イザヤ書49章7~9節
コリントの信徒への手紙二6章1~2節
「今や、恵みの日、今日こそ、救いの日」田口博之牧師
今日の聖書テキストは、コリントの信徒への手紙二6章1、2節という短いテキストですが「恵み」という言葉が3度出てきます。先週のテキストでは、「和解」という言葉が繰り返されましたが、今日は「恵み」です。
わたしたちは「恵み」という言葉をしばしば用います。祈るときにも、神の恵みを求めます。では、「恵み」とは何でしょう。どういう思いから、恵みを求めているでしぃうか。わたしたちは、「大地の恵み」、「恵みの雨」など、それが与えられることで、ありがたいと思えるものを「恵み」と表現していますが、そのような恵みを求めているのでしょうか。
手元の辞書で「恵み」を引くと、「めぐむこと。恩恵。いつくしみ」と出てきましたが、もう一つ「キリスト教で、原罪にもかかわらず信仰によって与えられる神の愛による救済をいう」という説明も出てきました。その他の辞書でも、今言ったような一般的な説明と、キリスト教でいうところの説明が出てきます。ところが、わたしたちが「恵み」という言葉を使う時に、「神の恵み」と言いながらも、一般的な意味合いでの「恵み」をイメージしているのではないでしょうか。「原罪にもかかわらず信仰によって与えられる神の愛による救済をいう」という語釈は、分かりやすいものではありません。神の恵みをひとことで言えば、罪の赦しです。和解です。神が御子を十字架に引き渡すことで成し遂げてくださった、途方もない救いのことです。であるならば、神の恵みは、祈り求めるものではなく、すでに与えられたものだということを、わたしたちは自覚せねばならないのではないでしょうか。
パウロは、神が人間を救うためにしてくださった大いなる恵みを伝えるために使徒とされました。そんな自分のことを、5章20節では「キリストの使者の務めを果たしている」と言っています。「キリストの使者」、先週の礼拝では、「キリストの大使、アンバサダー」としての務めが与えられているという話をしました。大胆な表現だと思いますが、パウロは自分を誇ってそう言っているのではありません。神の働きのために自分が召されたことを感謝しているのです。自分を誇るのではなく、取るに足らない自分を召してくださった神を誇っています。
そして、先ほど読まれた1節には、「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます」とあります。「神の協力者」とは、「キリストの使者」に負けず劣らず大胆な言葉です。人間が神に協力するということがあり得るのかな、と思ってしまいます。神は全能のお方ですから、わたしたちに協力を求める必要はないはずです。わたしたちの側が、神の協力者になるなど、おせっかい極まりないことではないでしょうか。
ここで「協力者」と訳されている言葉は、共に働く者という意味です。口語訳では「同労者」と訳していました。牧師同士のことを同労者と呼ぶことがあります。牧師に限ったことではありませんが、互いに励まし合い、助け合いながら仕事をする関係を指す言葉として同労者という言葉を使うことがあります。
でも、「協力者」とか「同労者」よりも、「協働者」と訳す方が適切なように思います。「協働」とは、協力して働くと書きますが新しい言葉です。同じ読み方として、生活協同組合の協同、共同開発という時に使う共同はよく使いますが、「協働」とは、アメリカの政治学者が、一つの目的を達成するために、複数の人々が力を合わせて協力しながら働くことをCo-Productionと呼んだことの略語です。近年、特に地域福祉の分野で、行政と住民とが協働して力を合わせるという意味合いで使われています。
協働するという時に大切なことは、呼吸を合わせるということです。先日オルガニストの講習会があり、名古屋北教会のオルガニストである有田知子さんが講師を務められました。わたしが金城教会にいた頃のホットな話題はパイプオルガンでした。パイプオルガンを入れることが決まって献金が始まり、どのビルダーに発注するかを決めた時期でした。オルガンのことを考え始めた時、先ずは本物のオルガンの音を礼拝で聞くのが大事だという話となり、辻オルガンの小型オルガンをお借りして、有田さんに奏楽をお願いしたことがありました。30年近く前のことです。オルガンが運ばれて、練習し打ち合わせをしたときに、オルガニストと司式者の呼吸を合わせることの大切さを言われたことを今も覚えています。例えば司式者が「讃美歌何番」と言うと前奏が始まるのか、「讃美歌何番の〇〇を歌いましょう」と言って前奏に入るのか。会衆はどのタイミングで立つのか、それがバラバラだと合ってないことになります。礼拝を整えるために必要なことです。
