2025.8.3 平和聖日礼拝
エレミヤ書6章9~15節、エフェソの信徒への手紙2章14~18節
「偽りの平和ではなく」  田口博之牧師

1945年8月、わたしたちが暮らすこの日本は敗戦を迎えて80年目の夏を迎えています。平和憲法のもと、二度と戦争をしないことを誓い、戦禍を被ることなく歩んできました。一方で世界を見渡せば、イスラエルとパレスチナ、ロシアとウクライナを始めとし、各地で武力紛争が絶えません。しかし、主にテレビやネットでの映像を通してしか、実情を知らないわたしたたちは、それが現実に起こっていることは理解しながらも、自分とは関係のない、遠い話しとしか捉えることができないていないように思います。しかし、戦争体験のない世代はそうなのです。ミサイルが飛びかい、人々が暮らすマンションが砲撃される映像を見ても、実体験がないのでドラマや映画などフィクションと比較するしかないからです。リアリティーをもってとらえることができない。だからこそ、戦争体験者の話を聞くことが必要ですが、その機会もだんだんと少なくなっています。

戦争への危機感を持てないがゆえに、「日本は平和だ」と言う人に対して、たとえば「それはおかしい、あなたは沖縄の痛みが分かっていない、戦争体験は過去のものではなく、今も続いている」と想像力の少なさが非難されることがあります。それとは逆の意味で、「危機感を持て」と主張する人も少なくはありません。もっと防衛力を高めないといけない。集団的自衛権の名のもとに軍備の増強を図らないと、この国は守れない」という声高に主張する人々が目立つようになりました。その声に反対しにくい空気も広がっています。

けれども、そうした主張は、あまりにも狭いとしか言えません。というのも、防衛力の強化は日本という国の安全保持方策のレベルでしかないからです。そこには国際間の平和を保持していくといった考えはないのです。

これ以上の話は、政治的になってしまいますが、わたしたちが「平和」について考えるときに、どうしても政治的になるのは仕方がない面もあります。最近、学童の子どもたちと接する機会が増えています。「牧師先生はこないだの選挙でどこに入れたの」と聞いてくる子がいます。答えずにいると、「自民党?国民民主党かな?参政党じゃないよね?」と誘導してくる。「う~ん、反対党かな」などと答えたりしています。習字教室に来ている子の夏の課題が「納税」で、「納税したくね~、消費税いらなくない」と言いながら書いている。そんな子たちと接しながら、やがてこの子らにこの国を、いやこの世界を託すことになると考えた時に、政教分離の原則を守りつつも、素朴な問いを曖昧にしないということも大切なことかもしれないと、感じてもいます。

今、この国では、世界各地で続いている戦い、東アジアでの国際的緊張関係の中から語られる平和は、安全保障や防衛の名のもとに論じられるしかありません。その場合、憲法解釈や憲法改正問題がついて回ります。それも必要なことかもしれませんが、公の礼拝の中で聞くべき話ではありません。今朝わたしたちは、平和聖日礼拝にあたって、聖書の言葉、エレミヤの預言、及びエフェソの信徒たちに宛てたパウロの書簡を通して、平和について考えたいと思います。

エレミヤ書6章14節には、「彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して 平和がないのに、『平和、平和』と言う」とあります。エレミヤ書については、礼拝後の平和聖日礼拝の主題聖句にもなっていましたので選ばせていただきました。このエレミヤの言葉は、どういう背景で生まれたのでしょうか。ひと言でいえば、「偽りの平和」に対する神の告発です。

エレミヤは、紀元前7世紀に活動を始めたバビロン捕囚期の預言者です。イスラエルはソロモン王の死後、紀元前10世紀に北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂しました。北イスラエル王国は紀元前8世紀にメソポタミア北部ニネベに首都を置くアッシリア帝国により滅ぼされましたが、かろうじて南ユダ王国は残りました。やがてメソポタミアの覇権は、南部バビロンを首都とするバビロニア帝国に移り、南ユダ王国はバビロニア帝国の脅威にさらされていくことになります。

けれどもユダの王、祭司、預言者たちは、「大丈夫だ」と言い続けます。おそらくは、これだけの武器や軍馬を集めたら十分だとして、自分たちが危機的な状況にあるかを認識せず、語ろうとしなかったのです。それは主への畏れがなかった。主の言葉を聞こうとしなかったということです。「彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して 平和がないのに、『平和、平和』と言う」とは、そういうことでしょう。がん細胞が浸潤してしまった。もう初期ではないのに、大丈夫だ、たいしたことないからと言って、適当な処置しかしていない。そんな状況を想像していただければいいと思います。

