エレミヤ書29章10~14節    ルカによる福音書11章9~13節
「聖霊の約束」田口博之牧師

今朝与えられたルカによる福音書11章は、今年のレントに入る前の礼拝でも読んでいました。御言葉を通して望みをもって熱心に祈ることの大切さを示され、それが「祈りの共同体」という年度目標と、主題聖句にも反映されました。そのような中にあって、緊急事態宣言が出て、コロナの感染拡大が収まりそうにないという状況が続き、礼拝での讃美歌の措置に加えて、今週からしばらく聖書研究祈祷会も休止にすることになったのは残念です。

聖研祈祷会に集まるそれだけでも、励ましが与えられている人がたくさんいます。一緒に御言葉に聞き、共に祈るのは恵みのときです。しかし、教会に集うわたしたちは聖霊によって集められた神の民です。聖霊は自由の霊です。わたしたちはどこにいても、たとえ天と地にあっても、主に在って一つの民とされています。

神の民であるイスラエルの民の多くはバビロンに捕囚されました。先週の礼拝で学んだエゼキエルがバビロンで預言活動をしたのに対して、エレミヤはエルサレムで、残された民に向って預言活動をしました。その中で今日読んだエレミヤ書29章は、冒頭に「エレミヤの手紙」という表題が付けられています。ここはエレミヤがバビロンに捕囚された民に書き送った手紙であり、今朝はその一部を読みました。

捕囚の民は嘆いています。国の御用達の預言者はすぐにでも帰れるなどと偽りの慰めを語っていますが、エレミヤの語りは違うのです。厳しい現実を見つめさせると共に「バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。 わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。」、「それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」と語るのです。

わたしたちが、この手紙を受け取ったとすればどう受け止めたでしょうか。コロナの問題も、そう簡単に解決するとは思えません。有識者が言っているよりももっと長く続くかもしれません。そこで問われることは、この事態をどう受け止めるかです。

エレミヤは先の長い預言をしましたが、ただ70年後の帰還に期待せよと言ったのではありません。少し前の5節以下では、バビロンで腰を据えて生活し、バビロンの平安のために祈りなさいと勧めています。そのことがあなたがたの平安につながるのだと。礼拝で讃美歌が歌えないのは非常事態であるには違いありませんが、それをただ残念がるのでなく、礼拝での讃美の意味を深く考えるときとする。皆で集まることができなくても、定められた時間に同じ御言葉に聞き、それぞれの場所で祈りのときを持つ。

今はそういう時が与えられていると受け止めたときに、12節以下にあるように、「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう」という主の約束が大きな励ましとなり、希望となるはずです。

聖書を読むにつれて確かだと思わされることは、神はわたしたちが祈ることを求めておられる。祈ることを喜んでくださっているということです。ルカによる福音書11章の初めに、弟子たちはイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と求めました。弟子たちが求めたのは祈りの言葉でした。どういう言葉で祈るのかを教えてもらえれば、それでよかったのです。

そこで、イエス様は「主の祈り」を教えてくださいました。でも、それだけにとどまらず、私たちが祈りを向ける神がどういうお方であり、わたしたちがどういう思いで祈るべきかを、パンを求める友人の話を通して教えられました。そのまとめの言葉が11章8節、「その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」です。「友達だから」ということではなく「しつように頼む」ことで、パンは与えられると言われたのです。イエス様はここで「祈り」について、親しい人間関係を越えたところで考えさせようとしています。

人間関係を基軸に考えたとしても、「頼みごと」について思いめぐらす時に見えてくるものがあります。このことは「頼む側」ではなく「頼まれる側」から考えてみるとよいのかもしれません。わたしたちは、誰かに頼みごとをしようとしても、たいていは遠慮します。こんなことを頼むなんて、頼まれた方は迷惑ではないか、図々しすぎるのではないか。親しい友人であったとしても、余程に切羽詰まったものでなければ、そう考えます。実際に、無理なものは無理と断られることもあるでしょう。

けれども、案ずるに生むがやすしで、頼まれた側はそんなことは思わないで、むしろ、自分はこんなに頼りにされているのだから、何とか助けたいという思うかもしれませんそれは友達だからという理由でなくて、頼りにされたからという理由においてです。夜中にパンを借りにくるたとえに登場する友人も、結果はそうだったと思うのです。人間の間でもそうなのだから、まして神であるならば、そういう話です。

神様にとって嬉しいことは、わたしたちが神の愛を知り、神の愛に応える人生を歩むことです。祈るということもその一つです。神から命の息を吹き入れられた者が、健やかに呼吸して生きていくために必要なものが祈りです。

