イザヤ書42章1~4節 コリントの信徒への手紙10章1~6節
「神に由来する力」 田口博之牧師

コリントの信徒への手紙二を読んできましたが、アドベント以降、間が空いて2カ月ぶりになります。礼拝に続けて出席していた方でも、2か月前のことになると忘れてしまうと思いますが、前の8章と9章は、エルサレム教会への募金の勧めだったと言えば、思い出すことでしょう。

もう少しさかのぼると、パウロとコリントの信徒たちとの間の信頼関係が失われていたことが書かれてありました。コリントの信徒たちが、パウロを敵視する人たちの言葉を真に受けていたからです。でもパウロは、コリント教会の牧会者として、関係が悪いままで放置することはできません。心を尽くして祈り、手紙を書くことでコリントの信徒たちが悔い改め、交わりが回復します。信頼が回復したという土台ができたからこそ、募金活動も再開できたわけです。

しかし今日のテキストでは、「さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが」という言葉で始まっています。信頼関係は再び揺らいでいるように思えます。両者の間に緊張関係のることは、2節「勇敢に立ち向かう」とか、4節「戦いの武器」という言葉、5節「あらゆる高慢を打ち倒し」、6節「すべての不従順を罰する」など、対決姿勢が露わになっていることが分かります。これでは募金活動どころではありません。

そこで考えられることは、この10章以下というのは、両者の関係が悪かった時に書かれた手紙だったのではないかということです。これまでにも、コリントの信徒への手紙二は、複数の手紙から成っているのではという話をしてきました。これは聖書学の研究成果に基づく考え方ですけれども、何も学説を紹介したいわけではなく、丁寧に読んでいると確かにそう思えるのです。

ところが、聖書の一言一句、誤りなき神の言葉と強く主張する神学者からすれば、コリントの信徒への手紙二をいくつもの手紙に分けてしまという考え方は、自由主義神学の弊害と批判されます。

最近「福音派」という言葉がトレンドになっています。これは今のアメリカの大統領を支持しているのが、アメリカの福音派であり、アメリカの政治を読み解く上で、「福音派とは何か」がクローズアップされているためです。アメリカはキリスト教国と言われながら、憲法に政教分離を明示した最初の近代国家です。ところが近年、民主党の支持母体は、リベラルなキリスト教主流派、他方共和党は保守的なキリスト教福音派だという色分けが色濃くなっています。

その福音派の特質の第一は、何も自国ファーストではなく、聖書を神の言葉だと信じているということにあります。その信じ方の度合いにも幅がありますが、福音派の中で保守的と見なされている学者も、このコリントの信徒への手紙二の1章から9章と、10章から13章は別の手紙だと解釈しています。それほど、9章と10章との間には断絶があるということです。またその人たちの中にも、10章以下は1章から9章よりも先に書かれたのか、この聖書の順番通りに後で書かれたのか、そこでも議論が分かれています。先に書かれたと主張する人たちは、2章4節に「わたしは、悩みと思いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました」という言葉が出ていましたが、今日読んでいる10章以下がその手紙だというのです。わたしは、波の手紙は現存しないと説教で話ましたが、確かにパウロは涙ながらに書いたと思える部分が、いくつか出てくるのです。

しかし、複数の手紙があり、先か後かという問題は残るにせよ、わたしたちが手にしている聖書、これは世界の国の聖書も同様ですけれども、今日の箇所は第二の手紙の9章に続く10章であり、その順に読んでいることは、抑えておきたいと思うのです。どういうことかといえば、パウロとコリントの信徒たちは和解したはずだけれど、わだかまりが完全にとけてはいなかったということです。

わたしたちの人間関係でも、和解したはずなのに、実のところ和解できていないことを知る場面に出くわすことがあります。3節に「わたしたちは肉において歩んでいます」という言葉があります。信仰が与えられて新しくされたと思っていても、肉において歩んでいる限り、もやもやっとしたものは残り続けます。パウロとコリントの信徒たちが、和解したといっても、パウロに対する不信を抱えたままの人が少なからずいたとしても、不思議ではありません。

