聖書  ヨハネによる福音書1章18節、同17章25~26節
説教 日本基督教団信仰告白(4)「啓示される神」 田口博之牧師

日本基督教団信仰告白の第一段落は、聖書信仰から始まっています。聖書信仰について2回に分けて説教しましたが、そこで触れなかったのが、「キリストを証し」という言葉でした。第一段落の「旧新約聖書は・・・キリストを証し」と語られたことが、第二段落で、主イエス・キリストの啓示は、「聖書において証せらるる」と語っているのです。ここは同じことを別の言葉で語っているといえます。

聖書信仰に続く第二段落は、「主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ。御子は我ら罪人の救ひのために人となり、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖ひとなりたまへり」です。

この第二段落の前半「三位一体の神にていましたまふ」までは、わたしたちが信じる神が、「どのような神なのか」ということ。後半の「御子は」から「我らの贖ひとなりたまへり」までは、「神が何をしてくださったのか」が、語られているといえます。

今日はその前半部分を主題とします。一つの文章の内容をよく理解するためには、主語と述語が何かを抑えておくということが、文章を読み解く上での鉄則です。この段落の場合、前半部分の主語は「唯一の神は」であり、述語は「三位一体の神でいましたまふ」となります。

ところが、「唯一の神」が「三位一体の神」というのは、普通に考えるとわけの分からないことのように思えます。これは皆さんが、キリスト教の神はどういう神なのか聞かれたとしても、わかりやすく答えることは難しいということに通じます。日本の神社信仰はやおよろずの神、漢字で書けば八百万の神というほどの多神教であり、家内安全の神、商売繁盛の神、交通安全の神、学業の神、安産の神など、この神様はこの分野にご利益があるというような分業制となっています。その中にあって唯一の神というのは、ピント来にくいのです。しかも「唯一の神」と言いながら「三位一体の神」と言うのですから。

そのためにも、今日は主語となる「唯一の神」が、「主イエス・キリストによりて啓示せられ」かつ「聖書において証せらる」と言われていることに集中して考えたいと思いました。ここに「啓示」と「証」という二つの言葉が出てくることに気付かされます。実は、後で詳しく話しますが、「啓示」と「証」は切り離して考えることはできないのです。

「啓示」という言葉は、日ごろ使う言葉ではありません。ネット検索でいくつかの国語辞典の説明が出てくるのですが、最近ではAIの解答が先に出てときがあります。ここでは、「啓示」について、「人間の知恵では知り得ない真理や神秘を、神や超越的存在が人間に示すことを指し、宗教的文脈で多く用いられます」と出てきました。あまり分かりやすい説明とは言えません。むしろ、英語のrevelation「隠されていたものが明らかになる」という説明の方が分かりやすい気もします。今日は聖餐の用意がされており、今はパンと杯の入った器の上に布の覆いがかぶさっています。この中に何があるのかは、覆いが取り除かれてはじめて分かる。それが「啓示される」ということです。

神は、わたしたちの目には見ることはできないお方です。旧約の時代には神のみ顔を見ると死んでしまうと考えられていました。神という存在は分かっても、ベールに覆われていたのです。ですから旧約聖書では、神は雲の中に臨在すると考えられていました。

たとえば出エジプト記19章9節、ここは今から十戒が付与されるところですけれども、「主はモーセに言われた。『見よ、わたしは濃いの中にあってあなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞いて、いつまでもあなたを信じるようになるためである。』モーセは民の言葉を主に告げた」と書かれています。あるいは、同じ出エジプト記34章 5節では、「主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された」とあります。雲が神の栄光の象徴とも考えられていました。その目に見えない神が、「主イエス・キリストによりて啓示」されたのです。

そのことを明確に告げているのが、ヨハネによる福音書1章18節です。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」とあります。「父のふところにいる独り子である神」とは、イエス・キリストのことです。誰も見たことができなかった神を、目に見える形で示してくださったただひとりのお方が、イエス・キリストです。このことは何も神の姿形が明らかになったというだけではなく、神がどういうお方なのか、分からなかったその性質が明らかにされたということです。

よく唯一の神と言うけれども、旧約聖書は裁きの神で、新約聖書は愛の神だと言われる方がいます。確かに神の民イスラエルは、バビロン捕囚という裁きに逢いました。旧約の律法は、罪に対する厳しさが目につくように思われます。しかし、旧約聖書をよく読んでみると、そうばかりではなく、律法は弱い人や貧しい人の配慮に満ちていることがよく分かります。でも、そういうところはよく読まないと隠されています。ところが、イエス・キリストが神を啓示したことで、隠されていた神の性質の中の、愛の性質の部分が見える形で現わされたという言うことができます。

引用したヨハネによる福音書は、キリストのことを「父のふところにいる独り子なる神」と呼んでいます。「父のふところにいる」とは、小さな子どもがお父さんに抱かれている、そのようなイメージです。わたしがはじめての子を抱っこしようとしたとき、右腕でなく左腕で抱えるようにと教えられました。その方が、赤ちゃんはお腹の中で聞いていた心臓の音を聞けて安心するのだと。父なる神のふところに抱かれていたイエス・キリストは、神さまがどれほど愛と恵みに満ちたお方であるのかをご存知なのです。そのイエス様が人となってくださったことによって、ベールに包まれていた父なる神の性質が明らかになったのです。

 それが「主イエス・キリストによりて啓示せられ」ということです。では、神が啓示されたことがどうすれば分かるのでしょうか。それが続く「聖書において証せらる唯一の神は」という言葉に表されています。当たり前のような話ですが、キリストが神を啓示されたといっても、わたしたちは聖書の記述によってしか分からないのです。