エレミヤは10節で、「誰に向かって語り、警告すれば 聞き入れるのだろうか。見よ、彼らの耳は無割礼で 耳を傾けることができない。見よ、主の言葉が彼らに臨んでも それを侮り、受け入れようとしない」と言っています。ここで語られているのは、主の嘆き、怒りです。主は何度も警告しているのに聞き入れようとはしない。なぜか、彼らの耳が無割礼だからです。「彼ら」とは、主にはユダの預言者たちです。彼らの耳が無割礼とは、閉じられたままで開かれていないということです、聞く耳を持たないのです。主の言葉を侮り、受け入れようとしない。

なぜ、そうしたのでしょう。主の言葉を聞き、裁きを語ることになれば、ユダの王に逆らうことになるからです。大学病院の外科部長が決めた治療方針に、一医局員が異を唱えることは簡単ではないでしょう。余計なことを言えば、自分の立場が悪くなる。預言者といっても、彼らは職業預言者でした。逆らえば仕事を失ってしまうと思ったのです。強い者に流されて、自分を守ろうとして、本心と違うことを言ってしまう弱さは、誰もが持っています。

そのような歴史の中で、主はエレミヤを預言者として召しだしました。エレミヤ書1章4節以下にエレミヤの召命記事があります。エレミヤは「ああ、わが主なる神よ わたしは語る言葉を知りません。私は若者にすぎませんから」と言って主の召しを拒みます。しかし、主はエレミヤをユダの王に雇われる職業預言者ではなく、諸国民の預言者として立てました。イスラエルの主なる神は、世界のすべての民を統べ治めるお方です。バビロンはユダを攻めようとしていますが、それは主が裁きの道具としてバビロンを用いたからです。エレミヤは慰めを語る預言者ですが、神の裁きを語ることが求められました。神の民が悔い改めるためです。

6章9節で、万軍の主は、「ぶどうの残りを摘むように イスラエルの残りの者を摘み取れ」と言います。これはバビロンへの指令です。ぶどうはイスラエルの象徴です。主はバビロンを用いて、残りの者まで徹底的に摘み取ると言われるのです。耳を開いたエレミヤ一人が、主の怒りを聞き、聞いた言葉を語りますが、それも厳しいことです。

11節、「主の怒りでわたしは満たされ それに耐えることに疲れ果てた」とはエレミヤの思いです。しかし主は、「それを注ぎ出せ」と言うのです。そして、「通りにいる幼子から若者たち。男も女も、長老も年寄りも必ず捕らえられる。家も畑も妻もすべて他人の手に渡る。この国に住む者に対して わたしが手を伸ばすからだ」と徹底した主の裁きを語るのです。

13節から14節、「身分の低い者から高い者に至るまで 皆、利をむさぼり 預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して 平和がないのに、『平和、平和』と言う。彼らは忌むべきことをして恥をさらした。しかも、恥ずかしいとは思わず嘲られていることに気づかない。それゆえ、人々が倒れるとき、彼らも倒れ わたしが彼らを罰するとき 彼らはつまずく」と主は言われる。

主が破滅の危機が迫っていると警告しているのに、自分の力を過信してこの程度の武力を蓄えておけば十分だ「平和、平和」だと言う指導者たち。それはあたかも、防衛力を増強することがこの国の安全保障につながるとする声と重なって聞こえます。それは自国ファーストとするあまりにも小さな視点であり、国際関係において平和を打ち立てて行こうとする次元のものではありません。礼拝で憲法論議をすることは控えますが、敗戦を経て成立した日本国憲法は戦勝国に押し付けられたものではなく、究極的に言えば主から賜った摂理だと考えています。日本国憲法の平和主義は、自国のことだけでなく、世界の平和を目指す視点があり、それが聖書の語る平和と響き合っていることが、憲法の前文を読むと感じられます。

ヘブライ語の「シャローム」は、単に戦争がないことではなく、何の欠けもない理想的な状態を意味しています。それは、「すべてがあるべきところにある」、神の望まれる調和と正義が満ちている状態を指します。不正や貧困や差別が放置されることがなく、孤独に苦しむ人もない。それこそが平和、シャロームです。

