ホセア6:1-6、Ⅱコリント5:11-16、
「キリストの愛に捕えられて」 田口博之牧師

「あなたのことは、ありのままに知られている」と言われたら、あなたはどう感じるでしょうか。ありのままとは事実のとおりということです。わたしは自分のことが分かってもらえていない。認めてもらえていないとうときがあるでしょう。でも、ありのままに知られていると言われたら、困ってしまうのではないでしょうか。今は住所、電話番号さえ慎重な時代です。

しかし、神はすべてを知っていてくださると思えばどうでしょうか。たとえ自分を見失うようなことがあったとしても、神はわたし以上にわたしのことを見ていてくださる。分かってくださっていることを知れば、慰めを覚えます。

けれども、どこか心にやましさや隠し事を抱えているとすれば、話は変わってきます。むしろ恐れや不安を感じるのではないでしょうか。周りの誰にも気づかれていないうちは大丈夫、そう思っていたとしても、すべて神に知られているとすれば、慰めどころか恐れの方が先立ちます。

創世記に登場するアダムとエバは、罪を犯したとき、恥ずかしさから腰を覆いました。神に「どこにいるのか」と問われると、園の木の間に身を隠しました。聖書は罪を犯した人間は隠し事をするようになるということを教えています。そんなわたしたちを神はどのように見ておられるのでしょうか。

旧約聖書の神は裁きの神で、新約聖書の神は愛の神であると単純に分けて考えるとすれば、それは誤りです。神は常に義なるお方であり、同時に愛なるお方です。アベルを殺したカインは、そのことを主に指摘され、地上をさ迷うものとされるという裁きを受けたとき、「わたしの罪は重すぎて負いきれません」と告白しました。すると主は、誰もカインを打つことがないようにしるしを付け、守ってくださいます。わたしたちは使徒信条で、「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁き給わん」と告白します。正しい裁きをされる神が、同時にわたしたちの救いを願っておられるのです。

パウロは「主に対する畏れを知っている」と言います。聖書では、かしこまる、畏敬の念を抱くという時の畏れという字が使われています。神には何も隠すことができない。すべてが知られていることを受け止めて、神を畏れる人になるというのが聖書の教える信仰です。そこを大切にするキリスト教学校はとても多く、たとえば金城学院でも、箴言1章7節「主を畏れることは知恵の初め」をスクールモットーとしています。

但し聖書の元々の言葉では、この「畏れ」と恐怖という字を使う「恐れ」との区別はありません。実際に今日のテキストの直前、5章10節に「わたしたちは皆、キリストの裁きの前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていた時に行ったことに応じて、報いを受けねばならない」とあります。この御言葉は、わたしたちが肉体をもってこの地上を生きている間の行いを、神が問われるということを教えています。誰もがキリストの裁きの前に立たされる時が来るのです。人の目をごまかすことができても、主はすべてをお見通しです。「わたしたちは、神にはありのままに知られています」とあるのですから。それは恐ろしいことです。

「ありのまま」と似た言葉に「あるがまま」があります。「あるがままわれを、血をもてあがない、イエス招きたもう、み許にわれゆく」という讃美歌があります。また、子ども讃美歌にも「よいこになれないわたしでも、かみさまは愛してくださるって、イエス様のお言葉」という歌があります。

これらの讃美歌は、罪深いままのわたしを、イエスさまはすべてご存知の上で、愛し救ってくださったという感謝を表しています。しかし、その愛のために神が、独り子を十字架に引き渡すという大きな犠牲を払われたことを、忘れてはなりません。罪に滅ぶべき古い「ありのままの」自分が救われたと知ったとき、わたしたちはもはや、かつての「ありのまま」ではいられなくなり、新しい「ありのままの自分」を生きるようになるはずです。

その上でパウロは、「わたしは、あなたがたの良心にも、ありのままに知られたいと思います」と言うのです。自分のすべてがさらけ出されたとしても、困るどころか、むしろ望んでいるというのです。パウロは「わたしを見れば神が分かる」とでも言うかのように、自分を隠そうとしていません。むしろ知られたいと願っているのです。

「伝道の秘訣は何ですか」と問われることがあります。神の業なのだから秘訣などない、と答えることもできます。しかし、あえ言うなら、教会に集う一人一人が、自分のことを隠さず、「ありのままに知られたい」と願うようになることだと言えます。わたしを見てもらったら困ると言うのでは証になりません。あの人を見れば、信仰を持って生きることの喜びが分かる。神様ってなんて素晴らしいお方なのか分かる。そこでこそキリストの愛が証しされるのです。

先月も3人の信仰の姉妹に証をしていただきました。そこでお聞きしたように、証というのは自分に起きたこと、たとえそれが望ましく思えることではなかったとしても、そのことを通して、神の愛と恵みが証しされることを言います。コリントの信徒への手紙二を読んでいると、これはパウロの証だと思えるところがよく出てきます。「とげが与えられた」と述べているところもそうですね。どれだけ祈っても癒されることがない。でもパウロはそのことを通して「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と語ったのです。

そのようなパウロは12節で「もう一度自己推薦をしようというのではありません」と語ります。「もう一度」という言葉からも分かるように、パウロは過去に自らが使徒であることを弁明せざるを得なかった経験がありました。自己推薦するということは、自分を誇ることに通じますから、「あなたがたに知られたい」というのは、自分を誇っている言葉のように聞こえるかもしれません。でも、そういうことではないのです。 

「ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです」と言っています。コリント教会の人々の中に。パウロに敵対する教師たちに心を寄せている人たちがいました。でもその教師たちこそが「外面を誇る人々」です。この人たちは外面を誇れるものを持っていたに違いありません。そもそも人間は、自分には誇れるものがなくても、あまり会ったこともないような親戚を引き合いに出してまで、人が驚くものなら何でも引っ張り出して誇って見せたいと思うものです。そういうものがないと生きてはいけないのです。

わたしたちの社会では、必要な自己推薦もあるでしょう。試験の面接などは、どれだけ上手く自分をアピールできるか、自己推薦力が問われているといってもよいほどです。しかし、主の前ではその必要はないのです。パウロは、10章17節以下で、「『誇る者は主を誇れ』自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられる」とも語っています。主の前では、自分を飾る必要はありません。ありのままの自分をさらけ出せる人、隠し事のない人こそが、主から推薦される人なのです。

一方でパウロは、「正気でないとするなら、それは神のためであり、正気であるなら、それはあなたがたのためです」と語ります。おそらくパウロは、わたしたちが思っている以上に熱く語る人だったと思います。その語り口も正気でないと思われることもあったのです。理由ははっきりしています。14節にあるように「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」

キリストの愛とは、十字架の愛のことです。パウロは言います。「一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります」。言うまでもなく、この「一人の方」とはキリストのことです。キリストの死は、すべての人のための死でした。このキリストの愛を思う時、もう正気ではいられなくなる、熱くなってしまうのです。

なぜ、キリストはすべての人のために死んでくださったのでしょう。15節に「その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」とあるとおりです。キリストはすべての人の罪を背負って死んでくださいましたが、死で終わるのではなく、復活されたのです。わたしたちは、このキリストの死と、復活されたキリストに結ばれることで、これまでとは違う、新しい命に生きることができるのです。

名古屋教会で行う洗礼は、滴礼といって水を頭に滴らすという形を取っていますが、洗礼の本来の形は浸礼です。この浸礼のことをバプテマと呼びます。新共同訳聖書は洗礼にバプテスマというルビを振りましたが、これは洗礼は浸礼でないといけないとするバプテスト教会にこの聖書を使ってもらうためにしたことです。ですから、わたしたちは洗礼(せんれい)と読めばよいのです。

水の中にドボンと沈められて、古い自分が死に、水から引き上げられて新しい命が始まる。洗礼は、キリストの死と復活に与る聖礼典です。キリストが十字架で一度死なれ、一度復活されて今も生きておられるように、洗礼も一度きりの出来事です。ですから再洗礼というのはあり得ません。そうでないと、キリストの死による罪の赦しは不完全なものと認めたことになるでしょう。しかし、教会は聖餐を祝います。聖餐によって、洗礼を受けていること、キリストの死と復活にあやかっていることを確かめることができるんです。

パウロが語る「キリストの愛」とは、観念的なものではなく、キリストの死と復活の出来事そのものです。パウロは、わたしたちのために死んで復活してくださったキリストの愛に駆り立てられた伝道者でした。

14節の「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです」という言葉ですが、新しい聖書協会の共同訳では、「キリストの愛が私たちを捕らえて離さないのです」と訳しています。とあります。この「駆り立てる」というギリシャ語は、「締め付ける」とか「強く迫る」とか「捕らえて離さない」という意味を持つ言葉です。文語訳聖書では、「キリストの愛、我らに迫れり」でした。

ある隠退牧師は、この「キリストの愛、我らに迫れり」の言葉を生涯愛しました。キリストの愛が、ぐぐっと迫ってきて、捕まえられてしまった。もう逃げようとしても逃げることができない。その愛に捕らえられて、献身に導かれたという証をなれました。

こういう歌詞の聖歌があります。
 「罪深き わが身に代わり キリストは 十字架につき
命さえ 惜しまず捨てて 贖いを 成し遂げ給えり
キリストの愛 我に迫れば わが命 君にささげて
ひたすらに 主のために生く」。

これは、迫りくるキリストの愛に捕えられて、主に従いゆく人の心を歌っています。

幼いころ、兄と相撲を取ったとき、がっちりと捕まえられて身動きが取れなくなり、逆に寄り切られたことがあります。ヤコブは神の使いと相撲を取って降参させましたが、わたしは勝つことはできなかった。でも、信仰においては「負けるが勝ち」ということがあります。キリストの十字架に与ることで、わたしたちは一度死にますが、新しい命を与えられるのです。

キリストの愛に生きる人は、「もはや自分自身のために生きるのではなく、死んで復活された方のために生きる」者とされるのです。17節に「キリストに結ばれた人は、新しく創造された者なのです」とあるとおりです。

ホセア書6章2節に「二日の後、主は我々を生かし、三日目に立ち上がらせてくださる」とあります。このホセアの言葉は、イエス・キリストの復活を預言しているような響きを持っています。キリストの復活はわたしたちを立ち上がらせてくださるのです。復活は過去の出来事ではなく、今を生きるわたしたちを生かす命の出来事です。

十字架の愛に捕らえられたパウロは、もう逃げることはできませんでした。そして、主はわたしたちを捕えようとされています。いや、捕らえられているのです。主の愛に生きるとき、わたしたちの一週の歩みは、悔い改めと感謝と賛美によって満たされていくのです。

ホセアは6章6節で、「わたしが喜ぶのは愛であって、いけにえではない。焼き尽くす献げ物ではなく、神を知ることである」と言いました。主が何を望んでおられるのかが言いあらわされています。わたしたちの礼拝も儀式として行っているのではありません。キリストの愛に捕えられた一人一人がが、主を知り、主を誇り、主のために生きる。そこに真の礼拝があり、まことの信仰生活があるのです。