聖書 出エジプト記第16章13~21節、 コリントの信徒への手紙二8章8節~15節
説教  「貧しさの中にこそ豊かさがある」 田口博之牧師

コリントの信徒への手紙二の8章から9章は、エルサレム教会への献金運動を中心に語られています。パウロにとって、献金を集めるということはとても重要な宣教活動の一つでした。そのことがなぜ重要なものであったのか。その理由として、経済的に貧しいエルサレムの信徒たちを助けるということがありましたが、それだけではありません。パウロは異邦人のための伝道者となりましたが、ユダヤ人から成るエルサレム教会との連帯を大切に考えていました。「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」であるように、皆一つの体、教会が一つであることを示すことで、キリスト教会の一致を目指そうとしました。パウロにとってこの献金運動は、福音宣教と切り離せない課題だったのです。

しかしながら、献金というテーマは、献金をすることもそうですが、献金をお願いすることも難しいです。また説教で扱うことも簡単なことではありません。わたしが愛知西地区に来る前のことですが、講壇交換の際に献金をテーマにしたらと提案した牧師がいたという話を聞いたことがあります。わたしは結構語るほうですが、難しい面があることは事実です。説教というのは聞き方によって変わってくるので、中には最後通告のように受け取ってしまう方もいるからです。

いずれにせよ、献金するということは自分のお金を出すことになりますので、日々の生活に密着しているからです。今日も財務委員会が開かれますが、上半期の振り返りとクリスマスに向けての話し合いがされると思います。名古屋教会では3月の教会総会で予算を決めていますが、この予算は全員賛成で決まったものです。神の前で約束したことを誠実に実行することが教会員としての責任です。

とはいいつつ、献金がなかなかできない事情のある人もいます。相手が聞きたくないことは、言う側にとってもストレスが生じます。気も遣いますし、嫌われる勇気も必要になってきます。そういう意味で、パウロはどんな思いで献金の勧めをしたかを知るということは、わたしたちの信仰を問い直す意味でも大きな学びとなります。

パウロは8節で「わたしは命令としてこう言っているのではありません」と語っています。この言葉は7節後半の「この慈善の業においても豊かな者となりなさい」を受けています。慈善の業とは、具体的には献金することを指しています。「やりなさい」というと、献金を命令されたかのように聞こえたかもしれませんが、そうではありません。前回お話したとおり、慈善の業とは、多くの聖書がそう訳しているように、恵みの業と訳した方が正確です。あなたたちは、神から恵みを受けたのだから、恵みでお返しすべきと勧めているのです。

では、神の恵みとは何でしょう。その答えが9節にあります。
「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」

ここでパウロは、主イエス・キリストから賜った恵みを、短い言葉で語っています。それは「主は豊かであったのに、あなた方のために貧しくなられた」ということです。この言葉によって、わたしたちがイエス様からどのような恵みを受け取っているのか。すなわち主が貧しくなられたことで、自分たちがどれだけ豊かにされたかを思い起こさせようとしているのです。

さきほど讃美歌256番「まぶねのかたえに」を歌いました。ルター以後、ドイツ語最大の讃美歌作者と言われるパウル・ゲルハルトの詞にバッハの曲が組み合わされて、クリスマスオラトリオでも歌われています。クリスマスであれば、6節すべて歌いたかった讃美歌ですが、馬小屋で生まれたことに象徴されるイエスの貧しさが、全曲を通じて歌われています。しかし、イエス様の貧しさの中心は、物質的な貧しさというよりも、受肉されたことです。世の初めより神と共におられ、神そのものであられる神の独り子が、わたしたちと同じ人となられた。神の子としての栄光に満ちた豊かさを捨てて、わたしたちと同じ人となってくださったことにこそ、主の貧しさは現れています。

フィリピの信徒への手紙2章6節から8節に「キリスト賛歌」があります。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
神の子としての栄光を捨てられ、人となられたイエス・キリストの貧しさは、十字架で完成しています。十字架上で犯罪人として殺されたことに、決定的な貧しさがあります。

