ヨハネによる福音書 14章1~3節
「神様がお迎えに来てくださる日まで」

平岡信子姉の証を聞きながら、あれから6年が経つのだなと改めて思わされました。逆縁などという言い方がされることがありますが、母親にとって、子どもを先に送らねばならないということが、どれほど辛いでしょう。しかも葵さんはまだ18歳でした。でも思うのです。発症が1年遅ければ、新型コロナウィルスの蔓延により、病院にお訪ねすることはできなかったのではないか。すべてを支配しておられる神様は、どれだけ辛いことがあったとしても、命の光を指し示してくださいます。

葵さんは紹介された詩にありましたように「わたしは神に選ばれた人」だと自覚していました。なぜでしょうか。脳の病気により障害を得てしまう。神様がいるなら、なぜこんな重荷を負わせるのか、自分がいったいどんな悪いことをしたというのか、10代であれば、普通なら呟きます。神を呪ったとしても不思議ではありません。それでも、「わたしは神に選ばれた」と受けとめたのです。重い病をも、神が自分に与えられた賜物だと受けとめることができたのです。

証の中で、「葵は幼い頃から純粋で、どういうわけか、神様を信じていました」という言葉がありました。どういうわけか。不思議としか言えないことですが、それもまた、神様が葵さんを選ばれていたことの証に他なりません。加えて間違いないことは、葵さんより先に、神は信子さんを選ばれていたということです。いや、わたしたちすべてがそうです。洗礼を受けてクリスチャンになった人も、洗礼を受けていなくても、こうして名古屋教会の礼拝に導かれていることも、自分で選び取ってそうしているのでしょうか。そう思ったとしても、その前に神の選びがあります。

金城学院では中学に入学した時に、今日も読まれたヨハネによる福音書15章16節。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」という言葉が語られます。 何であったとしても、選ばれるというのは光栄なことです。でも、神の選びは、「どうして」という思いが先立ちますが、その中から謙遜と感謝が生まれてきます。「神に選ばれた」と思える人は忍耐強くなります。土の器の中に宝が入るからです。葵さんは、そういう母に育てられたのです。

信子さんも名大病院に入院し、言葉を交わすことができなくなった葵さんの傍らにいる時に、かつて聖書科の授業で聞いた長津先生の言葉が立ち上がってきて、すべてを神様に委ねようとされたのではないでしょうか。名古屋教会に電話をかけてくださったことも、昔通ったことがあると言いながらも、勇気のいることだったと思います。聖霊が背中を押してくださいました。

わたしたちは誰であれ、時が来れば地上での生涯を閉じなければなりません。しかし、聖書は死ですべてが終わるのではないことを教えています。特に今日の聖書、ヨハネによる福音書14章において、イエス様は天にいます父なる神様の御もとに、わたしたちが住むところを備えてくださることを約束されました。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」

このイエス様の言葉は、ご自身が十字架にお架かりになる前夜に語られた、告別説教の中の一部です。イエス様は、この説教において、ご自身の十字架から始まる一連の救いの業を話されました。

かつてある牧師が、ヨハネによる福音書のことを「栄光の神学」と語ったことが心に残っています。栄光の神学とは、「十字架の神学」に対する言葉ですが、マタイ、マルコ、ルカ福音書の十字架が、イエス・キリストの御苦しみに焦点が当てられているのに対し、ヨハネ福音書では、イエス様の十字架の受難を、神の栄光としてとらえているからです。

3節に「行ってあなたがたのために場所を用意したら」とあります。ここを読むと、復活されたイエス様が天に昇られてわたしたちの住む所を用意してくださる。そんなイメージを持つではと思います。でもそうではなく、まずは十字架に上げられるということなのです。十字架に上げられ、わたしたちの罪の裁きをその身に負ってくださることにより、わたしたちが父なる神の御もとに行くことが出来るようにしてくださった。でもヨハネが語る十字架は、復活と昇天を見越しています。だから続く14章15節で、聖霊を与える約束をされるのです。

聖霊が弁護者としてわたしたちのもとに遣わされ、わたしたちの内にいてくださることで、わたしたちは神と共に生きることができるのです。18節「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる」とは、何という慰めの言葉でしょうか。どこにも居場所がなく、独りぼっちと思う時がありますが、神が「みなしごでにしておかない」と言われるのは、神様の子どもとしてくださるということです。神様を天の父と呼ぶことができることを喜べるということは、聖霊が与えてくださる賜物です。

洗礼を受けるということは、自分が神様の子どもとされていることが公けにされるということです。洗礼を受けていなくても、自分は神様を信じているという人はいるかもしれません。でも内的な召命だけでは十分とはいえないのです。イエス様がヨハネから洗礼を受けたとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたと、福音書の記者は証言します。そのように神から認められる、外的な召命が必要です。

長津先生が、「神様を信じ、洗礼を受けたら神の子となれる。救われて、天国に行ける」と言われたのはそのとおりです。ですから、「あの人は洗礼を受けたけれども、どうなってしまったのだろう」という人は少なからずいます。でも、放蕩の旅を続けた後で、帰ってくる人もいっぱいいるでしょう。洗礼を受けたことを忘れてしまう人はいないのです。教会から離れている人でも、どこない後ろめたさを持っているものです。神様の子どもとされているという事実が取り消されることはありません。

イエス様は「わたしの家には住む所がたくさんある」と言われるのです。「もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行く」と言ってくださるのです。何と配慮に満ちた言葉でしょうか。そして、「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」と言われました。イエス様の家、イエス様によって用意された場所、それは天の父なる神のみ許であり、まさに天国と呼べるところです。

先週も葬儀が行われました。本人もまたご遺族も、家族だけで静かに送りたいという希望がありましたので、自宅近くの会館で、家族葬として行いました。前日には納棺の祈りをしました。納棺の祈りを前夜の祈りに代えて行いました。その時に必ずと言ってよいほど読む御言葉が、ヨハネによる福音書14章1~3節です。死んだ後も布団で休んでいた人が、納棺によって住む場所が日常から離れるのです。納棺されたまま葬儀が行われます。そして火葬されるのです。火葬が終わると、棺もなくなり、肉体は白い骨と灰になってしまいます。

その現実だけを見ると、永遠の命、体の復活を信ずと告白しながら、言葉だけのように思えてしまいます。でも神は全能のお方です。無から有を創造されるお方です。わたしたちの信仰は「見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ」のです。そのときに、「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行く」という言葉が慰めとなります。

イエス様はお生まれになる時、宿屋には泊まる場所がありませんでした。ホームレスとして生まれ、やがて家族はエジプトへと非難します。難民となられたのです。公生涯を歩まれたとき「人の子には枕するところもなく」働かれました。地上では大工を生業とされましたが、天の住みかをも建ててくださるお方です。

神は私たちを、孤独な死へと送り出すことはされません。わたしたちは死んだ後も、みなしごにされることはないのです。イエス様は、「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」と約束してくださいました。

わたしたちは、この約束があるからこそ、神様に迎えられるその日まで、望みをもって日々を生きることができるのです。