出エジプト記34章10節    ルカによる福音書1章26~38節
「恵みに撃たれて」  田口博之牧師

アドベントクランツに三つ目の火が灯りました。待降節第3聖日は金城学院中・高のグリークラブをお迎えしての礼拝です。風邪やインフルエンザが流行していますが、グリーのメンバーでお休みの人はおられなかったでしょうか。

昨日は名古屋教会幼稚園のクリスマス礼拝でした。先週までは休む子がいなかったのですが、熱が出て欠席する子が複数出てしまいました。ページェントでは、今日の聖書に登場し、マリアに受胎告知した天使ガブリエルも不在、またマリアの夫ヨセフも不在、宿屋さんも一人で行いました。それでも、皆さんが想像するほどの不自然さはなく、とてもいいクリスマスでした。

幼稚園のクリスマスの片づけが終わった頃に、グリーのメンバーが今日のリハーサルに教会に来られ、通しでの練習をしっかりされました。先ほど2曲賛美していただきましたが、礼拝の初めに皆で歌った讃美歌も練習してくださり、心強かったです。神様へのよき賛美の献げ物をすることができました。

さて、今日のテキストは、イエス様の母となるマリアが、天使ガブリエルから救い主を身ごもったという、いわゆる受胎告知の場面です。倉敷の大原美術館は有名で行かれた方もいらっしゃると思いますは、大原美術館が所蔵する代表作といえるのが、エル・グレコ作の「受胎告知」です。今年10月に修復が完了したというニュースを見ました。わたしがこの絵を最後に見たのは、牧師になる前のことでしたが、しばらく見入ったことを覚えています。

受胎告知は多くのルネサンス期の画家が描いていますが、その構図が話題となります。多くはマリアが向かって右に描かれ、天使は左に位置し、かつ跪いているので、マリアと並列かマリアの方が上に位置します。おそらく、皆さんのイメージは天使が上で、マリアは下にいると思われるのではないでしょうか。だとすればそれは、エル・グレコの受胎告知の構図が影響しているのかもしれません。幼稚園のページェントでも昨日は天使の姿が見えませんでしたが、天使がこの位置に立ち、マリアの方が向かって左側に跪きます。エル・グレコの受胎告知も同様に、マリアの背後に翼を広げた天使が立つのですが、振り返ったマリアの体のねじれが違和感ではなく、何とも不思議な魅力があるのです。本当なら絵を見せて解説すると良いのかもしれませんが、スマホをお持ちの方は今ではなく、礼拝が済んでからご覧になってください。

そのときの天使の言葉が28節です。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」今日のテキストは、天使とマリアの言葉のやり取りが続きますが、「おめでとう、恵まれた方」と言われたときのマリアは、言葉を発することなく、「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」とあります。

マリアの様子を見た天使は、こう言いました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」二人の会話は、もう少し続きます。

先ほどこの場面の構図について、天使が上でマリアが下とイメージするのは、エル・グレコの受胎告知の影響かもしれないと言いましたが、今日の聖書テキスト全体を読む限りにおいても、天使の方が上から目線という気がします。少なくとも、天使が跪いているようには感じられません。マリアを下にしないのは、マリア崇拝が根強い中世のカトリック神学の影響かもしれません。

もういちど天使がマリアに告げた28節と30節の二つの言葉に聞きたいと思います。28節「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」30節「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」お分かりと思いますが、「恵み」という言葉が繰り返されています。天使はマリアに恵みを告げに来たのです。問題は何が恵みなのか、ということです。

はじめの「おめでとう、恵まれた方」とは、「主があなたと共におられる」から恵みだと言うのです。次の「あなたは神から恵みをいただいた」とは、その後で語られているように「身ごもって男の子を産む」ということです。その男の子にイエスと名付けることが命ぜられますが、「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。」そしえ「神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」と約束されています。

この言葉だけ取れば、なるほど恵みと言えそうです。自分の子どものことで悩まない親はいませんが、このような子どもの母となれるのだとすれば、光栄なことです。でも、軽々にそうだとは言えません。イエスと名付けられた子は、天使が約束したとおりの大人になりましたが、この言葉が実現されるために、マリアは愛するわが子が十字架に架けられて死刑になるところを見なければならなかったのです。

