2026.1.18
聖書 エレミヤ書29章10~14節 ローマの信徒への手紙 8章24~25節
説教 「希望の約束」田口博之牧師
ユーバージョンという聖書アプリがあります。パソコンやスマホで読めるということでわたしも愛用していますが、年末にその年の聖句を発表しています。シャア数、ブックマーク数、ハイライト数でどの聖句が一番多かったかで判断しているようです。第一位は二年連続で、イザヤ書41章10節、「恐れることはない。わたしはあなたと共にいる神」でした。この言葉が二年続けて多くの人に選ばれたという事実は、私たちがどれほど不安や恐れを抱えながら日々を生きているかを物語っているのではないでしょうか。
次に人気があったのが、エレミヤ書29章11節の言葉です。
「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」 この言葉もまた、先の見えない状況の中で。神は本当にわたしの人生を導いておられるのか?この先に希望があるのか?と問い続ける人々の祈りに答える御言葉だと思います。そしてこの聖句は、今日の全体集会「名古屋教会の将来像」の主題聖句として選ばれたものです。その意味で、全体集会で話し合われることを方向付けする御言葉だといってよいでしょう。
このエレミヤ書の言葉を聞いて明らかなのは、わたしたちにとって災いだと思えることがあったとしても、主のご計画はそうではなく、平和の計画だということです。そして、先が見えない、絶望しかないと思えたとしても、将来と希望を与えるというのです。驚くべき言葉です。
この言葉は、預言者エレミヤが、バビロンに捕囚された民に書き送った「エレミヤの手紙」と呼ばれるところの一部です。エレミヤの手紙は、前のページ29章1節から始まっています。エレミヤがこの手紙を書いたのは、紀元前598年にあった第一次バビロン捕囚の数年後だと考えられています。
一般的にバビロン捕囚と呼ばれるのは、紀元前586年、エルサレムが陥落し、ユダが滅亡したときの第二次バビロン捕囚です。エレミヤがこの手紙を書いた第一次捕囚後は、バビロンへの強制移住は一時的なものであり、捕囚民もまもなく帰還できるという楽観論がはびこっていました。バビロンにいる職業預言者と呼ばれる人々が、たとえば28章に出てくるハナンヤは、2年で戻れると預言しました。それを聞いた民は淡い期待を抱き、2年だけ我慢すればと浮足立った生活をしていました。それに対しエレミヤは、地に足を付けた生活をするように勧め、29章10節で「バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す」と書き送ったのです。
エレミヤから手紙を受け取った人々はどう思ったでしょうか。捕囚からの解放は約束されています。ところが、故国に帰ることができるのは、70年後だというのです。ということは、自分たちはエルサレムに帰ることができない。帰還できるのは、子や孫の世代です。エレミヤも個人としては、捕囚の早期解放を望んでいたはずです。しかし、エレミヤは自分の考えを述べたのではありません。29章1節には、以下に記すのは、エレミヤが捕囚民に書き送った手紙の文面であると書かれてあり、手紙本文は、4節「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる」で始まっています。エレミヤは、聞く人にとっては耳障りな言葉であることを知りつつも、主から授かった言葉を語りました。
エレミヤは捕囚の民に対して、バビロンにしっかり住み着き、家族をもうけて、その土地で繁栄するようにと。また、その町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。偽りの預言者や占い師たちにだまされてはいけないと言い、その上で70年後にあなたたちを連れ帰ると約束し、「それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」と語るのです。
70年という途方もなく長く思える年月に、神の計画があったのです。実際に、ペルシャ王キュロスの勅令により、捕囚の民が帰還するまでには、70年の年月を要しました。この間に、なぜこのようになったのかを問い、神の御心を聴き直した人々がいました。実は旧約聖書のかなりの部分は捕囚期に編纂されます。失意の中から想像力に満ちた詩編が編まれました。父祖からの伝承が再解釈されて、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記という律法の多くがまとめられました。
バビロニアには神殿がありませんので、かつてのような祭儀中心の礼拝はできません。しかし、いくつかの会堂が建てられ、神の言葉を中心とした礼拝共同体が生まれました。どのような場所にいて、どのような状況におかれたとしても、神がご自分の民を見捨てることは決してないことを知ったのです。
2020年の今頃、新型コロナウィルスが感染症の問題が起こりました。2月末には、当時の安部首相が、学校の一斉休校を命じ、4月になると緊急事態宣言が発令されました。教会も同様しました。多くの教会で集まっての礼拝が難しくなっていた頃、東京神学大学の芳賀力学長は、「教会のコロナ捕囚」という言葉を使いました。「今は耐える時である。やがて必ず捕囚の時は終わる」。「礼拝の喜びが来ることを確信して、それをじっと待ち望むべきなのである」と。
名古屋教会は、緊急事態宣言が出ている間も礼拝を続けました。もちろんその間も、全員マスク着用、讃美歌もオルガン演奏だけ、1節だけ、小声で歌う、座ったまま歌うなど、感染対策に気を配りながら行いました。代務をしている桃山教会は、ようやく讃美歌を3曲歌うようになりましたが、今も座ったままです。
コロナ蔓延中にオンライン礼拝を始めた教会があります。非常事態ということで、主には牧会的配慮で始めたことでしたが、そこに新たな伝道展開を見出し、YouTubeやSNSを用いての配信を始めた教会があります。これを一時的なこととした教会も、なくてはならないものとして続けている教会もあります。名古屋教会のLINE礼拝も、ささやかではありますが、オンライン礼拝の一つです。物理的に礼拝に集えないけれど、LINE礼拝を通して教会につながっている方がいます。午後の全体集会の発題には含みませんでしたが、「名古屋教会の将来像」を考える中で、オンライン礼拝のあり方についても考えてよいかもしれません。でも、そのときに大切なことは、教会とは何か、礼拝とは何かをよく考えないと、方法論にばかり話が終始してしまいます。
