コリントの信徒への手紙5章16~21節
「和解の言葉を委ねられた者」 田口博之牧師
新しい姉妹がわたしたちの群れに加えられたことを感謝いたします。ご自分の名前をアルファベットで記されることが多いです。お話を聞くと、アメリカの教会で洗礼を受けられたからと言われました。ご自分の信仰のアイデンティティとなっておられるのだなと思いました。そこを重んじて、教会員名簿の表記もそれでよいかなとも思ったのですが、50音順の礼拝出席簿や週報棚の位置も変わってしまいます。また、ご本人もそこまでは拘っておられないことが分かりましたので、週報などの公の表記は実名としています。教会には、同性と同名の方もいらっしゃるので、フルネームで呼んでくださると良いと思います。
プロテスタント教会では、聖人崇拝を避けるという理由もあって、洗礼を受けてもクリスチャンネーム(洗礼名)は授けません。洗礼名が付くと自分が新しくされたという思いにもなるでしょう。しかしパウロは、17節で「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」と言います。洗礼を受けた人は、名前が変わるどころではない、「新しく創造された者なのです」というのです。一人二人ではありません。「キリストと結ばれる人はだれでも」と言います。「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」のです。
なぜそのように言えるのでしょうか。皆さんの中で、洗礼を受ける前と洗礼を受けてからの自分は変わったと自覚されている人は、いらっしゃると思います。そうでなければ、礼拝生活を続けることはできません。でも、もっと変わることを期待された人もいると思います。わたしは高校2年のイースターに洗礼を受けましたが、その日の朝のことをよく覚えています。教会には自転車で通っていたのですが、父親も行ってみたいと言うので、一緒に電車で行きました。外の景色を見ながら、帰りの景色は色まで違って見えるのかもしれない。いや、さすがにそんなことはないか、などと思ったことを覚えています。
思ったとおり、帰りの電車もいつものような景色が流れました。それでも確かに、聖書を読んで、また教会で様々な奉仕をされる方の姿を見て考え方は変わってきました。部活動でも、縁の下の力持ち的な役割が自分には向いているのかもしれないと思い、マネージャーを引き受けました。エースを目指すことよりも、全体の目配りをする人がいた方がチームのために有益だと思いました。進学も他者のために尽くしたいという思いから、福祉系の大学を目指すことにしました。
パウロは、「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません」と言いました。以前とは考え方が変わったのです。「肉に従って知る」とは、古い価値観、この世的に見て、優れたものを優れているとする見方です。パウロは家柄、学歴、地位、あるいは容姿、その人の内面ではなくうわべだけを見て判断することを止めました。加えて「肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」と言います。周りの見方だけではなく、キリストに対する見方も変わってしまったのです。
パウロにとって、ナザレの村の大工の子として生まれたイエスは、ベニヤミン族の出で、生まれて八日目に割礼を受けた自分と比べて、何も評価することがない人でした。律法の知識はあるようだが、ガマリエル門下で律法の教育を受けた自分とは比較にならない。ユダヤ教の反逆者であり、挙げ句の果て十字架につけられ殺された人だった。ところがそんなイエスをメシアと信じている人々がいる。パウロは自分の正義感からでしょうか、我慢できずに迫害しました。いやもしかすると、イエスは自分にはない何かがあると、恐怖を感じて迫害したのかもしれません。パウロはかつての輝かしい経歴を塵あくたと見なしていると言っていますが、裏を返せばかつてはそこを拠り所として生きていたのです。でも今はそうではない。復活のイエス・キリストと出会い、目からうろこのようなものが落ちたとき、物の見え方が変わったのです。肉に従う見方、うわべだけで判断することをしなくなったのです。
それは、キリストと結ばれるたことで、新しくされたからです。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」とあります。キリスト者とは、ただキリストを信じている人、イエスを主と告白する人というだけではありません。それだけでは、「新しく創造された」とは言わないでしょう。
「キリストと結ばれる」という言葉はわたしのお気に入りですが、直訳すれば「キリストの中にある」となります。「結ばれる」という訳は、ぶどうの実がその枝に連なっているような交わりにあるというイメージからです。キリストと結ばれたがゆえに、キリストの命が流れ込んで実を結ばせる者となる。それがキリスト者だと言うのです。