そもそもマリアが「身ごもって男の子を産む」こと自体、恵みどころか、あってはならないことでした。27節でマリアについて、「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめ」とあります。マリアはヨセフと婚約中で、まだ体の関係を持っていませんでした。この時代、女性は10代半ばで結婚したと言われています。想像してみてください。生まれてくる子が将来どうなるかなど、どうでもいいことではないでしょうか。

マリアはヨセフがこのことを知ったらどう思うか、その前にヨセフとの結婚を決めた親がどれほど悲しい思をするのか、自分には何の過ちもないと、マリアがどれほど言葉を尽くしたとしても、信じてくれる人がいるでしょうか。そして、この時代のユダヤの掟に従えば、マリアは石で打たれるという刑罰を負い、そこで命を落としたとしても仕方がないことでした。たとえ死ななかったとしても、その後のマリアに生きる手立てはなかったはずです。それなのに、天使は「おめでとう、恵まれた方」と言い「あなたは神から恵みをいただいた」と言われるのです。いったいどこが恵みなのでしょうか。

今日は「恵みに撃たれて」という説教題をつけました。これは天使の言葉を聞いて、マリアに何が起こったことかを思い巡らす中で思い浮かんだ題でしたけれども、初めは一般的に使われる手偏に丁という「打つ」という字で「恵みに打たれて」としました。でも何か違うと思い、打撃の打ではなく,撃の方の字で「恵みに撃たれて」としました。悪い言い方をすれば、マリアが受けた恵みは、太い棒のような物で打たれて体に打撲の痕が残るようなものではなく、銃弾で撃ち抜かれて致命傷を受けるほどのもの、そんなイメージです。

もう一つ、何の準備もないところに、突然やってきたというイメージを持ちました。天使は何の予告も相談もなく、マリアのところにアポなしでやってきました。多くの受胎告知の絵のように、ひざまずいて言うなら、挨拶から入るでしょうが、いきなり「おめでとう、恵まれた方」、「あなたは神から恵みをいただいた」と言うのです。

日本社会では、何か物事を決めるのに、事前相談するというのが常になっているように思います。わたしより上の世代は「ネゴる」という言葉をよく使います。ネゴるとは、ネゴシエーションの略で、交渉や調整を十分にしてから物事を決めていくことを言います。事実、自分に関わることで、何の相談もなしに物事が決められると、いい思いをしないばかりか、大きな傷が残るということもあります。でも、神はマリアに「あなたのお腹に救い主を宿していいか」そんな打診はしなかったのです。天使はマリアに相談したのではなく、神の使いとして、神が決めたことをそのまま伝えたのです。マリアはもう恵みをいただいている。それを断る余地もなく、恵みとして受け入れるしかなかったのです。

ビジネスや政治の世界では、ネゴることも必要なのかもしれません。でも、わたしたちの人生には、何の予兆もなく突然ということは、しばしば起こることです。それはたいていの場合、悪いことに起こります。事故でも、病気でも、災害でも、前もって予告されているわけではありません。神はそうなることは分かっていることなのですが、わたしたちに知らせることはなく、人間の思いからすれば、突然起こるのです。それでも神は、「いつも目を覚ましていなさい」と、備えをしておくことの大切さを教えます。

わたしたちは「恵み」という言葉を聞くと、神様がくださる良い物と考えると思います。それは恵みには違いありませんけれども、それだけでなく、恵みとは思えないようなものをいただいた時にこそ、恵みがあるということを知りたいのです。婚約中のマリアが神の子を宿すなど、恵みではないし、試練という言葉でも言い尽くすことはできません。でも、その試練を通して、マリアは恵みと出会ったのです。

試練はそれ自体としては、良いことではありません。願わくは避けて通りたいものです。試練に襲われても精神力で打ち勝つと思っているとすれば、それは傲慢です。その人は、本物の試練に出合っていないから、そう言えるだけのことです。だからイエス様は、「我らを試みに遭わせず」と祈るように教えられたのでしょう。しかし、毎日祈っていても、望ましいとは思えない、試練と出合うことがあります。検査入院をしたらがんを告知されたり、愛する人を突然目の前から奪い取られたり、大きな災害にいつなんどき、襲われるか誰にも分かりません。