このことは、わたしたちは「どうすれば神を知ることができるのか?」という問いに通じます。聖書を通さずして、知る方法があるでしょうか。わたしたちは、大自然に素晴らしい景色に触れたときに、天地を創造された神さまの偉大な業を感じることがあります。ところが、素晴らしいと思っていたその景色も天候一つで様変わりします。特に、地殻変動によって美しい山が噴火したり、津波が起こったりする。そこで命を亡くされる人があり、悲しみに暮れる人を目の当たりにすると、素晴らしいと思っていた神に疑いを持ってしまうことがないでしょうか。自然災害一つで疑いに変わってしまうような信仰が、果たしてキリスト教信仰だといえるでしょうか。それは自分の思いの中で、神を造り出してしまっていたとは言えないでしょうか。

あるいは、優れた芸術を通して、神の存在の神秘を感じさせてくれることもあります。スペインのバルセロナにあるサクラダファミリアがあります。建築開始から140年以上を経てイエスの塔が完成し、頂点には立体的な十字架が立ちました。テレビには、感動のあまり手を合わせて涙している方の姿が映っていました。その方は、きっと神を感じられたのではと思って見ていました。でも、あの建築を神が望まれていたかどうかは、わたしには分かりません。神の御心に沿う建築としてよき礼拝がささげられることを祈るしかないのです。

わたしたちは、素晴らしい体験や、時に試練を通して、神との出会いを感じるときがあります。でも、そういう体験によって、本当に神を知ることができるのでしょうか。むしろ、そのような体験による神認識は、偶像礼拝につながることはないでしょうか。人間の側からではなく、キリストが啓示してくださらなければ、まことの神を知ることはできないのです。そのキリストを証するのが聖書です。ヨハネによる福音書5章39節で、イエス・キリストはこう言われています。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」と。教団信仰告白の第一段落で、「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し」と言われているとおりです。

今日はもう一箇所、ヨハネによる福音書17章25、26節を読みました。ここはイエス様が十字架へと向かわれる直前の送別説教に続いて行った送別の祈りの最後の部分です。「正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」とあります。

ここでいう「わたし」とはイエス・キリストご自身であり、「あなた」とは父なる神のことです。「この人々」とか、「彼ら」と言われているのは、目の前にいる弟子たちのことであり、後の時代に教会につながるわたしたちも含まれます。この祈りは聖書を通して、イエス・キリストと神が一つであることを知った者たちに向かって、彼らもまた神と一つとなる交わりの中で生きてゆくことができるようにと、イエスさまは執り成してくださっているのです。

啓示というのは徹底して神から来る出来事です。神の啓示がなければ、人間の力だけで神を知ることはできません。「主イエス・キリストによりて啓示せられ」とはそういうことです。神がお送りくださったキリスト以外に神を知ることはできません。そこに神の大いなる恵みがあります。

聖餐もまた神の啓示です。洗礼を受けた者たちが、キリストにあって一つとされている恵みを、信仰をもって味わうのが聖餐です。聖餐を受ける時、生けるキリストとの出会いがあります。洗礼を受けておられない方は、パンと杯を取るのを控えていただきますが、信仰がなくしてこれを取ったとしても、ただの一かけらのパン切れであり、一口のぶどう液としか受けとめることができません。しかし信仰者にとっては、パンを取って食べ、杯をいただく時にキリストの恵み深さを知り、啓示されたキリストご自身が、私たちの身に宿っていただく時となります。どうか洗礼への招きの時として聖餐式の時を過ごしてくださればと願っています。

啓示ということについて、最後にカール・バルトの理解を紹介したいと思います。バルトは、「啓示とは神がイエス・キリストにおいてご自身を与えられる出来事である」と強調し、聖書はその啓示を証言する使徒・預言者の証言として理解しました。バルトは啓示について考えるとき、証と告白という二つの概念と関連させて考えないと、理解するのは不可能だと語っています。この「啓示・証・告白」と言う三つの概念を「戦場」での譬えによって試みています。この譬えは、わたしにとって大変刺激的なものでしたので紹介したいと思います。バルトは次のように言うのです。

啓示というのは、(人生の)戦場において、「敵」(人間ではなく、人間と交渉する相手)が、圧倒的な優勢をもって、先手を打って、攻撃に移った。この出来事が人間に対する神の啓示である。(つまり、啓示を戦場での敵の攻撃にたとえているのです)

 この敵と直面せねばならない最前線の部隊から、前線のすぐ背後に待機している増援部隊に、この攻撃の事実について(迅速正確に)報告が来る。この敵によってすでに攻撃された部隊が「預言者・使徒」であり、増援部隊にもたれもたらされた報告が「聖書」である。この報告(すなわち証)の到着により、後方部隊は、立ち上がり、武器を取り、集結し、前進する。

この後方部隊が、聖書に聞く教会である。教会は使徒と預言者の立っている最前線へと急ぐように呼び出されている。それが告白する教会である。

バルト神学が「危機神学」と呼ばれるゆえんも、ここにあります。「戦場」という比喩は驚きを覚えるものですが、その背景には第一次世界大戦後の混乱と、第二次世界大戦へと向かうヨーロッパの切迫した現実がありました。しかし、この比喩が伝えようとしているのは単に戦争ではなく、「神の啓示は、人間が考え出した思想ではなく、神の側から始まる決定的な出来事である」ということです。預言者と使徒は、神の啓示の出来事の証人となり、その証言が聖書として教会に伝えられたのです。

神はキリストにおいてご自身を啓示されました。聖書はそのキリストを証ししています。そして教会は、その証を聞いて「イエス・キリストは主です」と告白する群れです。「我らは信じかつ告白す」で始まる日本基督教団信仰告白は、まさにその教会共同体の告白です。わたしたちの教会も、この啓示と聖書の証言に耳を傾け、「イエス・キリストは主である」と告白して歩んでゆくのです。