、「実際にそのまま守られていたかどうかは疑わしい」とあるとおり、ヨベルの年が行われたという証拠になるものは、どこにもありません。なぜできなかったと言えば、持てる人はそれを手放したくないからです。無理に行ったとすれば、不満を持つ人は多く社会は混乱するでしょう。でも、土地も財産もすべては自分の力で手に入れたものではなく、神から預かっているに過ぎないという聖書的に当たり前の考えに立てば、できないことはないはずです。そして、ヨベルの年の考えを理念とするだけでも、現代の国際間の争いや、経済格差の問題を解決する上での重要な指針となることは間違いありません。

アメリカ独立の象徴である「自由の鐘」には、レビ記25章10節の「全住民に解放の宣言をする」という言葉が刻まれているとのことです。近代民主主義国家を形成していくために必要であった自由・解放・平等という理念が、ヨベルの精神と重なると考えられたからに他なりません。

イザヤの預言の特長は、メシアの到来とヨベルの年の始まりとを結び付けたことにあります。そのことを誰よりも理解し、意識したのがイエス様でした。わたしがヨベルの年をもたらすのだと。しかしながら、2000年前にイエス様が到来し、「今日、実現した」と言われても、社会はそうはならなかったではないかと言う人もいらっしゃるでしょう。でも、語句解説にあったように、高い理想を表しているだけで、実際に守られていたかは難しかったとしても、イエス様ほど弱い人の側に立たれた方はいません。そして十字架によって、罪からの解放をもたらし、人間が背負いきれない債務を帳消しにしてくださいました。イエス様こそが、ヨベルの年の到来と呼んで過言ではありません。イエス様が言われたとおり「今日、実現した」のです。それは過去の出来事ではなく、わたしたちも罪から解き放たれた一人です。

2026年が始まりましたが、順風満帆に穏やかな一年を過ごせたなら、主の恵みの年となるわけではありません。物価の高騰が私たちの生活を直撃しています。人気の高い企業の大学初任給も30万円を超えるのが当たり前になっていますが、他方、中小企業の経営者は、最低賃金が上がるだけで大変な思いをしています。中小企業ばかりではなく、公益法人でさえ、どんどん淘汰されている時代です。名古屋教会も、幼稚園や学童がありますし、わたしがさふらん会の責任を持っているということで、事業承継のお手伝いをしますと、企業買収M&Aを手掛ける会社のパンフレットがたびたび届いています。そんなものは要らぬお世話だとゴミ箱に入れたいところですが、それらもちゃんと読んで、学んでおかねばならない時代となっています。

再来週行われる全体集会では、8年後に創立150年を迎える名古屋教会の将来について、考え話し合う時を持ちます。教勢低下、CSの子が少ないといった現実だけを見つめれば、将来への希望に満ちた話し合いができるかどうかわかりません。心配し始めるときりがなく、様々な不安や恐れに捕えられ、ほんとうに見つめるべきものを見つめることができなくなってしまいそうです。そしてくれぐれもお願いしたいのは、8年後にわたしはいないから関係ないなどと、冗談でも言わないでいただきたい。それでは、自分のことしか考えていないのかと言われても仕方のないことであって、むしろいなくなると思うからこそ、真剣に考えていく必要があります。

忘れてはならないことは、様々な不安や恐れに支配され、自分ファーストでしか考えることしかできないわたしたちのもとに、父なる神は、独り子イエス・キリストを遣わして、福音を告げ知らせ、罪からの解放を実現して下さったということです。そして今日も、神は主の御体である教会の礼拝を通して、ヨベルの年、主の恵みの年を告げてくださっています。

昨年のペンテコステ礼拝で、長沢道子先生が「数えてみよ、主の恵み」という主題で語ってくださいました。長沢先生は、自分の記憶のためと言われましたが、美味しいものを食べたとか、つまらないことでも毎日三つくらい、恵みを数えてメモすると言われました。そのようにして日々、恵みを数えていくならば、そこに毎週の礼拝で与えられた恵みを数えて足していくならば、1年を振り返ったときに、主の恵みの年が実現しているはずです。

イエス様が、貧しい人に福音を告げ知らせ、捕らわれている人を解放し、目の見えない人に視力の回復を告げ、抑圧されている人を自由にすると言われたのは、弱さを抱えて生きるわたしたちに、主の恵みを注いでくださるということです。その恵みを受けた者は、その恵みを告げ知らせるために主から選ばれました。喜ばしい、声ひびかせ、主の恵みの年を共に歩んでまいりましょう。