イザヤ書11章12節、 ローマの信徒への手紙10章9~10節
日本基督教団信仰告白(1)「わたしたちの信仰」 田口博之牧師
先月行われた全体集会でお話をしたように、第1聖日の礼拝に合わせて日本基督教団信仰告白を主題とした説教をすることにいたしました。新年度の計画に出してスタートしたのでいいかなと思いつつ、すでに第1聖日の礼拝で告白しています。もったいぶる必要はないと思い、さっそく2月から始めようと思いましました。なぜそのように思ったのか、ことの経緯を少しお話したいと思います。
わたしが名古屋教会の牧師として着任した2016年、礼拝で日本基督教団信仰告白を告白するのは洗礼式が行われる礼拝だけでした。当時は、普段の礼拝で使徒信条も唱えてはいなかったのです。それはどうなのかなという思いを持ちながら2年が過ぎました。そして、2019年度の第一次総会において、教会の目標(大綱)として、教会創立100周年の時に生まれた「植村正久三精神の今日的展開」、すなわち「生けるキリスト信仰、開かれた教会、小さき者と共に」を確認すると共に、「教会再建のための三本柱」を掲げました。それが「①礼拝の充実と礼拝出席、②正しい信仰の確立、③伝道を喜びとする」でした。その後「再建」は成されたと判断し、「教会再建のための三本柱」を「信仰の四本柱」とし、文言も若干変わりましたが、「②正しい信仰の確立、③伝道を喜びとする」はそのままとしています。
その「②正しい信仰の確立」の説明として、第一次総会案内の中に「自分は何を信じて救われたのか、救いの確信を持つことが必要です。2019年度より、礼拝で「使徒信条」を唱えることとし、信仰の土台となるものを週ごとに確かめていきます」と記しました。それで2019年4月から使徒信条を唱えるようになり、同時に5月第1聖日の創立135周年記念礼拝の日から、聖餐式を行う礼拝でも日本基督教団信仰告白を唱えることとしました。聖餐には、洗礼を受けている恵みを確かめるという意味があるからです。また洗礼式、あるいは転入会式の誓約の中で、「あなたは聖書に基づき、日本基督教団信仰告白に言いあらわされた信仰を告白しますか」という問いがあります。そこで「告白します」と誓約をしたのに、告白しないまま信仰生活をするとすれば、神の御前に不誠実だと思ったからです。
ところが、その後しばらく経ってから行われた牧師と話をする会で、「使徒信条はいいけれど、日本基督教団信仰告白は長い」という発言がありました。自分の思いを正直に述べてくださったことは感謝ですし、その思いは分からなくはないと思いました。不思議に思っいたことは、使徒信条は礼拝で唱えていなかったとはいえ、ほとんどの教会員は使徒信条を知っていて、空で唱えている方も多かったのです。ところが、日本基督教団信仰告白については、確かに長いと感じている様子が伺えました。長いと思う理由は二つあると思います。一つは単純に使徒信条と比べて長い。もう一つは、意味がよく分からないからです。説教もそうですが、分からければ長く感じるものです。
それで、長老会だよりの空いたスペースに日本基督教団信仰告白解説文を書くようにしました。そして、一緒に唱えるよりも、わたしが朗読するようにして、ファイルにある言葉を読みながら聞いていただく方が意味もつかみやすいのではと思い、それは今も続いています。今はその段階だと思います。でも、信仰告白には、賛美告白という意味がありますので、讃美歌が聞いているだけではないように、一緒に声を合わせて唱えた方がいいに決まっています。そのためには、意味が分かった方がいいのです。そうしなければ、「長い」と思いながら唱えることになってしまいます。
実は説教の準備をする中で、日本基督教団信仰告白の成立にいたる経緯を書き始めていました。でも、それだけでかなりの時間を要すると思い、それは取りやめました。内容からしても、礼拝以外のとき、全体集会か、あるいは別の機会を設けてお話するほうがいいだろうと思いました。名古屋教会が創立150周年を迎えるべく、将来計画を立てるに際して、これまでの歴史、過去のことを振り返る時が必要だと思っています。なぜ、植村三精神なのか。また、名古屋教会は、1941年に日本基督教団が成立する前は、日本基督教会名古屋教会でした。その前身、設立時は日本基督一致教会名古屋教会でしたが、それぞれに信仰告白を持っていました。日本基督教団信仰告白が成立したのは、教団ができて13年後の1954年ですが、その前史があるのです。そのことを知るだけでも、教会のこれからのことを考えていく上で必要なことだと考えています。
