聖書  マタイによる福音書5章43~48節
説教 「敵を愛しなさい」田口博之牧師

毎週日曜日の9時半から子ども礼拝をしていますが、月に一度、第2週は子どもも大人も共に礼拝として、10時半から一緒に礼拝しています。子どものための説教と大人向けの説教と2回するときが多いのですが、花の日家族感謝礼拝とした今日はそのように分けるのではなく、牧師の説教も1回にして、共に礼拝をすることにします。

今日は「花の日」ということですが、先週の半ば、今さらと思われる頃に今日のためのチラシを作りましたが、そこに「花の日」の由来について書きましたが、はっきりこうだと言える由来まではよく分からず、ほぼ間違いないことを拾い出して書いてみました。

「19世紀、アメリカのある牧師が、子どもの宗教教育のために特別な礼拝を行ったことをきっかけに始まったと言われています。その後、6月第2日曜日に、子どもたちが神さまに感謝の気持ちを表すのにふさわしいものとして、教会堂に花を飾ったことから「花の日」と呼ばれるようになりました。」

発端は、子どもたちを礼拝に招いたということでした。NHKで放送していた「大草原の小さな家」を見ると、大人だけではなく、大人も子どもも家族で礼拝堂の長椅子に腰かけて牧師の話を聞く姿が移っていました。それが本来の礼拝だとは思いますし、今日もそんな礼拝の日と思っていただくとよいと思います。

さて、今日はマタイによる福音書5章43節以下からお話をします。43節に「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」と、書かれてあります。この二重鍵括弧がついている言葉は、たいてい旧約聖書からの引用です。ところが旧約聖書には「隣人を愛せ」という勧めは見つけることができますが、「敵を憎め」とはどこにも書かれてありません。けれども、ユダヤの人たちは、「人を憎め」と命ぜられていたのです。どうしてそうなったのでしょうか。

ユダヤ人は小さな民でした。国はエジプトやバビロニアといった大国に挟まれたところにあって、いつも脅かされていました。そんな弱くて小さな民を神さまは愛してくださり、モーセの十戒をはじめとした「律法」を授け、守り導いてくださっていました。

ところが、ユダヤ人はそんな神様の憐れみの心も理解せず、神の言葉、律法を授かった自分たちだけが特別で、律法を持たない外国人はだらしないと差別するようになりました。人は自分の身を守るために自分の仲間を作って、仲間内で固まろうとする傾向があります。そうすると人はだんだんと、仲間以外の人、違う民族は敵とみなすようになってしまったのです。

今日はフラワーポットを用意しました。先週CSのスタッフが集まってこれを作りましたが、今日の聖書箇所を思いめぐらしながらどんな絵を描こうかと考えていました。まず思い浮かんだのが、アンパンマンでした。アンパンマンとばいきんまんは、敵か味方かという分け方をすれば敵だと思いますが、憎みあっていません。アンパンマンは、アンパンチで悪いことをするばいきんまんをやっつけるけど、遠くへ飛ばすくらいですね。もしかすると、仲がいいのかもしれません。

敵だけど仲がいい。そこでもう一つ頭に浮かんできたのが、トムとジェリーです。これでは小さくて分かりにくいと思ったので、あらためて書いてみました。(絵1)

ネズミにとってネコは天敵です。忘れもしない出来事があります。昔、友達の家に遊びに行ったときのこと、飼っていたネコがネズミを口にくわえて部屋に入ってきたのです。びっくりしました。友人「ネコはネズミを見つけると狩猟本能が目覚めるからな。」とか、「あれは自慢しているんだ。」と言っていました。

トムとジェリーの場合は、(絵2)ネズミがネコの天敵のように思えますが、敵であるのに、この二人(この二匹か)は互いに向き合って、共に生きています。同じ家にいるから隣人なのではなく。敵であるのに隣人となったのです。(絵3)この握手は「シャローム」平和の挨拶です。喧嘩はしてもそれが尾を引かないから仲の良い喧嘩になる。そこに面白さがあります。

それに比べて人間はどうなのかと思います。同じ人間なのに、わたしとあなたは違うと線引きをします。そこで差別が生まれます。つまらないことで争ってしまいます。

イエス様は「隣人を愛せ」と教えている律法の先生に向って、こんなたとえ話をされました。(絵4)

「ある人が強盗に襲われ、傷だらけになって倒れています。そこに三人の人が通りかかります。最初に祭司が通りかかりますが、その人を見ると道の向こう側を通り過ぎて行ってしまいました。次にレビ人が通りかかりますが、彼も道の向こう側を通り過ぎて行きました。三番目に通りかかったあるサマリア人は、そばに来ると、この人の傷を手当して助けます。」

イエス様は、このたとえ話の後で「誰がこの怪我をした人の隣人になったかと思うか」と尋ねました。答えは簡単です。律法の先生も「助けた人」と答えました。でも、そう答えるのは簡単ではありませんでした。実は倒れていた人も、祭司も、レビ人も皆ユダヤ人です。この人が倒れてなかったら、隣人でした。でも、二人は何だか怖いなあ、関わりたくないなあ、そう自分勝手な理由をつけて、見て見ぬふりをして通っていきました。助けたのは、ユダヤ人と思っていたサマリア人でした。律法の先生も敵だと思っていたのに、助けることで隣人になったのです。

「敵を憎め」という言葉は、旧約聖書にないと言いましたが、「敵を愛しなさい」という言葉もありません。イエス様だから言える言葉です。「しかし、わたしは言っておく、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。そう言われたイエス様は、そのとおり十字架の上で、自分を迫害する者のために祈りました。

そんなお人よしではこの厳しい世の中わたっていけないという声が聞こえてきそうですが、でもどうでしょう。そのような生き方をした人がいました。そして大きな影響をもたらす人になりました。今も、そのように努力しようとしている人を見ていますが、みなさん堂々とこの世の中を渡っています。

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」これは、弱虫の言葉ではありません。「行ってあなたも同じようにしなさい」と同じような力ある言葉です。イエス様は、わたしたちに、ここにいる子どもたちにも、こう生きてほしいと思っています。

この言葉に生きれば、戦争など起こるはずがありません。誰かがするではなく、わたしたちから始めていきましょう。小さなことから始めればいい。自分に辛く当たる人がいたら、避けるのではなく、その人のために祈る。イエス様がそうあることを望まれています

最近知った言葉を紹介して終わります。WWJD。what would Jesus doという言葉です。これは「イエス様ならどうするだろうか」を考えるという意味です。アメリカのプロのスポーツ選手が、この字の入ったブレスレットやリストバンドをよくつけているそうです。

わたしも、どうしようかと判断が迷ったときに、「イエス様だったらどうするか」を考えるようにしています。すると、たいていは楽ではない道を選ばされている気がします。敵のために祈っても、それで敵が仲良くするわけでもない、逆に味方からも恨まれたりすることがあります。でも、ここにイエス様がいたらどうされるか、そう考えながら生きることで、神と共に生きることができます。たとえ厳しくても、「敵を愛する道」を歩んでいきたいと思います。それが、神様が喜んでくださる道であると信じて。