コリントの信徒への手紙二10章7~11節
「何を見て判断するのか」 田口博之牧師
かつて『人は見た目が9割』という新書がベストセラーになりました。わたしはその本のタイトルしか知りませんが、「人は見た目が9割」と言われて、「なるほど、そうだよな」とうなずく方は少なくないのではと思います。その人の第一印象、表情、髪型、服装、ちょっとした仕草、まさに見た目によって、その人への評価の大半が決まってしまう。どれだけ素晴らしい経歴の持ち主でも、一瞬でこの人は鼻持ちならないと、距離を置きたくなる人もいます。ビジネスの世界では、名刺交換する段階で勝負は決まっているとも言われます。心理学に「初頭効果」という用語がありますが、人は第一印象に大きく引きずられる心理的特性を持っています。
パウロの見た目がどうだったか、聖書には何も書かれていないので分かりません。前にもお話しましたが、絵画で見るパウロは、頭は薄く描かれていることが多いです。でもそれは、ヘレニズム期の賢者の特徴だと言われています。それでも、パウロの病気という特性からも、好印象を与える人ではなかったことは想像できます。とは言っても、見た目のことは分からないのです。ただし、パウロが書く手紙と、会った印象とにギャップがあったことは事実のようです。それは今日のテキストでいえば、 10節にある鍵括弧の「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」という言葉によく表れています。
パウロは、コリントの信徒たちを手紙によって導こうとしました。確かに手紙というのは、時にその人以上の価値を受け手に抱かせることもあります。「一握の砂」、「悲しき玩具」の歌人として知られる石川啄木がいます。26歳の若さで貧しく死んだ啄木ですが、彼の文学の真骨頂は日記や手紙に表されています。とりわけ手紙は500通以上残されています。文学的才能のみならず、誤解されやすかった啄木という人間性を知る貴重な資料として、研究者の間で注目されています。
コリントの信徒への手紙はパウロの手紙の一つですが。他の書簡と比べてパウロという人の人間味が伝わってきます。でもわたしたちは、この手紙からパウロの人となりを読み取るのではなく、パウロという一人の人間が書いた手紙を、神の言葉としています。それがわたしたちの信仰です。
今月からわたしたちの信仰を問い直すべく、月の第一聖日に日本基督教団信仰告白を学ぶこととしました。次月3月の第一聖日の礼拝では、教団信仰告白の第一箇条にある聖書信仰です。「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり」という言葉は、たとえ手紙であろうが、詩であろうが、神がその人に霊感を与えて書かせたことにおいて、神の言葉です。さらに「されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与うる神の言にして」という告白が続きます。この信仰に立って、わたしたちはパウロが書いた手紙も、神の言葉として聴くのです。同じように、牧師という一人の人が語る説教も、神の言葉として聴く。この信仰がなければ、礼拝で説教を聞く意味もなくなってしまいます。
さて、神の言葉として読むパウロの手紙について、「手紙は重々しく力強い」という感想は的を射ていると言えるでしょうか。「が、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」という言葉についてはどうでしょう。パウロは手紙で想像していた人とはかなり違って、会って見るとがっかりだった。そんなことを想像するかもしれません。でもコリントの信徒たちは、手紙よりも先にパウロと会っているのです。パウロは、コリントの地で開拓伝道し、別の伝道地へ旅立った後で、手紙によってコリントの信徒たちを牧会していました。そう考えると、10節の鍵括弧の言葉は、パウロは本物の使徒ではないとする批判者たちのパウロのことを揶揄する言葉であったに違いないことが分かります。彼らは何としてでも、パウロの評判を落として、陥れようとしたのです。これに弁明するかのようにパウロは11節で言います。「そのような者は心得ておくがよい。離れていて手紙で書くわたしたちと、その場に居合わせてふるまうわたしたちとに変わりはありません」と。
それでも、コリントの信徒たちの中には、パウロ批判をする人たちの言葉を真に受けてしまって、10章1節にあるように、「あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る」と、彼らの揶揄する言葉に影響されてしまう人がいたのです。パウロのどこを見てそう言ったのでしょうか。パウロはこのような人たちに向かって、7節です。「あなたがたは、うわべのことだけ見ています」と諭すのです。