礼拝のすべての奉仕者は、会衆と呼吸を合わせることが大事です。得にオルガニストの場合、本人にとっていちばん大事なのは間違えずに弾けるかどうかだと思いますが、間違えずに弾けたからいい奏楽になるとは限りません。ヒムプレーヤーの演奏は楽譜どおりで間違えることはありませんが、とても歌いにくいです。何故なら、呼吸をしない機械は、呼吸を合わせることができないからです。人間の息遣いを聞くことなく演奏が進んでしまいます。オルガニスト、司式者もそうですが、何が大変かといえば、会衆がどんな息づかいをしているかを感じ取らねばならないということです。それは、礼拝する皆が一つの息で、心を合わせて主を賛美するためです。司式者も会衆と呼吸を合わすことができないと、主の祈りの始まりもバラバラになります。会衆の祈りの時間の取り方もそうです。それらはすべて協働の作業です。
では協働するためには呼吸を合わせないと言うならば、わたしたちは神と呼吸を合わせることができるのでしょうか。神が呼吸をするのかと問われば、聖霊は神の息と訳すことができるので、当然しています。でも神は、息を合わせてもらわなくても、一人で働くことができる方です。先週の礼拝で聞いたように、神は罪のない御子イエス・キリストを罪とされて、わたしたちとの和解の道を開き、義としてくださいました。人の罪と神の義を交換してくださったのです。神は誰に協力を求めることなく、ご自分の恵みにより私たちを救ってくださいます。
では、神と協働する、「神の協力者」とは、どういうことでしょうか。わたしたちが、誰かに伝道すると言っても、それは一人でしているのではありません。伝道は神の御業です。神が「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言って、伝道の業に遣わしてくださっています。それは、お一人で何でもできる方なのに、わたしたちを協力者として、協働する者として召してくださっているということです。そこに神の恵みがあります。であるならば、個人で伝道するという時に、自分の思いですることではなく、神がどうあることを願っているのかを祈り、神が共に働いてくださっているのか、こちらから息を合わせてすべきことではないでしょうか。祈りも神との呼吸です。一方的な願いを求めるんでなく、神が何を願っているのかを聞くときです。
パウロは伝道旅行をしながら、自分が神に協力しているというよりも、神が共に働いてくださることを支えとしたのではないでしょうか。そんなパウロは、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」とコリントの信徒たちに伝えています。「恵みを無駄にしてはいけません」と言っているということは、神の恵みが無駄になるということがあったからでしょう。それはコリント教会の信徒に限らず、わたしたちも神の恵みを恵みとして受け止めていないことがあるのではないでしょうか。
神の恵みとは、罪が赦されたということです。神と和解させられたということです。それはキリストによって実現したことです。キリストに結ばれて、新しく創造されたにも関わらず、以前と変わらず自分中心の生き方をしていれば、十字架によって成しとげられた神の恵みを無にしているとしか言えません。もっといえば、キリストの十字架の死を無駄にすることになってしまいます。
2節に「なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです」とあります。この鍵括弧の言葉は、旧約聖書イザヤ書49章8節の言葉です。オリジナルのイザヤ書の言葉ではこうなっています。
「主はこう言われる。 わたしは恵みの時にあなたに答え
救いの日にあなたを助けた。 わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて
民の契約とし、国を再興して 荒廃した嗣業の地を継がせる。
捕らわれ人には、出でよと 闇に住む者には身を現せ、と命じる。」
イザヤ書は66章からなりますが、40章から55章までを第二イザヤという呼び方をしています。第二イザヤの生きた時代は、半世紀以上も続いたバビロン捕囚というイスラエルの歴史の中で一番困難な時代でした。エルサレムの都は破壊され、イスラエルの主だった人々は皆、バビロンの地に連れ去られています。神は自分たちを見捨てた。そのようにしか思えない絶望的な状況の中で、第二イザヤは、「解放の時は近い」という神の声を聞きました。そして、「わたしは恵みの時にあなたに答え 救いの日にあなたを助けた」と宣言したのです。「恵みの時」、「救いの日」は同じ意味の反復です。