では、その人たちが、パウロをどのように思っていたのかといえば、「面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る」ということです。これは、後に出てくる10章10節の言葉、「わたしのことを、『手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない』という者たちがいる」という言葉にも通じます。おそらくパウロは、そういう印象を与える人だったと思います。

わたし自身も、その人と会って話したときの印象と、その人が書いた文章のギャップに驚くことがあります。体つきはいかついけれど、実に繊細な文章を書かれる方がいます。これほどに強気なことを書く人が、こんなに気の弱い人だったのかと驚いたこともあります。「人は見た目が9割」とか、「第一印象が大切」と言われますが、パウロの場合、出会ったときに期待外れだと思わせる人ではなかったでしょうか。

聖書研究会の中で、モーセが神と顔と顔とを合わせて語り合うという場面がありましたが、そのときにイエス様の顔の話にもなりました。西洋の絵画に出てくるイエス様は、白い衣を着て、髪も長く、髭も蓄えており、どの絵も気品に満ちています。聖書にはイエス様の顔や身体的な特徴には触れていませんので、想像するしかないことなのですが、この絵の中にイエス様がいるけれどもどこにいると聞かれたときに、皆が同じ人を指さすのではないでしょうか。

でもその絵の中にパウロがいたとしても、パウロを探すのは用意ではありません。イメージしにくいのです。試しにインターネットで、「使徒パウロ 顔」で検索をかけてみると、パウロの肖像画がいくつか出てきました。実に様々でしたが、痩せ気味で髪の毛が薄いパウロが多かったです。イエス様ほどイケメンに描かれることはないのです。

この手紙の受取人であるコリントの人々の多くも、パウロの見た目は冴えないことを知っていました。でも大事なのはパウロのビジュアルではなく、そう見られていたパウロが、コリントの人々にどういう態度を取ったのかということです。今日のテキストのポイントもそこにあります。対立していますが、その人たちと対決したのかどうなのかということです。

パウロは1節後半でこう言っています。「このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。わたしたちのことを肉に従って歩んでいると見なしている者たちに対しては、勇敢に立ち向かうつもりです。わたしがそちらに行くときには、そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っています。」どういうことでしょう。パウロは怒っていたはずなのです。ところが「キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います」と言って怒りを押さえています。この「優しさ」という言葉は、柔和とも訳せます。柔和という言葉を聞いて思い出す言葉があります。その言葉とは、今日の礼拝招詞とした。マタイによる福音書11章28節、29節です。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」これに30節の「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」という言葉が続きます。

パウロがこの言葉を知っていたかどうかは定かではありません。でも、かつてキリスト者を迫害していた頃、よみがえりのイエス・キリストと出会いました。あのときキリストは、「なぜわたしを迫害するのか」と問われましたが、責めることはしませんでした。パウロは、キリストの柔和、優しさの中でこそ、回心できたのです。この出会いが決定的となったパウロは、キリストのように柔和であることを言動の基準にしたのです。自分を非難する相手に対しても、キリストの優しさと心の広さとをもって対処したいと願ったのです。

その姿に、イザヤ書42章の主の僕を思い起こします。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」とあります。愛知県庁や名古屋市役所に近く、隣に自民党のある名古屋教会では、礼拝中に街宣車からの叫びが聞こえてくることがよくあります。大義なき衆院選が始まったことで、誇大な自己宣伝の言葉が響くことになります。でも、イザヤが預言した主の僕は、「叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」のです。キリスト教会では、この僕こそが、イエスの預言だと解釈しますが、イエス様もまた、民衆の前で大声を張り上げて説教することはなかったのです。

3節に「傷ついた葦を折ることなく」とあります。パスカルは、「人間は一本の葦にすぎない。自然のうちで最も弱いものである」と言いました。葦は細くて弱い植物ですが、ここでは「傷んだ葦」とありますので、さらに弱い状態になっています。イエス様は、そのような弱くて、心が折れそうな人たちを思いやり、優しく接しました。くすぶる灯心を消さないような細やかな配慮で向き合われました。

