エゼキエル34章11~15節、ルカによる福音書 第15章1〜7節
「捜される神」 田口博之牧師

ルカによる福音書15章には、三つのたとえ話が記されています。羊飼いは見失った羊飼いを捜し、銀貨を無くした人は見つかるまで探し、放蕩息子の話では、出て行った息子が帰って来るのをじっと待つ父親の姿を語ります。そして、どれも見つかったものの大きな喜びを語っています。

ルカの連続説教をしていますが、正直な話し、12章の後半あたりから、13章から14章にかけて、説教しにくい箇所が多かったのです。わたしは地上に平和をもたらすために来たのではなく、分裂をもたらすために来た。先週も、家族を憎まなければ自分の弟子ではありえない、というイエス様の言葉が出てきました。連続ではなければ避けて通ったであろう聖書箇所でした。そういう箇所と向き合うことに連続講解説教をすることの意味があることは事実です。

それらと比べると、15章に出てくる三つのたとえは、たとえ話として分かりにくくはありません。情景が浮かびやすいところです。それほど言葉を加える必要はないと思います。ここでCS説教をお願いされても、そうは困らない方も多いと思います。だからといって、読んでのとおりですというわけには行かないことも事実です。むしろここに語られていることの豊かさをどう語ればよいのか、それが今朝、わたしに託された課題だということができます。

ルカによる福音書15章を称して、ここにルカの頂点があるという学者が多くいます。ここに大きな山がある。わたしたちは15章という素晴らしい山を登るために、険しい道を通ってきたと言ってもよいのです。登山が趣味という方がいらっしゃると思いますが、山頂からの景色は最高でしょう。ここまで登ってきたことの苦労が吹き飛ぶ気がします。ではわたしたちは、今朝どういう景色を見ることができるでしょうか。牧師の役割は登山の案内人だと言ってよいかもしれない。これまでこの物語を読んできて、自分が思っていたこととたいして変わらない。ありきたりの風景しか届けられないのであれば、それは退屈なガイドであって、いつしか皆さんの眠りを誘うことになりかねない。それでは、説教者としての務めを果たしたとはいえません。何だか話しながら自分を追い込んでいるようですが、そういう意味でも責任重大です。

さて、15章にある三つのたとえ話を読んでいくわけですが、さしずめアルプス縦走と言えるでしょうか。三つの頂を目指していくことになります。三つともマタイやマルコに並行記事を持たない、ルカ独自のたとえ話ということにも特徴があります。そのように言うと、いやそんなことはない。見失った羊のたとえは、マタイ福音書にもあるではないか。登山客からはそのような声が聞こえてきそうです。確かに今日のテキストは、マタイによる福音書18章10節以下と内容が似ています。けれども、文脈はまったくと言っていいほど異なっているのです。

ではどこが違うのか。マタイのテキストを一度読んでみますので、皆さんは今日のテキスト15章1~7節を開ける方は開いて、比較しながら聞いていただくと、違いが分かるかと思います。マタイ18章10節から14節です。

「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

マタイは小見出しも「迷い出た羊のたとえ」となっています。ルカの方はといえば、「見失った羊のたとえ」です。そこだけ読めば、マタイの方は、迷い出た羊の方に問題があり、ルカの方は、羊を見失った羊飼いに問題があるように思えます。さきほど歌った「ちいさいひつじが」の讃美歌に出てきたひつじはどうだったでしょう。ある日遠くへ遊びに行くと、花咲く野原の面白さに、帰る道を忘れてしまった。夜になってさびしくなり、家がこいしく泣いてしまうのですから、ちょっとおバカなひつじです。

しかし、皆さんの中で、幼い頃に自分が迷子になってしまったり、自分の子どもが迷子になってしまった経験をされた方がいらっしゃるかもしれません。子どもがというより、親が目を離してしまったから、迷子になることもあるわけです。どちらを主体に捕らえているかの違いです。