直訳すれば「キリストの中にある」と言いました。わたしは英語に詳しくありませんが、「車に乗る」は英語で「Get in the car.」でも「電車に乗る」だと「Get on the train.」と言うでしょう。InとOnの違いは、その中で動けるかどうかの違いなのではないでしょうか。乗用車では電車の中のように、立って動くことはできません。キリストの愛の中に捕えられてしまったから、身動きが取れなくなっている。それは不自由なようですが、キリストの命に生きていることを実感し、新しくされていることが分かってくる。
18節以下から新しい展開が始まります。ここから「和解」という言葉が5回も出てきます。また21節に「神の義」という言葉が出てきます。義という言葉と和解という言葉は、神学的も重要ですが、密接に関わっています。礼拝招詞で、ローマの信徒への手紙5章1、2節に聞きました。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」とあります。神との間に平和を得ているというのは、神と和解しているということです。義も和解も、関係性を持つ言葉です。義を得るとは、わたしたちが正しい人間になることではなく、神との正しい関係が出来ているということです。神を重んじ、神に生かされていることを自覚し感謝して生きる。それが、聖書の言う正しい人間の姿です。そのように生きている人間は、神との平和を生きることができます。
和解という言葉は、一般的には敵対し合っていた者が仲直りするということを言いますが、新約聖書では、神と人間との関係を回復するという意味で使われます。それは、神と人間との関係に問題があるからです。関係が良好であれば、和解する必要はありません。背いたのは人間ですが、和解のために動かれたのは神の方でした。
18節に「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ」とあり、19節には「つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ」とあります。共に主語は神です。神との和解は、人の働きかけや、神と人の双方によって成せることでもありません。神がキリストを通して、わたしたちと和解してくださいました。神が一方的に御子を遣わされ、御子を通して和解が実現したのです。
人と人との和解も簡単なことではなく、関係のこじれた双方を調停する人がいて、互いに歩み寄れるところで折り合いをつけるしかありません。神と人との和解の場合は、もっと困難で、わたしたち人間の側で和解のために努力をしても、神を宥めることは出来ません。なぜ出来ないのかといえば、人には和解の環境を妨げている罪があるからです。和解の前提として、はじめに人間の側が「どうぞこの罪を赦してください」とお願いしたのではありません。「神はキリストによって世を御自分と和解させ」とあるように、最初から主語は神。和解は人ではなく、神の側から始まりました。これは不思議なことです。敵対環境を作り出したのは、人間の側であるにも関わらず。
通常は関係修復するためには、悪いことした側が謝ることで、和解の一歩が始まります。しかし、神は悪くない。罪を犯され、傷つけられた側であるにも関わらず、神ご自身から和解を求められ、和解のために行動されたのです。人を罪に裁きたくないからです。ではどうされたのか。人々の罪の責任を問うて悔い改めを求める仕方ではありません。罪というのは神に背くことを平気とするので、和解の必要を感じさせないのです。そこに罪の手強さがあります。
では、神はどういう方法を取られたのか。すでに18節で「神は、キリストを通して」、19節で「神がキリストを通して」と述べたとおりキリストを通してなさいました。具体的には21節。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」とあるとおりです。「罪と何のかかわりもない方」とは、言うまでもなくイエス・キリストです。神は、罪のないキリストをわたしたちのために罪とされ、罪の責任を負わしたのです。それでわたしたちの罪が問われなくなりました。
「贖い」もそうですが、聖書には経済の言葉がよく出てきます。この「和解」というギリシャ語の元来の意味に「両替する」、「一つのものを他のものと交換する」という意味があります。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」とあります。
「神の義を得る」とは、神に正しい人とみなされるということです。キリストがわたしたちの罪を負われたことで、キリストの義が、私たちに転化される。その交換としてキリストが罪の裁きを負われたのです。人と人との和解案は、双方がどうにか納得できるように落しどころを見つけて決着を目指すようなところがありますが、神の和解は中途半端なものではありません。イエス・キリストが、わたしたちの罪の責任を、あの十字架の上で完全に負われたからです。罪と義の交換がなされたことで、人は神の怒りに脅える必要はなくなったのです。