この主の僕は、イザヤ書の53章において、苦難と死を経験します。イザヤ書53章を読むと、イエス・キリストの十字架の苦難と死が語られているのではと思わされます。パウロもまた、イエス様の軛を負いました。主の僕と、イエス様と、パウロは1本の線でつながっています。パウロは自分のことを、「肉に従って歩んでいると見なしている者たちに対しては、勇敢に立ち向かうつもりです」と言いつつも、「わたしがそちらに行くときには、そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っています」と言いました。敵対者は「離れていると強硬な態度に出る」と言ってパウロを非難しましたが、そのようなことはありませんでした。いつも柔和で、強硬な態度を取らなかったがために、面と向かっては弱腰に見えたのです。

そんなパウロが心していたことは、「わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません」ということでした。ここに、「肉において」と「肉に従って」という似た言葉が出てきますが、パウロはこの二つの言葉を明確に区別して使っています。イエス様が人となられたことを「受肉」と言います。イエス様は、わたしたちと同じく肉を取られたので、神の子でありながら肉において歩まれました。でも、肉に従うことはありませんでした。肉に従うとは、神に逆らい、罪に生きるということです。罪に支配された生き方はなさらなかったのです。パウロもそうでした。

肉に従って戦うとすれば、その戦いは人を傷つけます。戦争というのは、罪にまみれた肉と肉との戦いです。一つ間違えば、何十万いや何百万人もの人の命を一気に奪える核という兵器が世界には溢れています。核を持つことが悲惨な戦争を起こさないための抑止力となっているという考え方が正しいとされています。でもそれは、圧力、脅しでしかなく、そこからまことの平和は実現しません。

では、パウロは全く戦わなかったのか、武器を持たなかったのかといえば、そんなことはないのです。「わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります」とパウロは言います。肉に従っては戦うことはないけれど、神に従って、神に由来する力をもって戦うというのです。戦い方が違うのです。イエス様がエルサレムに入城したとき、軍馬に乗ってではなく、子ろばに乗って、柔和な王として来られたことが、そのことを表しています。

神に由来する力とは何か。パウロは神に由来する武器について、エフェソの信徒への手紙6章10節以下で述べています。359頁です。6章13節から18節を読みます。

「13だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 14立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、 15平和の福音を告げる準備を履物としなさい。 16なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。 17また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。 18どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」

これらの武具を身に着けないで悪と戦うことはできないのです。神を拠りとしない武器、人の手による武器で悪と戦うことはできません。それらの武器を持って戦ったとしても、傷つけあうだけです。パウロは、そのような争いはしませんが、何もせずに放置することもしません。パウロは自分を陥れる人に敵対するのでなく、人を惑わす悪の力、諸々の霊に目を向けて、それゆえに神の武具を身に着けたのです。イエス様が悪霊に取りつかれた人ではなく悪霊と戦われたように。その勢力に対抗するには、神に由来する力が必要です。

エフェソの信徒への手紙にある神の武具は、およそ武器らしいものではありませんが、これが武器だと言うのです。要するに、戦いの武器となるものは、信仰によって身につくものなのです。それでわたしたちは、礼拝を中心とした信仰生活を続けていくのです。人の目からすれば、キリスト教を信じている人たち、神の力により頼んでしか生きられない人というのは。弱くて、愚かな人にしか見えないかもしれません。しかしパウロは、その武器を持つことで、「要塞をも破壊するに足りる」と言うのです。

この世的には無力のように見えたとしても、「わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています」と言うのです。

敵対者たちが非難したとおり、パウロは見た目には弱々しく見えました。しかし、その弱さの中に、強力な神の力が働きました。12章8節にある「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」という言葉も、今日の流れの中にある言葉です。弱さの中でこそ十分に発揮される力とは、神に由来する力です。神が働かれる時に、それは要塞を破壊する力があるのです。

自分の力、力を持つ人を頼りに生きていう限り、神に従って生きることはできません。神は、ご自身に拠り頼む生き方をする人を喜ばれ、そういう人を用いられます。パウロがそうであったように、弱々しいとして見下されたり、非難されたりすることがあるかもしれません。しかし、神に由来する力を拠りどころとし、神の武具を身に着けて戦う者にこそ、死にさえ打ち勝つことのできる本当の勝利が約束されています。