マタイによる福音書18章というのは、全体をとおしてイエス様が弟子たちに、牧会の心得を語っているところです。「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」で始まり、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」で結ばれています。このことを伝えるために、イエス様は、一匹の迷い出た羊飼いを捜しにいく羊飼いの姿をたとえとして語っているのです。

ところがこのルカのテキストでは、同じように捜しにいく羊飼いの姿をたとえとして語りながら、弟子たちに牧会上の心得を語っているのではりません。そもそも、ここには弟子たちは出てこないのです。その代わりに二つのグループが出てきます。一つは14章の終わりにあるように、イエス様の「聞く耳のある者は聞きなさい」と呼ぶ声に応えて、イエス様の話を聞こうと近寄って来た「徴税人や罪人たち」です。もう一つのグループは、その様子を見てイエス様に不平を言い出した「ファリサイ派の人々や律法学者たち」です。「そこで、イエスは次のたとえを話された」とありますから、二つのグループのうち後者の「ファリサイ派の人々や律法学者たち」に向って、イエス様はこのたとえを話し始めたことになります。しかし当然、最初のグループである「徴税人や罪人たち」も、聞く耳のある者としてイエス様の話を聞いているのです。

そこで問題となるのは、今ここにいるわたしたちは、この聖書の言葉を聞くどこで聞くのか、この聖書の場面のどこにいるのかということです。イエス様に救いを求めている「徴税人や罪人」として聞くのか。それとも、自分はもう救われていると思っている「ファリサイ派や律法学者」として聞くのか。いったいどちらなのか。あるいはここには出てこない、イエス様の弟子として聞くでしょうか。それとも、舞台を眺めている観客のような聞き方をするのでしょうか。一つには決められないところがあると思います。

聞き方は自由です。山登りの景色の話をしましたが、細かなところに入り込まず、全体を俯瞰するような見方、聞き方もあるでしぃう。マタイで語られていたように、イエス様の弟子として、教会から離れてしまった人がいたときにどうすればよいのか。今日は礼拝に続いて第一次総会を行いますが、総会案内の資料にグラフ化してあるように、教会に来られない方は一人どころか大勢いるのです。その方たちとどのようにコンタクトを取っていくのか。牧会の課題として聞くことは大事です。

しかし忘れてならないことは、イエス様は「ファリサイ派の人々や律法学者たち」に向かって語られているのですから、わたしたちも彼らの立場に身を置いて聞くことが求められているのです。つまり、わたしたちの中にあるファリサイ的根性と言ったらよいでしょうか。自分を正しいところにおいて、他者を批判してしまうような傲慢さがないだろうか。自分は教会のためにここまでしているのに、あの人はどうか。見失われている羊を心配するどころか、その問題性に目が行ってしまうことはないでしょうか。人は自分を裁く目を持つ人の心を見分けることができます。自分の中にあるファリサイ派的な問題性を見つめることを聖書は求めているのです。

ここに出てくる徴税人とは、ローマ帝国に納める税の徴収を請け負うユダヤ人のことです。徴税人はローマの手先であって彼ら自身も私腹を肥やしている。ユダヤの同胞からは憎しみを買っていました。しかし、イエスはそのような徴税人をも招かれたのです。徴税人マタイを十二使徒に取り立てました。エルサレムに入る直前のエリコでは、徴税人の頭であるザアカイを招かれたのです。

罪人とは、何か法に罰せられる罪を犯した人ばかりでなく、ファリサイ派の人々が、律法違犯だと取り決めた禁止事項を守れなかった人たちのことを言います。イエス様はその人たちを遠ざけたりせず、食事まで共にしていました。ファリサイ派の人々は、そんなイエスに納得がいかず、不平を言い始めています。そんな彼らに聞かせたのが、失われた一匹の羊のたとえ話でした。

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」この話を聞かせたイエス様の意図は、どこにあったのでしょうか。このイエス様の言葉をファリサイ派の人々はどう思ったでしょうか。