そのように平和をとらえれば、80年間、戦争の脅威にさらされていないからといって、日本が平和だとは言えなくなります。高度経済成長期以降、国民総中流という言葉に多くの人々が納得していました。お金持ちの家と比べて、自分の家は貧しいと思ったとしても、中の下には収まっていると考えられたのです。しかし、特にリーマンショック以降、格差が増大してきました。格差があるということは、調和が取れてないということであり、それでは平和な状態だとは言えません。数々の分断も生じています。そのような現実に目をふさいで、「平和だ、安心だ」と言っていたのでは、それは偽りの平和としか言えません。平和を守るために軍事力を強化するという論理も成り立ちません。

では、どこに本物の平和があると言えるのでしょうか。パウロは、エフェソの信徒への手紙2章14節で言いました。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」これは堂々たる平和宣言です。そういえる根拠は何でしょうか。

「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」とあります。「敵意という隔ての壁を取り壊す」ことは、並大抵のパワーで出来るものではありません。神の御子が、十字架にご自身の命を投げ出さなければ成し遂げられなかったことです。それは原子爆弾のパワーで太平洋戦争の終戦を早めたことを、はるかに凌ぐパワーです。原爆では敵意という隔ての壁を取り壊すことはできなかったからです。

先月、日本キリスト教社会事業同盟の総会があり、およそ10年ぶりに広島に行きました。広島では今日から路面電車が広島駅ビル2階に乗り入れるようになります。サッカースタジアムも市内の中心部に出来ていました。原爆投下後の惨状から「75年は草木も生えない」と言われた広島の町は、被爆後80年経った今、川と緑も豊かさな、近代的な町となりました。

社会事業同盟の研修の主題は、「平和とキリスト教社会福祉と実践」というテーマでした。平和の問題を福祉という視覚からとらえる必要を感じる時となりました。主題講演で、近藤絋子さんのお話を伺いました。当時の広島流川教会牧師の長女です。生後8か月の時に被爆しました。10歳の時、父と共にアメリカを訪問する機会があり、そこで、広島へ原爆投下したB29「エノラ・ゲイ」の副操縦士と出会いました。紘子さんはルイスを悪人と思っていたので憎しみを込めて睨みつけました。ところが、ルイス氏は涙を流して、原爆を投下した後のキノコ雲を上から見て、「何ということをしてしまったのか」と告白し、罪に苦しんでいることを告白しました。紘子さんは、「本当に憎むべきなのは、戦争そのものであることに気づいた」と述べられました。とても心を打つ講演であり、昨日の桃山教会のキャンプでも分かち合いました。

パウロは、「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」と述べています。先だっての礼拝で聞いた第二コリント書でも「神はキリストによって世をご自分と和解させ」とありました。原爆を投下した人と被爆した少女が和解できたのも、和解の神が働かれ、平和は赦しから始まることを示されたからです。

聖書は、「あなたたちの努力で平和を実現せよ」そのような言い方はしていません。「実に、キリストはわたしたちの平和であります」とあるように、主語はわたしたちではなくキリストです。15節に「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し」とあるように、キリストが実現してくださるのです。17節には、「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました」とあります。ここでの主語もキリスト、キリストが平和というよき知らせを運んでくださったのです。そのキリストが和解の言葉を宣べ伝える務めを教会に委ねられたのです。

その主に言葉を託された者として宣言します。イエス・キリストは、力によってではなく、自らが砕かれることで敵意を滅ぼし、平和を実現されました。真の平和は、敵に勝つことではなく、犠牲を通して実現されたということを。

今の日本の政治情勢を見ると、安全保障よりも平和憲法を守ることを優先する人々を、エレミヤの預言になぞらえて、安易な平和を唱えていると批判するかもしれません。しかし、世界で唯一の被爆国でありながら、アメリカの核の傘の下にいることを拠り所として核兵器禁止条約に反するとすれば、エレミヤが批判した偽りの平和としか言えないのではないでしょうか。真実の平和は、イエス・キリストが説かれた隣人愛、敵でさえ愛する愛。自らが歩まれた十字架への道によってこそ実現することを聖書は語っています。この主を見上げる時、自らの正義と平和を声高に叫ぶ愚かさを知ることができます。

今朝、敗戦後80年の平和聖日に、新しい聖餐具を主が備えられたことも感謝いたします。聖餐は罪人であるわたしたちを、イエス・キリストが十字架に架けられ、復活されたがゆえに備えられた平和の食卓です。聖餐の恵みを味わうときに、自らの言葉や行動に過ちがなかったかを確かめたいと思います。どうか、互いに譲り合い、赦し合う道を探すことができますように。平和を大きく考えすぎるとわたしたちの力では及ばないものとなってしまいますが、そうではなく、わたしたちの心の中から、祈りによって始まることを知ることができますように。

平和の主、イエス・キリストの御名によって祈ります。