この「うわべのことだけ見ています」という言葉について、新しい聖書協会共同訳では、「目の前の事柄を見なさい」と訳しています。「見ています」と訳されている言葉は、原文では「見なさい」という命令形で書かれているのです。そこをきちんと見ないで、批判する人の言葉を真に受けて判断するのは、その人の本当の姿を見ていないことになります。パウロのうわべだけしか見ていないので、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」という話になってきます。
その上で「自分がキリストのものだと信じきっている人がいれば、その人は、自分と同じくわたしたちもキリストのものであることを、もう一度考えてみるがよい」という言葉が続きます。キリスト者(クリスチャン)は、「キリストのもの」とされた人です。もはや自分が主ではなく、キリストこそ主としている人です。でも、ほんとにそう信じているのか、もう一度考えてみなさいと言っているのです。
コリントの第一の手紙1章を読むと、パウロが離れてからのコリント教会には、いろんな党派ができていたことが分かります。「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」と言うように。あげくその中には「わたしはキリストにつく」と言っている人がいたのです。
「自分がキリストのものだと信じきっている人」というのは、「わたしはキリストにつく」と言っている人たちのことだと考えることができます。その人たちの中には、生前のイエス・キリストに出会ったとか、自分の近い人がキリストの教えを聞いたことを誇りとして、「わたしはキリストにつく」とか、「キリストのもの」と言っていたのかもしれません。その人たちからみれば、直接キリストの教えを受けていないパウロなど、使徒と認めることはできません。この人たちが、パウロ批判を扇動したのです。そして、この人たちの言葉を真に受けてしまった信徒たちが多かったのです。
そのように考えていくと、「あなたがたは、うわべのことだけ見ています」という言葉は、パウロのうわべしか見ていないという意味ばかりでなく、自分がキリストのものだと信じきって、パウロ批判に徹している人のうわべしか見ていない。そういう意味で考えた方がよさそうです。彼らはいったいどんな人たちなのか。そもそも、キリストの名を用いて、党派争いの優位に立とうとしていること自体おかしなことです。彼らの信仰は、どういうものなのか、惑わされないようにしなさい、どうすれば、本質を見抜くことができるのか、「もう一度考えてみるがよい」と言うのです。
「よく考える」というのは、神の御前で考えるということです。神の御前で考えるとは、黙想がそうであり、祈りもそうだと言えます。神の御前に考えることがなければ、目に見えることや、他人の意見や溢れる情報に振り回されるしかなくなり、思考停止状態に陥ることになります。
今日は衆議院選挙の日です。解散から選挙まで16日間という、これまでにない短期決戦となりました。政教分離の原則がありますので、教会の中で固有の政党名や人の名を挙げて推すことはしませんが、キリスト者は政治に無関心ではいけないので、責任を持って投票に行っていただきたいと思います。わたし自身、おそらくですが、選挙に行かなかったことは、一度もなかったように思います。投票するときには、よく考えてしてきたつもりです。
でも、今回の選挙は、よく考えれば考えるほど、どうすればよいのか迷っています。いきなり衆議院を解散して、特に選挙する必要がないと思っていた選挙だから、行く必要がないという考えは違っているでしょうが、選挙を拒否して選挙そのものを無効にする、そんな権利があってもよいのではないか、そんなことも考えてしまいました。近年、新聞社やテレビ局は、選挙のマッチングアプリなるものを作って、それがネットに出ています。経済、人権、防衛、教育・社会保障、環境問題など、自分の考えとどの政党の政策が合っているのかアプリが判断します。面白いと思ってやってみると、「えっ、ここには投票しないよ」と思う政党とマッチすることがあります。愛知1区で選択すると、投票するならこの人かなと思う人とのマッチ度が低く出たりします。そうすると、政党が問題なのではなく、自分の考えが優柔不断なのではないかと複雑な思いにもなっています。悩ましいなと思いつつ、もう一度考えて票を投じたいですし、皆さんにもそうしていただきたいと思っています。
ここでパウロが、「もう一度考えてみるがよい」と言ったのは、「キリストのものである」ということは何かということです。自分がキリストのものであるということを考えるときに、自分を主人としていきていないか、神の御前で、自分を見つめ直すことができます。客観的に自分を見つめることも大切なことですが、自分自身を神の御前に置くことがより大切です。そのとき、神が自分に何を望んでいるかを見つめることができます。選挙もそうだと思うのです。イエス・キリストであればどう考えるかという視点から考えてみたとき、自分が神学者になっていることを気づくものです。