自分は強いと思って生きてきた人が、人生に絶望してしまうということもあります。それを乗り越えるために、不平、不満、恨み、怒りを、生きていくための原動力にしようと考える人がいるかもしれません。でも、少なくとも聖書はそういう考え方、生き方を勧めてはいません。一方で、人生に絶望するような経験を通して、人格に深みが与えられていく人もいます。それは聖書的に言うならば、人生に絶望するような経験も、恵みとして受けとめている人です。恵みによって、自分を立て直すことができる。恵みの神が、そのように造りかえてくださるのです。

ここでマリアが口を開いて語った最初の言葉は、34節「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」でした。そのとおり、あり得ないことが、人間の常識ではあり得ないことがマリアに起こっているのです。でも、あり得ないことが起こった。それがクリスマスです。クリスマスはあり得ない恵みの出来事です。この時のマリアは、まだ恵みとして受け止める信仰よりも、人間的な戸惑いの方が勝っています。すると天使は答えます。35節以下を読みます。

「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』そこで、天使は去って行った。」

こうして二人のやり取りは終わりました。わたしたちはここを読むと、マリアは簡単に受け止め過ぎではないか。もう少し抵抗してからでもいいのではないかと思います。ヨセフがマリアを受け入れなかったとすれば、マリアの命はなかったわけですから。たとえば、ヨセフと結婚して何年か後であれば、ヨセフの子どもとして育てることができる可能性だってあったはずです。そんな条件を出しても良かったのではないか。わたしはずるいからでしょうか、そんなことも考えてしまいます。実際に天使は、赤ちゃんがいつ生まれるとまでは話していないので、そういう可能性だってあったはずです。でもマリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と天使の言葉をそのとおり受け入れました。跪いているのはマリアのように思えます。

この「お言葉どおり」という言葉ですけれども、これはガブリエルが告げた言葉だけではなく、わたしはこれまでにマリアが聞いた聖書の言葉をすべて含んでいると考えています。マリアは信仰深い両親に育てられたと思います。幼い頃から両親を通して、また、ナザレの村の会堂で聖書の言葉に耳を傾けました。アブラハム、ダビデの末裔から救い主が与えられるという約束の言葉を聞いていました。神はそんなマリアだからこそ、神の子の母になるという無二の務めを引き受けてくれると信じ、恵みを託してのではないでしょうか。マリアもまた、幼い頃から何度も聴いていた聖書の預言が、わたしを通して起こるということを受け止めることができた。「お言葉どおり」とは、聖書のお言葉どおりということです。

そのように思えたのは、あらためてエル・グレコの「受胎告知」の絵を見ていたら、マリアが聖書を開いていることに気付いたからです。聖恵のどの箇所を開いていたかは想像するしかないことですが、イザヤ書7章14節のインマヌエル預言というのは想像しやすいことです。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。」マリアがこの聖書のお言葉が自分の身に起こると受けとめたのは間違いありません。インマヌエルとは、「神は我々と共におられる」という意味です。

すると思い起こすのは、天使がマリアに告げた「おめでとう、恵まれた方」の次の言葉、「主があなたと共におられる」です。マリアは、ただやみくもに恵みと捉えたのではなく、インマヌエル、主が共におられるということを信じたからこそ、銃弾が体を貫くような衝撃を恵みとして受け止めたのです。いや、主が共におられるからこそ、マリアは「お言葉どおり、この身に成りますように」と信じることができたのです。

わたしたちは、これが自分にはできるのか、できないのか、で物事を判断しています。しかし神は、無から有を生み出すお方です。この時からマリアは、自分の人生のすべて主に委ねました。「主が共にいてくださる」というただ一つの確かさに身を預けたのです。

アドベントは到来という意味の言葉です。今日も主が来られるという恵みの到来を待ち望む礼拝です。クリスマスは来週ですが、主はマリアが経験したように、何の前触れもなく突然訪れるかもしれません。だから再び来ると約束された主は、「目を覚ましていなさい」と言われたのです。そうすることで、自分に何が起ころうとも、これも神の恵みと受けとめていくことができるのです。