なぜ、イエスはそのように貧しくなられたのか。それは「あなた方が豊かになるため」でした。この豊かさとは何かといえば、わたしたちが罪から解き放たれて、神との豊かな交わりの中で永遠に生きるものとされていくことです。そのためにイエス様は貧しくなってくださったのです。マケドニアの信徒たちが、極度の貧しさの中にありながらも惜しみなく献金できたのは、このキリストの恵みを知ったことで、自らの豊かさを自覚したからです。それが、8節で語られている愛の純粋さに通じます。

では、「愛の純粋さ」とは何でしょうか。純粋とは混じり気がないということです。この愛は、アガペーの愛ですので、本来純粋なものですが、そうではない見せかけの愛があることも事実です。パウロは、以前に書いたコリントの信徒への手紙一13章では、「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」と告げました。たくさんの献金を集めたとしても、「愛がなければ、無に等しい」と言われたら、いったいどうすればよいのかと思ってしまいますが、それはまさに、献金は額ではないと言われることの答えです。

教会も経済活動に生きていますので、献金額は多いのに越したことはありません。しかし、神様の見方は違うのです。あのレプトン硬貨2枚を献金箱に入れるやもめを見たイエス様が、「はっきり言っておく。だれよりもたくさん入れた」と言われたように。パウロも額については語っていません。問題としたのは、純粋な愛の行為として献金しているか否かでした。そういうことは献金する時の姿勢を見ても分かることです。

教会の中でも、月の初めに、新札を用意して献金袋に入れる方がいらっしゃいます。札であっても、しわくしゃになった紙幣でも、お金の価値としては変わらないでしょう。でも、明らかに献げる人の思いがどこにあるのか、そこからも愛の純粋さを確かめることができます。それは人ではなく、神が見ておられることです。

コリントの信徒たちのエルサレム教会への献金活動が途絶えていたことは、「あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました」という言い回しから分かります。この献金が途絶えたのは、パウロとの関係が悪かったことも一因ですが、月定献金のように継続的にする必要があるとは判断しなかったからです。大災害のような突発的なものだと、少しでも助けになりたいと思ってしようと思います。でも時期を逸すると、なかなか集まらないものです。

また、災害支援でしばしば起こり得るのは、わたしたちが意図した募金とは違う使われ方をする場合があるということです。そうであったとしても、自分の思い以上に必要なところに用いられるわけですから、それは感謝すべきことです。

パウロは献金の再開を、「命令ではない」と言いながらも、11節では「今それをやり遂げなさい」と命じています。でも「それがあなた方の益になるからです」と言うのです。益となるとは、前よりも良くなるということですが、献金を経済行為と考えれば、不思議なことです。自分の財布からお金が出ていくわけですから、益ではなく損をしているはずです。では、なぜ益だと言えるのでしょう。それは純粋に献金を恵みだと考えているからです。神の恵みに対する応答としての行為であると共に、見返りを求めなくても、恵みとして返ってくることは間違いありません。

さらには、富の力と誘惑を考え合わす必要もあります。富の力と誘惑とは、富を持てば持つほど、富によって自分の生活は支えられていると考えるようになり、今以上にもっと、富により頼もうとしてしまうことです。イエス様は「あなたがたは、神と富に仕えることはできない」と言われました。富ではなく神に仕えるのがキリスト者の生き方ですが、神ではなく富によって自分が支えられていると考えるようになってしまうのです。富への欲望は際なく広がり、キリスト者といえども、富の奴隷となりかねない誘惑があるのです。

これは逆説的な言い方になってしまうので、自分でも躊躇するところもあるのですが敢えて言います。献金というのは、富の誘惑と支配から自分を守る、恵みの手段だという言い方ができると思うのです。献金するときに、自分の生活を支えるものは富ではなく、神様あなたですという思いをもって手放すのです。「主よきよめてお受けください」という信仰をもって。

さてパウロは、マケドニアの信徒たちを手本に献金を勧めました。マケドニアの信徒たちは3節にあるように、「力に応じて、また、力以上に、自分から進んで」献げたのです。ところがコリントの信徒に対しては、「進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです」という表現を使っています。

教会で献金の勧めをすることが難しくなった大きな理由として、旧統一協会等カルトの問題が拭いきれないと思います。安部元首相の射殺があってから、教会が献金を勧めるのは、結局は統一協会と同じではないかと言う人がいるという声を聞くようになりました。でもそれは全く違います。わたしたちは、聖書の言葉に沿って勧めていますが、かなり遠慮深くしていると思います。たとえば、クリスマス献金の目標額が100万円と言ったときに、カルト教団の信者であれば、目標額の100万円は、自分個人に課せられた献金額として理解すると思います。それだけでいいのかと思うかもしれません。