さて、前段が長くなっていますが、「わたしたちの信仰」という説教題でお話する今日の主題は、日本基督教団信仰告白冒頭の「我らは信じかつ告白す」の部分です。したがって、まだ前段です。ただし「我らは信じかつ告白す」という言葉は、具体的に何を信じかつ告白するのか、様々なことを思い巡らす一文です。ここを深掘りすることで、わたしたちの信仰とは何か、わたしたちは一体何を信じているのか。わたしたちが属している日本基督教団という教会が、どういう教会なのかが明らかになっていきます。
これはとても大切なことで、信仰の自由とも関りがあります。奇妙に思われるかもしれませんが、わたし自身の実体験として、日本基督教団信仰告白を知ったときに、信仰の自由を得たと思いました。そのようなことをいうと、信仰とはこういうものだと決めつけるような信仰告白というのは、信仰の自由ではなく、信仰を拘束し、不自由にするものではと思う人がいるかもしれません。事実、教団信仰告白を重んじることにアレルギーを感じる人たちは、教条主義に陥っているという批判するのです。
でもどうでしょうか。皆さんの中で、「あなたはクリスチャンだよね、何を信じているの?」と問われたとき、これを信じているという明確な言葉を持てているでしょうか。ただ「神様を信じている」とか、「イエス・キリストを信じている」という答えしか出てこないとすれば、どこか頼りなく答えた気にならないと思います。そういう不確かな信仰は不自由です。信仰の自由は、何を信じてもいい、それは個人の自由だからという考えもありますが、むしろ確固たる信仰に立つ時に与えられます。自分はこれを信じている。だから救われている。その確信は、信仰の喜びに通じます。救いの確信を持てるときに、自由になるのです。
「何を信じていいますか」と問われれば、「日本基督教団信仰告白に言い表されていることを信じている」と答えればよいのです。それが一番の伝道となります。聖書信仰に始まる日本基督教団信仰告白の内容をよく知ることを通して、自分が何を拠りどころとして生きているのかが明確になります。信仰の土台が築かれますから、異端的な教えに惑わされることがなくなります。結果、信仰の自由を得ることができるのです。
日本基督教団信仰告白の大きな特徴は、使徒信条との二部構成になっているということです。それで使徒信条に入る前の部分を「前文」と呼ぶことがありますが、それは本文の前ということではありません。本文より前文の方が長いのもおかしなことです。では、どういう呼び方が適切なのか、、、今日のところは、前半の告白文と後半の使徒信条という区別をしたいと思いますが、始まりのところで二つの違いがあることに気づかされます。
一つは、後半の使徒信条が「我は」と単数形で始まっているのに対して、前半の告白文が「我らは」と複数形で始まっているということです。もう一つは使徒信条が「我は信ず」であるのに対して、前半は「我らは信じかつ告白す」で始まっていることです。
使徒信条が、なぜ「我は信ず」で始まっているかというと、2世紀頃のローマ教会で用いられた洗礼式文から発展したという歴史的な理由があります。古代教会の洗礼式において「全能の父である神を信じますか。」「信じます。」「その独り子、われらの主イエス・キリストを信じますか。」「信じます。」「聖なる教会の中で聖霊を信じますか。」「信じます。」といった誓約が交わされていました。洗礼を受けるのは個人ですから、信じる主体も、当然「我は」となります。
これに対して、前半の告白文が、「我らは」と複数形で始まるのは、教会共同体の告白として考えられたことによります。「我らは」という言葉には、教会に連なる兄弟姉妹が、声を合わせて告白するという目的が含まれます。またそれゆえに「信じかつ告白す」なのです。信じるだけではなく告白するからこそ、「信条」ではなく、「信仰告白」と呼ばれるのです。
今日の聖書テキストとして、ローマの信徒への手紙の10章9節以下を選ばせていただきました。この9節と10節は、「我らは信じかつ告白す」という始まりの一文と響き合っています。ここには、キリスト教信仰の真髄ともいえる内容が語られています。9節と10節を読みます。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」
ここで語られていることは、まさに「信じかつ告白す」です。「義とされ」とは、神様に正しいと認められるということですから、「人は心で信じて義とされ」とは、「信じる者は救われる」ということです。それで十分なはずなのですが、パウロは言葉を重ねて、「口で公に言い表して救われるのです」と言うのです。「公に言い表す」とは「告白する」ということです。信仰とは、ただ「信じる」というだけでなく、「信じかつ告白する」ものです。そうするときに、「救い」が決定的となるのだと言われているのです。
では、具体的に何を信じ、何を告白すれば救われるというのでしょうか。日本基督教団信仰告白は色々な言葉で語っていくことになるのですが、このテキストは、それらを総括しています。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたがたは救われるからです」とある通りです。
