ローマの信徒への手紙8章35~39節
「神様に愛されて」 田口博之牧師
「神様に愛されて」というタイトルで鈴木敦子さんに証をしていただきました。証することになったときは、このような怪我をされるとは考えてもみなかったと思います。原稿は早々に作られ、拝見していましたが、お怪我をされて作り変えねばならなくなりました。入院し痛みを抱えておられるので、それも大変なことだったと思います。主がねぎらってくださいますように。そして癒してくださるよう切にお祈りいたします。
わたしは人生で一番幸いなことは何かと問われれば、「自分は神様に愛されていることを知るということ」そのように答えます。今日の証にもあるように、神様に愛されていることを知るならば、どのような苦難に襲われたとしても、それを乗り越える力が与えられるからです。
生きていて、楽しいことと辛いことを比べれば、圧倒的に辛いことのほうが多いと思います。次から次へと病気をしてしまう人がいます。そういう人から見れば、元気そうで、いつも笑っている。そんな人を見ると、羨ましくて仕方がないと思えるでしょうが、明るく振舞われている人でさえ、ほんのわずかばかりの楽しいこと。たとえば、毎日甘いものをいただくとか。そういう些細なことを支えとして、今日を生きている人もいます。
でも、自分が神に愛されていることを知っている人は、愛されていることを支えにするというよりも、愛されている自分という存在を喜んで受け入れることができる。そんな言い方ができるように思うのです。だからどんなことがあっても、明るく生きることができる。
ローマの信徒への手紙8章35~39節を読みました。ほんとうは31節からが段落の始まりで、小見出しにあるように「神の愛」について語られています。この段落はパウロがこのローマの信徒への手紙で、力を込めて伝えてきたことが凝縮されているところだといえます。ところがパウロは、この手紙の中では、「神の愛」について多く語ってきたわけではありません。「愛」という言葉を使うことに慎重だったようにも思います。
わたし自身も「神の愛」を語ることに難しさを覚えることがあります。今日の「神様に愛されて」という題は、鈴木敦子さんが証の題として付けられたもので、わたしはその主題に沿ってお話していますが、正直言って、愛について語るのは苦手なのです。「それは愛がないからだ」と言われれば弁解の余地もありませんが、説教で語るべき愛と、わたしたちが一般的にイメージするであろう愛には、間違いなくズレがあるからです。
神の愛、アガペーの愛は、他者のために自分を犠牲にする愛です。人間も自分を顧みずに誰かを愛することはするでしょうが、自分も愛されたいという見返りを求めていることが、どこかにあると思うのです。でも神の愛は、一切の見返りを求めない、与え尽くす愛です。この神の愛の具体的な現れが、イエス・キリストの十字架です。神はわたしたちを愛するあまり、ご自身の愛する独り子を身代わりとして差し出してくださいました。それはあまりにも途方もない愛なのですが、わたしたちには聞き慣れた言葉になっています。そして、十字架の贖いと聞いても、それがほんとうに自分のためなのか、分かっているようで分かっていないところがある。皆さんは、そんなことはないと言えるでしょうか。
パウロもそのことが分かっていたので、ローマの信徒への手紙において、愛という言葉を直接的には使って来なかったのです。それはヨハネが手紙とは決定的に違うところです。しかし、パウロがローマ書で語ってきたのも神の愛でした。
31節に「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか」と言って、これまで語ってきたけれど、ずっと溜めてきた神の愛について、噴き出さずにおれないほどに感情が高ぶってきていました。それでも「もし神がわたしたちの味方であるならば」とか、「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう」という言葉で我慢してきました。
でもついに35節で「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」と述べたのです。これは、直接には手紙の聞き手であるローマの信徒たちへの問いかけですが、わたしたちが問われていることでもあります。
続いて述べられている「艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」とは、わたしたちに襲いかかるいろいろな苦難のことであり、キリストの愛から引き離そうとするありとあらゆる力です。しかし、神の愛により引き離されないことを確信していたパウロは、「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」と言います。 輝かしい勝利ですから、冷や汗で勝つのではない、圧倒的な勝利。十字架の死を超えて復活された、その方のゆえの勝利です。
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」と問うたパウロでしたが、その答えが返ってくる前に自分で答えています。38節以下、「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」と言えるのです。これは神の愛の勝利宣言です。
38節に「死も命も」とあります。「死」については分かります。多くの方が死んだら終わりだと考えていますが、十字架の死と復活のゆえに、終わりではないのです。キリストによる神の愛の中にいる私たちは、肉体の死を越えた彼方に、復活と永遠の命の希望を見つめることができます。
では、「命も」とはなんでしょう。生老病死という仏教的な言葉をもちださなくても、わたしたちは生きているがゆえに味わわねばならない苦しみに襲われることがあります。だから死んでしまいたいと考えるのです。しかし、どんなに辛いことがあっても、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛を知れば、絶望することはないというのです。
「天使も、支配するものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも」とは、この世界に働くありとあらゆる人間を越えた力を指します。「現在のものも、未来のものも」とも言われています。現在はお米のことで動揺しています。物価高が生活を苦しめています。イスラエルとイラクの戦争状態は、相当に深刻なものをもたらしかねません。これから先も、どのようなことが起こるか見当がつかないのです。老後が不安で仕方ないという人もいます。教会も縮小し、これからどうなっていくのか分からない。しかし、どんなことが起こったとしても、神の愛から、私たちを引き離すことはできないのだと。
「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない。」この神の言葉を信じるならば、わたしたちは動じることはありません。イエス様も言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」年間聖句とした言葉です。わたしたちは、そのように言われた主の言葉を支えとして歩むことができるのです。