エレミヤは14節で、「わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる」と、捕囚からの解放を約束しました。そのとおり、紀元前537年、捕囚の民はエルサレムに帰還しました。しかし、エレミヤの手紙を受け取った人々が連れ戻されたのではなく、帰還できたのは、子どもや孫の世代でした。
だからこそ、主は言われたのです。29章4節以下、「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない」と。
人口が増えることで、力が付くことは間違いありません。日本でも人口が増えている地域は元気です。逆に減っている地方を過疎地と呼んでいましたが、近年、限界集落と言い方もされるようになりました。65歳以上の住民が人口の半数以上だと限界集落だそうです。教会はどうなるのかと言われば、こんな失礼な話はありません。
今の日本でより深刻なのは少子化問題です。特に多くの私立大学は経営危機に瀕しています。一番の理由は、教育の質の問題ではなく、学則定員に足りていないからです。定員を満たして大学を維持していくためには、学生の質が落ちても仕方がないというジレンマに陥っています。しかし、18歳人口は年々減り続けている今、目先の変革で、生き残ることはできません。人口を増やせというエレミヤの言葉が響きます。確かに、世界経済でインドが元気いいと言われるのは、人口が増えているからです。年内には15億人を超えるでしょう。10億人を超えたのは1998年。すごい勢いです。やはり数はあなどれません。
教会はどうでしょう。新年礼拝で田中先生は、「教会は姥捨て山ではありません」と冗談半分に言われましたが、限界集落でもありません。しかし教会員が減っていることは実感しています。昔はCSも大勢いた。青年会も活発だった。でも、それを懐かしんだり、今はいないと嘆いたりしても仕方のないことです。また人数が減れば、教会が持続できないということはありません。それは教会の強さといって良いと思います。でも、名古屋教会の礼拝が、20人か30人となっても、それでいのかという問題はあります。
エレミヤは、「そちらで人口を増やし、減らしてはならない」と言いましたが、わたしたちはこの御言葉を、「教会員を増やし、減らしてはならない」という意味で聞くのでしょうか。そのように聞いたとしても、それは教会を持続可能にするためではありません。目的は教会の維持ではなく、多くの人々を救いに導くためです。地上から、神の民の数を増やし、減らしてはならないのです。そのためには伝道し、礼拝する教会が必要です。危機感をあおる必要はありませんが、楽観論も禁物です。
もし、職業預言者たちが言ったように、2年で帰還できるという言葉に期待し続けていれば、イスラエルの民はどうなったでしょうか。それが適えられずい絶望し、人口を増やすことができなかった民は、バビロンの暮らしに慣れきったまま滅ぶしかなかったのです。幸いなことは、捕囚の民がエレミヤの手紙を主の御言葉と聞き取り、神の民のアイデンティティーを維持することができたことです。
神の民のアイデンティティーの一つが祈りです。彼らはバビロンの平安を求め、バビロンのために主に祈りました。やがてその平安は自分たちに返ってきました。12節以下を読みます。「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。」この主の約束は70年後に実現し、彼らの子や孫たちは、神の民としてのアイデンティティーを受け継いで、エルサレムに帰還する時がやってきました。
教会はコロナ捕囚を経験しましたが、あのとき教会は、当たり前にできていたことの有難さを知りました。それは、礼拝と交わりの大切さを知る時でもありました。そして、SNSのように時代の恩恵といいながらも、それを活用するすべも知りました。特に日本基督教団は、Zoom会議の恩恵により、一時的とはいえ、財政危機を乗り越きりました。イノベーションは加速度的に発展し、AIも自分には関係ないと思っている人がいるでしょうが、今はインターネット検索をすると、AIが答えることも増えています。
そのような時代の中で、教会がどうなっていくかは分かりません。2010年頃、日本基督教団では2030年には、4分の1の教会が消滅するだろうと言われました。現時点で3%くらいにとどまっているので、そこまでは行かないと思いますが、現住陪餐会員の数は現時点で4分の1減っているのです。名古屋教会では、その比率はもっと大きいです。しかし、だからといって、悲観的になる必要ありません。施設面は年々古くなっていきますし、財政面の課題もあります。でも、弱さを抱える時にこそ、わたしたちの主は強く働いてくださいます。そのことを信じ、主に希望を持って祈る時に、主はわたしたちが何をすべいかを示してくださいます。
今日の新約のテキスト、パウロはローマの信徒への手紙の中で、「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」と言いました。パウロがローマ信徒への手紙を執筆したのも、福音を信じて生きようとするローマの信徒たちを偽預言者たちが惑わしているという状況の中で、惑わされることなく、正しい信仰に立つことを願って書き送ったものです。エレミヤの手紙と響きあっています。
捕囚の民が、困難の中にあっても「将来と希望を与えるもの」という主の約束に押し出されて新しく生き始めたように、ローマの信徒たちが、「希望によって救われている」という御言葉に励まされたように、わたしたちも、望みをもって名古屋教会の将来を見つめていきたいと思います。神がわたしたちに何を望んでいるのか、御心を尋ね求めつつ、教会員として何をなすべきなのか。その第一歩を踏み出せるような全体集会になりますように。