うわべだけで判断してはいけないと思えば、自ずと物事の本質をしっかり見つめねばと思うでしょう。それは、他者をどう見るかということだけではなく、自分が神の御前にどう生きているのかを見つめることになります。そのようにして自分を見つめるときに、あの人のことをとやかく言うのは、実に愚かなことだと気が付きます。「人の振り見て我が振り直せ」と言いますが、自分の欠点は、他人の欠点を見ることで、同じことをしていると気づき、ここを改めねばと考えることが大事です。自分が神に愛されているように、あの人も神に愛されている人だと思えた時に、その人を批判的に見ていたことを恥ずかしく思えます。神の御前に立つときに、互いに励まし合うことができるようになります。
パウロは8節で「あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために主がわたしたちに授けてくださった権威について、わたしがいささか誇りすぎたとしても、恥にはならないでしょう」と言っています。正直言って、回りくどい言葉だという印象です。神の言葉を回りくどいと言うのも問題がありですが、そういう言葉があるからこそ、説教で説き明かす役割が、牧師、説教者には与えられているとも言えます。
それにしても、8節には権威とか誇りという言葉が出てきますが、これらはとてもやっかいな言葉です。人は権威に弱いです。また誤った誇りを持つことがあります。でもそれは、権威や誇りということを正しく理解していないからです。パウロはどういう意図で、権威とか誇りという言葉を使ったのでしょうか。パウロにとっての大きな問題は、自分が正しく見られていないということで、神から授けられている権威が軽んじられているということでした。
この場合の権威という言葉は、当たり前のことですが、偉そうにして相手を威圧することではなく、教会を造り上げる権威のことです。造り上げるという言葉(オイコドメオー)は、家を意味する「オイコス」に由来します。それは、建築家が家を建てるというときに用いられる言葉です。教会を造り上げるというのは、教会建築の話ではなく、教会が神の生ける家族として成長していくことを言います。
オイコドメオー=造り上げるという言葉は、コリントの信徒への手紙一の14章(317p)の3節から5節の間だけでも4度出てきます。「しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています」とあります。
ここでは、預言と異言との対比の中で語られていますが、預言の言葉、これは説教と言いかえてもよいですが、異言と比べて分かるという話だけでなく、「人を造り上げ、励まし、慰める」言葉となります。それゆえに「教会を造り上げる」のだと言うのです。教会が神の言葉によって、愛の共同体として成長していくということです。パウロは、神の言葉を語るために遣わされた人の権威を重んじて欲しいというのです。
このことは、説教を語る牧師自身も問われていることです。自分は一人の人間に過ぎないのだから、そんな権威はないと言っている方が気楽なのです。でも、そんな思いを持ってしまったら、教会を造り上げる言葉が語れるはずありません。伝道者にとって大切なことは、御言葉を語るために神に召されていることに誇りを持つということです。神の言葉に仕える権威をキリストから委ねられていることは、誇りとせねばならないのです。この誇りがなければ、牧師をする資格はありません。同時に、この牧師の説教を聞く教会員も、この牧師が自分たちの教会を造り上げるために遣わされた人として重んじていく。たとえ、その人に問題があったとしても、その人の背後に働かれるキリストを見ることが大事です。それができれば、牧師のために祈ることができます。できなければ、うわべしか見ていないことになっているのです。
教区議長をしていた頃、遣わされた牧師を重んじて欲しいと就任式でよく話していました。でも、そのたびごとに、このようなことを語っているあなたは何者なのかと、主から問われている思いでした。権威など捨て去って、教会の皆と仲良くやった方がどれほど楽なのか分かりません。でもそれでは、キリストの教会を造り上げることはできないのです。
パウロは、自分を批判する人々に対して、自分は権威を授かっており、そのことを「いささか誇りすぎたとしても、恥にはならないでしょう」と言いました。今は聖書が述べるような使徒は存在しませんが、神はいつの時代でも教会の中に権威を立てておられます。牧師もそうですし、長老もそうです。それは、教会がキリストの体として造り上げられるために必要なものだからです。その権威が正しく行使される時に、教会は健やかであることができ、確実に前進することができるのです。
