マタイによる福音書1章1~12節
「別の道が示されて」 田口博之牧師
毎年クリスマス礼拝の翌週は、1年最後の礼拝となります。歳末聖日礼拝という呼び方をしていますが、そこには1年の旅路が守られたことを主に感謝するために、共に集り祈るという意味が込められています。と言いつつも、1年を通して感謝の日々だったと言える人は少ないのではないでしょうか。様々な心配事や悩みにより、心塞がれて1年を過ごされた方がいらっしゃるでしょう。教会の中にも、1年前のクリスマスも、今年のお正月も共に過ごしたのに、その月のうちに突然、天にいます神のもとに召された方が複数名いらっしゃいました。また、今も病気で入院中の方、怪我をしてしまい仕事を休んでいる方もいます。
大阪万博は、結果的に300億円を超える黒字だったということですが、何だかピント来ません。お米が不足し、市場には備蓄米が放出されました。その後もお米の流通はおかしなことになっているようで、「まきば」でも1月から従来の業者が対応できなくなり、直接仕入れすることになりました。管理するだけでも一仕事です。今は「おこめ券」がどうなるのか、名古屋ではいろんなスーパーでも使えるということですが、配られるのか配られないのかもよくわかりません。
また、クリスマス礼拝でも話したように、「熊」の問題は深刻です。昨日も静岡県の菊川市の知人から、今日菊川市には熊が出て、家の近所ではカモシカが出たというLINEが届きました。「牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し」というイザヤの預言は、主が再び来られたときに、神が天地を創造された時と同じ、平和な生態系の回復を望み見たものです。クリスマスは、幼子として生まれた主を祝うだけでなく、再び来ると約束された主が完成してくださる真の平和を望む時です。
今朝もクリスマスのメインテキストの一つである、マタイによる福音書第2章に記された、東方の博士たちの来訪のところをテキストとしました。12月24日のイブ礼拝では「羊飼いと博士」という題でお話しましたが、メシア誕生の知らせは羊飼いだけでなく、不思議な星の導きにより東の国の博士に知らされました。
一般的には「博士」という言い方をしていますが、新共同訳聖書では、「占星術の学者たち」と訳しています。正直、印象が違います。日本聖書協会では、文語訳で「東の博士たち」、戦後に出た口語訳聖書は、「東からきた博士たち」、また新しい共同訳でも、「東方の博士たち」と訳していますので、博士の方が親しみやすいですが、何の博士かよくわかりません。星に導かれたということで、天文学博士だと想像できますが。ドクターという学位が授与されたわけでみ、ただの物知り博士ということでもないでしょう。原典に忠実とされる岩波訳では「東方の占星学者たち」とし、占星学者に「マゴス」とルビを振りました。更に「原語のmagosとは、ペルシャないしバビロニア地方の祭司兼賢者で、占星術や夢占いなどをもよくした人」という注を加えています。
「マゴス」と言う言葉は、英語の「マジシャン」の元になった言葉です。マゴスは占星術、魔術、夢解釈により、人の運命や世の動きについて神意を伝える働きをしました。天文学というのは、後の時代に占星術から分かれたと言われるので、占い師ではなく、学識者であることは間違いないのですが、占星術とは星占いのことです。そこで抑えておくべことは、聖書は占いの類を遊び事としていないということです。旧約の律法は、あらゆる形態の占いを禁じています。新約でもパウロは、諸々の霊、悪の霊の働きとして戒め戦っています。
ガラテヤ書の4章8節から11節にこうあります。「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。」
ここでパウロは、ガラテヤの信徒たちが、占いに支配されていることを深く嘆いて、こう言っているのです。信仰が与えられて神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、どうしいろいろな日、月、時節、年などにこだわっているのか。「無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りしている」のか。あなたがたは、一体どうしてしまったのかと。
占星術の学者というのは、いかがわしい人と見られても仕方のない人なのです。しかも彼らはユダヤ人から見れば異邦人です。聖書の神を信じていたのではありません。では何も信じていなかったかというと、そうではなく、彼らは運命を信じていました。ユダヤから見て東の国にあたるバビロニアは、占星術による運命信仰が盛んでした。自分は将来どのような運命を辿るのか。占星術の学者たちは、それを星の動きから予測したのです。自分はこれからどうなっていくのか、それは運命として定められている。運命に逆らうことはできない。逆らえないのだとすれば、どうなるのかは知りたいというのは人の常です。また、今日はよくないことが起こりそうだけど、こういうことをすれば、悪いことは避けられるかもしれない。そういった理由で、この世から占いがなくなることはありません。占星術の学者たちが旅立ったのも、神の導きを信じたのではなく、あくまでも星占いの延長線上にあるのです。