人間の常識では、人は死んだら終わりです。何年生きようが、どんな素晴らしい一生を過ごそうが、最後は死で終わってしまう。死で終わりというなら、最終的に残った「死が勝利者」となってしまいます。ところが、「神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら」ば、話は違ってきます。最後に勝ち残ったと思われていた死は、イエス・キリストが復活されたことで滅ぼされたのです。わたしたちが「信じかつ告白す」救いとは、死に打ち勝つ救いです。
人は素晴らしいこと、驚くべきことを知れば黙ってはおられなくなります。死が終わりではない、死の先に復活の命がある。これほどのことを、ただ心で信じるだけで収めておくことはできません。信じる者は洗礼を受け、「口でイエスは主であると公に言い表す」者とされるのです。キリスト教信仰は、静的でなく動的なものとなります。信仰を告白するということが救いを宣べ伝える。伝道への源泉となります。
信仰告白を表すギリシア語は「ホモロゲイン」という言葉ですが、「ホモ」は「同じ」を意味し、「ロゲオー」は「語る」を意味します。ゆえにわたしたちは、同じ信仰の言葉を言い表します。信仰告白の言葉というのは、自分が信じていることを主張する言葉ではなく、2千年の教会の歴史を通して受け継がれた公の信仰の言葉となります。「神がイエスを死者の中から復活させられた」ことを信じ、「イエスは主である」という同一の信仰を言い表すのです。
ですから、信仰告白の主語が、「我は」ではなく、「我らは」となることは必然です。11節以下も続けて読んでみます。「聖書にも、『主を信じる者は、だれも失望することがない』と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。」 この約束に支えられて、わたしたちは「主の名を呼ぶ」のです。信じているのは一人ではありません。共に「主の名を呼ぶ」ことで、互いに支え合う信仰の旅を共に歩んでゆくのです。
エジプトを出たイスラエルの民は40年間荒れ野をさ迷いましたが、バラバラになることはありませんでした。それができたのは、12の部族ごとにまとまって行動したからです。なぜそれができたのか、民数記2章 34節には「イスラエルの人々は、すべて主がモーセに命じられたとおりに行い、それぞれの旗の下に宿営し、またそれぞれ氏族ごとに、家系に従って行進した」と書かれてあります。12の部族が、家系の印を描いた旗を作り、その旗の下に一つになって宿営し、行進したからこそ、こぼれることなく約束の地カナンに入ることができたのです。
戦国時代、最強の騎馬隊と称された武田信玄の軍は、「風林火山」の旗の下に一つになりました。ライバル上杉謙信は「毘」という旗を掲げましたが、毘沙門天から来ています。それぞれの兵士たちが旗の下に一つとなり戦いました。教会のシンボルは十字架ですが、それは旗印と呼んでもいいでしょう。建物の上でも、また壁でも、そこに十字架が掲げられていれば、そこはキリスト教会だとわかります。わたしたちは今朝も、十字架の御旗のもとに集められました。
そして教会には、信仰告白というもう一つの旗印があります。わたしたちは、同じ主を信じ、同じ主の御名を呼ぶことによって、一つの民とされます。旧約のテキストとしたイザヤ書11章12節、旧約の1078頁ですけれども、こうあります。「主は諸国の民に向かって旗印を掲げ 地の四方の果てから、イスラエルの追放されていた者を引き寄せ ユダの散らされていた者を集められる。」また同じ11章10節には、「その日が来ればエッサイの根は すべての民の旗印として立てられ 国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く」とあります。
散らされた民を集める旗印は、エッサイの根より生いいでたるダビデの子、イエス・キリストだとイザヤは預言したのです。わたしたちも、キリストの十字架の旗印のもとに集められ、日本基督教団信仰告白のもとに一つとなって、我らは「神がイエスを死者の中から復活させられたと信じ」かつ「イエスは主である」と公に告白するのです。そうすれば「あなたがたは救われるからです」という確かな約束が与えられています。これほど心強いことはありません。
わたし一人の信仰は弱くても、確かな信仰の御旗のもとに集められて、何を信じているのかを言い表す強くされます。わたしたち自身ではあく、わたしたちが信じるお方が確かだからです。イスラエルの民は、一つの旗のもとに集まって約束の地に入ることができました。わたしたちは、確かなる信仰の告白をたずさえて、共に神の国への旅を続けてゆくのです。