そういう流れの中で、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」という言葉が出てきます。この言葉は、「しつように頼めば、与えられる」と同じく、祈りは必ず聴かれてという教えです。イエス様はさらに繰り返して「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」と言われました。遠慮する必要は全くない、祈りなさい、わたしはあなたの祈りに応える。そんな思いが溢れています。

一方でわたしたちは考えてしまうのではないでしょうか。祈っても聞かれなかったという経験しているからです。でも、果たして祈りは聞かれていないのでしょうか、決してそうではありません。三つのことが言えると思います。第一に、わたしたちは時に見当違いのものを求めているのではないかということです。11節以下に、「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」とあります。目の前にある魚や卵を見て、これが欲しいと思ったとしても、実はそれが、蛇やさそりのように、害を与えるものにしかならない場合があります。欲しい物を得たことで自分が傷つく、また誰かが傷つくことになるならば、神はそんなものを与えようとはしません。

二つ目に、まだその時ではないという場合があります。祈りはいつか叶えられるけれども、まだ時が満ちていないということがある。むしろ、そういうことの方が多いのではないでしょうか。人は皆、待つことが苦手です。約束の時間の10分前に着いたのに、相手が3分でも遅れてくることがあれば、ひどく長く感じられることがあるでしょう。

わたしは1995年阪神淡路大震災の時に日本基督教団の補教師検定試験に合格しましたが、実際に教会に仕えるようになるまで3年待つことになりました。同じ年に補教師となった人は按手を受けて牧師になっていました。当時教区議長で、金沢の教会で牧師をしていた楠本先生にも何度か任地の相談をしましたが、「ちょっと待て、焦るな」と言われました。

しかし、「焦るな」と言われても弱ります。その3年の間にも、わたしは会社勤めを続けていましたが、会社での働きが大きくなり、簡単に辞められる状況ではなくなっていました。もう1年待って辞めることになりましたが、けっこう大変で、わたしは主に従うために二度網を捨てることになりました。一度目はこれしか生きる道がないと思ってのことでしたが、二度目は三人の子どもを養ってゆけるという基盤ができたところでしたので、よりたいへんな面がありました。でも、今振り返ると、あそこで待っていた期間がどれほど大事な時だったかを思わされています。

キリスト教は待つ宗教です。エレミヤが預言した捕囚の70年もそうです。教会の1年の暦が待降節、主を待つところから始まるのもその証です。教会の歩みは「主が再び来たり給うことを待ち望む」歩みを続けているのです。

そして、祈りが叶えられないと思ったけれど、実はそうではない三つ目のこと。それは、神様はわたしが今、求めているものより、もっと良いものを用意されているというケースです。わたしたちは、愛する家族が病気で苦しんでいる、特に死と隣り合わせの病気になったとき真剣に祈ります。いやされる時もありますが、祈ってもいやされず死んでしまう場合もあります。では、その祈りは聴かれなかったといえるのでしょうか。たとえ、そこでいやされたとしても、肉体をもって生きている私たちは、いつか死んでしまいます。だったら、結局はすべてが虚しいのかというと、それも違います。わたしたちは、死ななければ復活のいのちを受けることはできないのですから。

最後に、イエス様はここで素晴らしい約束をしてくださいました。13節です。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と。マタイによる福音書の並行記事では、「求める者に聖霊を与えてくださる」のところが、「求める者に良い物をくださる」となっていました。

弟子たちにとっては、「聖霊が与えられる」というのは思いがけない言葉だったと思います。次週はペンテコステ礼拝ですが、ペンテコステを先取りするような約束がここで与えられていたのです。

では聖霊を受けると、わたしたちはどうなるのでしょうか。「祈り」との関係ですぐに思い浮かぶのが、ローマの信徒への手紙の第8章14節以下の御言葉です。ここに「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」とあります。

聖霊を受けると、わたしたちは「神の子」となるというのです。「神の子」になるとどうなるのでしょう。イエス様のように、わたしたちの心はいつも神に向かうようになります。父なる神に向って「アッバ、父よ」と呼ぶことを喜べるように、神がさせてくださるのです。「父なる神」が、この祈りに耳を傾けてくださるという信頼の中で生きることができるようになります。

ここでのイエス様と弟子たちとの対話の発端は、「祈りを教えてください」で始まりました。するとイエス様は、たいせつな「主の祈り」を教えてくださいました。「主の祈り」ができるということは、イエス様と同じ祈りができるということです。それはそれで素晴らしいことですが、イエス様はそこにとどまらず、次から次へとよい物をくださって、最後には聖霊を与えると約束してくださいました。キリスト教は「待つ宗教だ」と言いましたが、来週のペンテコステまで待たなくてもイエス様が約束された聖霊は、わたしたちに与えられています。聖霊が与えられたことで教会が誕生し、今朝もわたしたちは教会に招かれています。聖霊に生きる人は希望を持って生きることができます。

なぜなら、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」