二人の体が入れ替わってしまうというストーリーのドラマや映画があります。アニメ映画の「君の名は」もそうでしたが、片手では足りないくらい見ることがあるのは、それだけ面白いことが描けるからです。でも、体が入れ替わるというのは、うわべは変わるけれど、本質は変わらないのです。しかし、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」とあるように、キリストの中に入ったとき、うわべは変わらなくても、まったく新しい者に造り替えられてしまう。それが神との和解に生きる人間の状態です。神の義を得た人の姿です。イエス・キリストの義が、私たちの義となる。私の罪がキリストの罪となる。義と罪の交換されたのです。
では、神と和解した人はそれで終わりでしょうか。聖書は自分が救われれば、それで良しとはしません。パウロが強調しているもう一つのことがあります。18節の後半で「和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」とあります。また、19節で「和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」とあります。神はなんと、和解の務めをわたしたち教会に委ねられたのです。「和解の言葉」とあるように、和解は言葉で宣べ伝えられていきます。そのために神は宣教する教会を建てられたのです。
先週の横山先生の説教題は「わたしたちの慰め」でしたが、-死の陰の谷を歩むとも-という副題が付いていました。副題があるのはかっこいいなと思い、今日の「和解の言葉を委ねられた者」という説教題に副題を付けようかと考えました。付けるとすれば-キリストのアンバサダーとして-となります。
アンバサダー(ambassador)という言葉は、特に最近「宣伝大使」とか「広告塔」という意味のビジネスシーンでよく用いられるようになりました。通常は「大使」、「使節」として、自国の意志を伝えるために他国に派遣される存在を言います。英訳の聖書を読むと、20節の「キリストの使者」のところは、「Ambassador for Christ」キリストのアンバサダーという言葉が用いられています。パウロは、キリストのアンバサダーとして、神の国の意志を伝える者と自覚していました。そうでなければ「キリストに代わってお願いする」とは言えません。キリストの全権大使として、キリストに代わって、キリストの願いを語ったのです。
キリストの願いは、わたしたちが神と和解するということです。救われなければならないのはわたしたちの側であるのに、わたしたちが願うのではなくて、救う側のキリストが願っておられる。今朝もわたしたちが救いを確信するようにと、礼拝に招いておられます。であれば、教会で語られる言葉も和解の言葉でなければなりません。罪を語ることは大事ですが、そんなことではだめだと責める言葉ではなく、慰めの言葉でなければなりません。牧師はもちろんですが、信徒同士で語られる言葉もそうです。
20節に「神がわたしたちを通して勧めておられるので」とあります。この「勧める」という言葉は、「慰める」とか「励ます」と訳せる言葉です。ですから「神がわたしたちを通して慰めておられるので、わたしたちはキリストの使者(アンバサダー)の務めを果たしています」といえます。わたしたちが慰め手となるのです。パウロは苦難を受ける中で神の慰めを経験し、この手紙のいたるところで語りました。わたしたちもペンテコステの3人の姉妹の証を聞く中で、それぞれが受けた苦難の体験と、苦難を通して与えられた神の慰めを聞いて、慰められたのではないでしょうか。そこにこそ教会の交わりがあります。
今日は食事会もあります。こんな話を奉仕者は望んでおられないでしょうが、昨日は二人の姉妹が朝から食事の準備をし、その後週報の棚入れが終わったのは夕方6時でした。8時間労働。損得で考えればできないことです。今日は第3聖日なので食事があるのは当たり前のことのように思うかもしれませんが、決して当たり前に用意されているわけではありません。でも奉仕者は、共に楽しく食事を通して交わりが持てると思い、奉仕をされている。そこにも慰めがあります。教会のすべての奉仕はそう。そのようにして、神はわたしたちが慰められることを求めておられるのです。
この世界は、あらゆるところで分断と敵意、憎しみと排除に満ちています。今日、国政選挙の投票日ですが、対立を煽るような言葉を、しかも自信を持って語る選挙演説をよく聞きました。残念ながら、世が求めている「和解の言葉」を聞くことがありませんでした。和解の言葉は、声を枯らして叫ぶような言葉ではありません。和解の言葉は慰めの言葉です。慰めてもらいたいとき、遠くから叫ばれても慰めにはなりません。そばにきて、隣に座ってもらって静かに語られるとき、悲しみや苦しみを共にしてもらっていると実感します。
神がそういうお方でした。高い天に留まるのではなく、御子を地上に送り、私たちの傍らに遣わしてくださいました。聖霊もまた慰め主として天から降りました。わたしたちは、三位一体の神の委託を受けて、神の慰めを携えることが求められています。それあキリストの使者、アンバサダーの務めであり、その中心となるメッセージが、「神と和解させていただきなさい」です。その和解を実現するために、イエス・キリストは十字架に赴かれました、わたしたちは、神と人との和解がこの世に実現したことを告げ知らせる務めが委ねられているのです。神の国の大使として、平和の使者、キリストのアンバサダーとして。