問題は、パウロがなぜ、第二イザヤの預言を思い起こしたのかということです。イザヤの文脈では、捕囚からのイスラエルの民の解放が、恵みの時、救いの日と言われています。パウロが、この言葉を引用して「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と宣言したのは、第二イザヤ書が望んだ恵みの時、救いの日が、もっと明確な形で、今ここに来ていると確信したからです。旧約の預言は、キリストによって実現した。約束の主は来てくださったのでから、今は待つ時ではなく、恵みを受け取る時だと。
イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた」を宣教の中心としました。パウロは、ガラテヤの信徒への手紙4章4節以下で、「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれたとしてお遣わしになりました。」と言っています。時は満ち、神が預言者をとおして約束された救いの時は来たのです。神の恵みは、いつも手の届くところにあるのです。であるならば、手を伸ばせばいい。神はそう招いているのです。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」なのだから。
シルバーホーム「まきば」の責任を持つようになり4カ月が経ちました。来週には届くであろう「まきば通信」に書いたことですが、あらためていい施設だなと思わされています。それだけに、経済的な余裕がなければ入るのが難しいのは申し訳ないことですが、予約されている方が何十人もいらっしゃることは幸いなことです。だからといって、何年も待たないと入れないということはありません。空きが出た部屋のリフォームが終わる頃に、小田部施設長が「お待たせしましたが、入居することができますよ」と予約の方に電話します。すると「まだ元気ですから」という返事が返ってくることが多いというのです。入居金を考えれば、お元気なうちに入っていただく方がよいのです。入居時自立型のホームですので、はじめから介護が必要だと入りにくくなってしまうにも関わらず、まだ元気だからと言われる。
「まきば」の話に関わらず、わたしたちは時を先延ばしすることがあります。テレビにもよく出てくる林先生が言われるように「いつやるの、今でしょ」がなかなかできないのです。特に信仰のことでは、先送りはないはずです。神の恵みは目の前に差し出されているのに、忙しさからとか、まだ早いと言って、先延ばしにするのはどうかと思う。洗礼志願者が与えられれば、受洗準備会をします。半年ほど時間をかけて準備する牧師もいますが、わたしの場合は2,3カ月ほどが多いです。それで十分だとは思いませんが、救いは、神の一方的な恵みによって与えられるもので、わたしたちの準備が整うのを待ってすることではありません。病床洗礼の場合には、待ったなしということもあります。
聖書を読んでいると、決断の速さを感じることがよくあります。わたしが聖書から学んだ一番もそこかもしれません。迷う時間があれば実行したいタイプです。イエスが招かれた弟子たちがそうでした。ペトロとアンデレは「わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしよう」とイエス様に呼ばれると、すぐに網を捨てて従ったでしょう。ゼベタイの子ヤコブとヨハネも同様です。収税所に座っていたマタイも、すぐに立ち上がってイエス様に従いました。わたしたちはそういう記事を読むと、もう少し慎重に考えてから方が決めた方がよいのではと思うかもしれません。でもそれは余計なことです。神が信頼できるからこそ言えることですが、神は今、招いているのだから、呼びかけに応えるのも今でしょ。聖書はそのことを基本的なこととして教えているのです。名前を呼ばれたザアカイも、急いで木から降りてきて、イエス様を家に迎えました。彼らは一人として準備していたわけではありません。主の呼びかけに「今」応えただけなのです。
神はイエス・キリストを通して、わたしたちに必要なことをすべて成し遂げてくださいました。今から2000年前の過越祭の時、ユダヤの指導者たちが「祭りの間はやめておこう」と相談していました。しかし、決定的な神の時、カイロスがやって来ました。ゲツセマネの祈りの後、イエス様は「時が来た」と言って、裏切り者のところへと向かわれたのです。
以前に聖歌隊で「ときは今」という歌を歌いました。初めは遠慮がちでしたが、皆さんノリノリで歌えるようになり、十八番となりました。今も神は、時は今だと招いておられます。「わたしに従いなさい」と。それは恵みへの招き、救いへの招きです。教会につらなるわたしたちは、神の協力者として、神が熱情を持って招いてくださっていることを伝えていくのです。そのようにして、教会は神がなされる伝道の業に協働するのです。もっと学んでから、理解できてからと言っていては、いつになるのか分かりません。今がその時なのです。