あるドイツの説教者が、「クリスマスの驚き」という主題で説教しています。クリスマスの何が驚きなのか。このように語り出すのです。「わが聴衆よ、驚かされるではないか。彼らはつい先日まで占星術で生活をしていた人ではないか」と。これは、明らかに占星術の学者というのは、救われるにふさわしくない者だということです。
ところが、そのような彼らが、救い主と出会い礼拝したことをマタイは伝えています。それはまさに、クリスマスの驚きと呼んでいいことです。彼らはこう言いました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」彼らははっきりと「拝みに来た」と言っています。彼らは運命を信じていましたが、これまで見たことのない星の動きを見て、ここに運命を変えてしまう出来事が起こっていることを感じ取ったのではないでしょうか。それで彼らはじっと星を観察するだけでなく、動き始めたのです。クリスマス祝会では朗読劇をしましたが、あの朗読劇で唯一動いたのは、大きな星とこれを追いかけた3人の博士たちでした。彼らは神ではなく、星に導かれたのですが、その星を動かしたのは神なのです。
先ほど、古代バビロニアは占星術が盛んだったと言いましたが、信仰の先祖であるアブラハムはカルデヤのウル、即ちバビロニアの出身でした。神はアブラハムを占星術による運命信仰に支配されるのでなく、まことの神を信仰する先祖とされたことを心にとめねばなりません。そして、占星術の学者たちが、ユダヤ人の王として生まれた子を拝みに来たのは、彼らが旧約聖書の預言に、メシアはダビデの子、すなわちユダヤ人の王として生まれることを知っていたからです。
ユダヤ人にとって、バビロン捕囚という出来事は屈辱的なものでしたが、旧約の預言書や詩編、知恵文学の多くは捕囚期に書かれました。バビロンの人々は、そこでユダヤ人たちの信仰がただならぬものであることを知ったのです。彼らは奇異に思ったに違いありません。この人々の国は滅びてしまったのに、これが運命だから仕方はない、などと諦めていない。それどころか、ダビデの末裔からメシアが現わることを信じている。バビロニアからペルシャ、ヘレニズム時代へと主権が移る中で、なおユダヤ人のメシア待望が、広く知られるところになっていきました。
観察した星がユダヤの方に動いているのを見た彼らは、ユダヤ人の王が誕生し、定められた運命を打ち破るような出来事が起こっているのでは、そう信じた彼らは、ユダヤの王だからという理由で、当然のごとくエルサレムのヘロデのところに来たのです。
ところが、これを聞いたヘロデ王は不安を抱きます。ユダヤの王だと言っても、ローマの後ろ盾になっているに過ぎず、本物でないことを分かっていたからです。祭司長も、律法学者たちも、エルサレムの人々も皆、恐れに支配されています。政変が起こるのではないかという恐れでしょうか。この後で、ベツレヘムと周辺一帯にいた二歳以下の男の子が殺されるという恐ろしい出来事が起こりますが、自分の子どもたちも巻き添えを食らうのではと不安になったのでしょうか。
占星術の学者たちは、星を頼りにエルサレムまで行きましたが、メシアがどこに生まれるのか。その答えを導いたのは、星ではなく聖書の預言です。ヘロデもそのことはわかっていたので、聖書の知識に長けている祭司長や律法学者たちを集めて「メシアはどこで生まれることになっているのか」と問いただします。彼らはミカの預言を引いて、メシアがユダの地、ベツレヘムで生まれることになっていることを告げました。
ここでの問題は、彼らはユダヤ人が待ち望んでいたメシアが誕生したかもしれないと知ったにもかかわらず、そのことをヘロデに伝えるだけで、後は異邦人である占星術の学者たち任せで、自分たちは動こうとはしなかったということです。
ヘロデは、占星術の学者たちに星の現れた時期を確かめた上で、彼らをベツレヘムへと送り出します。「見つかったら知らせてくれ、わたしも行って拝もう」と言いましたが、拝もうなどとは思っておらず、自分の地位を脅かすかもしれない幼子を殺すためでした。学者たちが出発すると、彼らを導くように、東方で見たあの星が動き出しました。神が動かしたのです。やがてその星は、幼子のいる場所の上に止まりました。「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」とあります。この「喜びにあふれた」という言葉について、岩波訳の注には「直訳すれば、はなはだしく大きな喜びを喜んだ」と記されています。直訳のままだとぎこちないです。そのぎこちなさのゆえに、学者たちがどれほど興奮したのかが伝わってきます。目に見える星を動かせるお方、運命をも打ち破るお方が自分たちを導いたことを知ったのです。