勘違いしてならないのは、見失った一匹の羊が、特別な羊ではなかったのだということです。見失われた一匹が他の羊であっても、この羊飼いは同じように捜されます。というのも、イエス様がこのたとえで伝えようとしているのは、一人の大切さだからです。十把一絡げではなく、わたしたち一人一人に神の眼差しが注がれているということです。その一匹を見つかるまで捜し回ったのは、この羊飼いはあと99匹もいるのだから、一匹くらいは仕方がないとは思わなかったのです。

傍観者的な見方もあると言いました。でも、そうなると人は理屈ぽく考えるのです。一匹を捜しに行った間、残りの九十九匹がどこかに行ってしまったら、この羊飼いはどうするのかと。確かに、この羊飼いは九十九匹を囲いの中に入れてはいないのです。「九十九匹を野原に残して」と書かれてあります。「野原に残して」とは、人の住んでない所という意味です。置き去りにしているのです。他の羊飼いに見張るように託したのではないか、そうに違いないと思いたくなるのですが、ルカはそのようなことは語っていません。

では、ここで語られていることは何でしょうか。それは、見失った一匹の羊に対する異常とも言えるほどの羊飼いの愛なのです。一匹でも失うことをよしとしない。どんな犠牲を払ってでも、一匹を見つけ出すまで捜し回る羊飼いの愛が語られています。その愛のゆえに、羊を見つけ出したときの異常とも言える喜びが語られているのです。「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」とあるとおりです。

讃美歌「ちいさいひつじが」の4節には、こういう歌詞がついていました。「とうとうやさしい 羊かいは、 まいごの羊を みつけました。 だかれてかえる この羊は、 よろこばしさに おどりました」。この讃美歌は、見つけてもらった羊の喜びが歌われたところで終わっています。嬉しかったに違いありません。しかし、ルカが語っているのは羊の喜びではなく、羊飼いの異常なまでの喜びを語るのです。その喜びが周りにどんどん広がっていく。この話を聞かせたファリサイ派や律法学者を、その喜びへと招いているのです。

この羊飼いは何者でしょうか。詩編23編「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と歌われているとおり、わたしたちの主なる神様です。今日もう一箇所読んだエゼキエル書34章、11節と12節をもう一度お読みします。

「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。」聖書は、そのような羊飼いの愛を語ることを通して、神の愛を告げているのです。わたしたちがルカ15章という大きな山から見る景色は、見失った一匹の羊を見つけるまで捜し回る神の愛です。この神の愛に生かされていることをわたしたちが知る、そこにこのたとえ話を、わたしたちの物語として聞くことが求められています。そして、この時の羊飼いの喜びを自分の喜びとすることが求められているのです。
「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

なぜ、ここで「悔い改め」について語られているのか、不思議に思われるかもしれません。悔い改める一人の罪人が、一匹の羊にたとえられていたのですが、この羊は悔い改めたから見つかったのか。残っていた99匹は悔い改める必要が無かったから野原に残されたのか。悔い改めるとは一体どういうことなのか、そんなことを考えさせられます。このことについては、二つ目の頂。次週8節から10節の「無くした銀貨のたとえ」のところで、お話したいと思います。羊が悔い改めるというのは不思議ですが、無くなった銀貨が悔い改めるというのであれば、それほど不思議な話はないからです。そのことが分からないと、今朝の山頂からの景色は、まだ雲に隠れた部分があるといえるでしょう。

しかし、雲というのは神の栄光を表します。今朝皆さんが、雲海を見ることができたならば、それもまた素晴らしいことです。神の素晴らしさは、わたしたちの目にはまだまだ隠されています。

わたしたちは、今日の聖書の中のどこにいるのかという話の中で、イエス様は「ファリサイ派の人々や律法学者」たちに向って語られたのだから、わたしたちも、そこに立って聞くべきとお話しました。そのことと共に、わたしたちこそが見つけられた一匹の羊であるということです。わたしたちは残された99匹の羊としてではなく、見いだされた一匹の羊たちとしてここに集められているのです。神に愛された一人一人が集まるところ。それが教会なのです。