パウロは、「力に応じて」とか「持っているものに応じて」と言いましたが、それは無理してすべきものではないということです。だとしても、痛くも痒くもないような額の献金であれば、それも力に応じたもの、持っているものに応じたものとはいえません。キリスト教会は、古来より10分の1献金を大切にしてきました。

わたしが尊敬するある牧師が、献金というのは「ちょっと痛いな」と思うくらいがちょうどいいんだ、と言われたことを覚えています。それが案外10分の1であり、力に応じたもの、持っているものに応じたものだったりするのです。でもその10分の1は、目安であって決まりではありません。ある人は給与の中からと考えますし、ある人は自分のお小遣いとか、自分の自由に使えるものの中からと考えます。教会の予算の10分の1を自分でと考える人もいます。それぞれが祈って、信仰による決断を持って行うときに、それが大きな恵みへと変えてくださるのです。

パウロは13節以下で。エルサレムへの献金のもう一つの意義として、「釣り合い」の原則を持ち出しています。バランスを大事にしています。一方で豊かな神の民がいて、一方に貧しい神の民がいることはあってはならないと見なします。しかし、これは所得の再分配が行うべきだと言っているのではありません。

そのことを明らかにするのが15節の旧約の引用です。「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」これがどこにある言葉なのか、今日の礼拝に出席された方はおわかりでしょう。初めに読まれた出エジプト記16章にあるマナの物語です。具体的には16章18節からの引用です。

エジプトを出たイスラエルの民は、空腹に苦しみました。その時主なる神は天からマナを降らせて、人々を養ったのです。このとき、当然のことでしょうが、多く集めることができた人がいれば、少ししか集められなかった人がいました。働き盛りの人は運動量がありますので、たくさんのパンを集めることができたことは容易に想像できます。年を取った人とは、集める量に違いがあったのです。しかし、実際に集めてみると、多く集めたものも余りはしないし、わずかしか集めなかったものも不足することはなかった。必要な分だけを集めたというのです。ところが、中には欲深い人がいて余分に集めて翌朝まで残しておいたが、それは虫がついて臭くなったと。

マナの物語は、ユダヤ人であれば子どもでも知っていたでしょうが、異邦人であるコリントの信徒たちの中には知っていた人も、知らなかった人もいたことでしょう。でも、一度聞いたら忘れることのできない話ですから、知っていた人は誰かに教えてあげたのではないでしょうか。パウロもそこを期待したと思います。わたしたちの信じる神様は、このようにしてわたたしたちの必要を満たしてくださる方であるのだと。

商業都市であったコリントは、マケドニア地方と比べればとても豊かな町でしたから、経済的にゆとりのある信徒たちが多かった。でも、多くの者は、この豊かさを自分のために取っておこうとしました。聖書は格差社会を警告していると思わされます。パウロは、あなたがたが持っているものを、苦しんでいるエルサレムの教会のために用いたならば、大きな恵みと祝福となるし、その恵みと祝福は自分たちのところに返ってくる。しかし、自分にはそんな余裕はない、将来の蓄えも必要だからという理屈で、必要以上に貯め込んでしまえば、それは死んだ宝となりかねないことを告げています。

パウロはこのようにして、エルサレムの信徒たちのための献金運動の再開を呼びかけました。ところが9章を見ると、「聖なる者たちへの奉仕(すなわち献金)について、これ以上書く必要はない」と言いながら、さらに念押しするように当たっています。パウロの並々ならぬ思いがあることが理解できます。

信仰生活の健やかさは献金にあらわれると言った方がいます。献金は、わたしたちを豊かな者にするために、イエス様が貧しくなられて自らを捧げてくださった愛に応えていく行為です。それはわたしたちの愛の純粋さによるものですから、強制でするものでも、命令されてするものでもありません。しかし、パウロが述べたように「あなたがたが豊かになる」「あなたがたの益になる」ことは間違いありません。それほどわたしたちは、イエスさまから大きな恵みをいただいています。

最後に8章9節をもう一度読んで終わりたいと思います。
「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」