家に入ってみると、幼子は母マリアと共にいました。学者たちはこの幼子こそが探し求めてきたユダヤ人の王であり、ユダヤ人が待ち望んでいるメシアであると確信しました。「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」とあります。
この三つの宝物は何を象徴しているのでしょうか。豊かさの象徴である黄金は、この幼子がまこと王であるにふさわしい方として考えたからです。乳香とは祭司が神に献げ物をする時に用いる、香り高い樹脂です。つまり、ユダヤ人が待望するメシアは、王であり、神であられるということが、黄金、乳香によって言い表されているわけです。
問題は没薬です。これも香り高い樹脂には違いありませんが、腐敗と異臭を防ぐために、主には死者に塗るために用いられました。新約聖書ではあと二回、十字架の死と葬りの場面に出てきます。ここからも没薬には鎮痛剤、防腐剤としての働きがあったことがわかります。彼らが黄金、乳香とともに没薬を贈ったということは、この幼子は死に定められたメシアとして生まれたことを表しています。
この三つの献げ物でもう一つ大事なことは、これらのものが「宝の箱」に入っていたということです。自分たちにとってどうでもよいものではなく、宝物をささげたのです。これらはすべて高価なものですが、彼らの商売道具だったと言う説教者が複数います。わたし自身は、それらをどう用いたのかは検討がつきませんし、商売道具だとは考えにくいと思っています。けれども、もし、そうであるとすれば、これらを献げたことにより、彼らは占いという自分たちの生きる手立てを捨てたことになります。明日からどう生きていけばよいかなどと考えることなく、古い自分に別れを告げたという意味で、商売道具を献げたとする展開はなる程と思います。
確かに、わたしも教会に招聘されたと同時に、以前の仕事は捨てました。失敗したところから立ち上がり、マイナスがプラスに転じていました。プライドを持ってやっていましたし、それなりの実績も築いていました。周りからは勿体ないと言われましたが、わたし自身、後ろ髪を引かれるようなことはなく、主に示された別の道を歩み始め今に至っていることを、主に感謝しています。
占星術の学者たちが「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」というのも、ヘロデが待つ道で帰らなかったということですが、ただルートを変えたということではありません。彼らは生き方を変えたのです。彼らが示された別の道とは、これまでのように運命を信じるのではなく、また運命に翻弄されないたために、占星術に頼って道を定めていく人生ではなく、神に委ねて生きる新しい人生を始めるということです。
その道はイエス様が、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」そのように示された道です。それは、日本人がよく言う「どの宗教でも信じれば同じ」という考え方から見れば、懐が狭いように思えるかもしれません。でも、ここにこそ真理の道がある。この道を行くからこそ命を得ることができると言い切れるのは、わたしたちだけです。だから福音を伝えることを、道を伝えると書いて、伝道というのです。
彼らが「別の道」を歩んで帰るとき、そこにはもう、彼らを導いた「星」は見えなかったかもしれません。しかし、彼らは「世の光」であるイエス・キリストを拝んだことで、心の内も光に照らされていたことでしょう。
わたしたちもこの礼拝が済むと、それぞれ自分の家に帰ります。日本では宗教に対する警戒感は消えませんが、キリスト教会が健全なのは、どこかに行ってしまうのではなく、それぞれの家に帰ってゆくからです。そのときにどのように帰ってゆくでしょうか。当たり前の話ですが、来たときはバスで来たけれど、帰りは地下鉄でとか、そういう話ではありません。今朝礼拝に来たときよりも、疲れて帰る人がいらっしゃるでしょうか。そうだとしたら、教会は病んでいます。わたしたちは、教会に来たときよりも、帰りの方が力を得ている筈です。そのために、神はわたしたちを招いてくださっています。ストレスの多い社会を生きていますが、神は礼拝する者に1週間を生き抜く力を与えてくださいます。
皆さんと次にお会いする時は、2026年となっています。今どきですが、数えでいえば、一つ年を重ねています。でも、聖書が語るように、たとえ外なる人は衰えても、内なる人は日々新しくされていきます。2026年がどんな年になるのか、誰にも分かりません。悲しい別れがあるかもしれません。でも、新しい出会いもあるでしょう。今は予想もしていない、新しい課題が与えられる気がします。でも、どんなことがあったとしても、わたしたちの救いのために世に来てくださり、十字架を負われた主が支えてくださいます。それぞれの新しい年の歩みを、主が祝福し導いてくださいますように。
