聖書 ヨブ記19章1~29節、 ヨハネによる福音書9章1~3節
説教 「ヨブ記にみる苦難の意味」田口博之牧師
今朝はヨブ記を取り上げることとしました。3週前の礼拝に出られた方は、讃美歌「どんなときでも」のお話をしたことを覚えておれると思います。そのときのメインのテキストは第二コリントの6章でしたが、ヨブ記2章6節から10節も朗読しました。説教でヨブ記に触れたのは僅かだったのですが、礼拝後に行われた「牧師と話をする会」では、「ヨブ記は難しい」など、ヨブ記の話をされる方が何人かいらしたのです。ヨブ記に関心をお持ちの方が多いことを知りました。ちょうど9月の礼拝予定を考えるタイミングでしたので、第1聖日にヨブ記を取り上げてみようと思いました。
前任地では、聖研祈祷会とは別に月に一度、信徒の聖書研究会がありました。毎月1章ずつですと、1年で12章読むことができます。旧約もいくつか学んだのですが、その中にはヨブ記も含まれていて、3年半かけて読み通しました。ところが月に1章ずつだと、どうしても話が断片化されてしまうのです。そのとき、ヨブ記は全体を俯瞰しないと、ヨブ記とは何かを知るのは難しいと思いました。そのこともあて、先週の聖研の時間で、ヨブ記緒論として全体を通した話をしたのですが、それは出席者の予習というよりもわたし自身の準備のためでした。
皆さんの中で、ヨブ記は分かりにくいと言いながらも、話として理解しやすいのは、ヨブが苦難を受けた1章と2章だろうと思います。ヨブはその二度の苦難を受け止めます。とりわけ次の二つの御言葉はヨブ記の中でも珠玉の言葉と言えます。
一つは、自分の財産が奪われ、自分の子どもたちも失ったときの言葉。1章21節、22節の「『わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。』このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。」
もう一つは、ヨブ自身が皮膚病に犯された時です。2章9節と10節、「彼の妻は、『どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう』と言ったが、10ヨブは答えた。『お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。』このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。」
この二つのヨブの言葉は、わたしたちの心を打ちます。苦難を受け止めるヨブの信仰がよくあらわされており、ヨブ記はここで完結すればよいのではとさえ思います。ところが、1章と2章ではヨブ記のさわりしか読んでいないこといなります。というのも、ヨブ記の構造の話をすれば、1章と2章は序論に過ぎず、本論が始まるのは3章以下です。聖書を開いていただくと分かると思いますが、1,2章は散文体といって物語調で書かれていますが、3章からは詩編のように詩文体で書かれてあります。この詩文体の本論は、実に42章6節まで続くのです。そして42章7節からの結びは1,2章と同じく散文体に戻ります。では、ヨブ記の結論が42章7節以下に書かれてあるかといえば、そうではありません。言葉は悪いですが、ここは取って付けたような話なのです。
ではヨブ記の中心はどこかといえば、本論にあたる3章から42章6節の中にあるとしか言えないのです。序論と結論の部分は、枠物語とも言われますが、ヨブ記がどういう話なのかを読者が分かりやすいように物語化している。そういう位置づけであり、極端に言えば、本来のヨブ記は3章から42章6節までだと考えていい。これは今日の準備で与えられたわたし自身の暫定的結論です。
ヨブ記の主題は、「正しい人がなぜ苦しみに遭うのか」です。これは伝統的な「因果応報」の考え方と衝突します。良いことをした人には良い報いがあり、悪いことをした人には悪い報いがあるという考え方を因果応報と言います。苦難を受けたヨブを訪ねた3人の友人たちはここに立っています。ヨブは罪を犯したから酷い苦難を受けている。だから悔い改めよと説得します。ところがヨブは、自分は罪を犯していないと言う。それでは苦しみの原因が因果応報とはなりません。3人も譲れないので議論が延々と続くのです。
因果応報という言葉自体は仏教的な言葉ですが、思想自体は古くから現代にいたるまで広く受け入れられています。しかし、ヨブ記に限らず、聖書は明確に因果応報を否定しています。このことを明確に言い表したのが、ヨハネによる福音書9章3節のイエス様のお言葉です。9章1節から3節をもう一度読んでみます。
「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
弟子たちがこのように問うたのは、この人が生まれつき目の見えないのは、本人か両親が何か悪いことをしたことの報いを受けているとしか考えられなかった。つまり苦難の理由を因果応報とする伝統的理解に立っていたのです。でも、そういう考え方は何か違うのではという思いもあって、イエス様に尋ねたのでしょう。そこでのイエス様の答えが、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」という驚くべきものでした。
ヨブ記の場合、因果応報論に立つ3人の友人は、ヨブには罰を受ける理由があると決めつけています。ヨブ記においては前世の罪は問われていないように思われますが、ヨブの息子、娘たちが死んでしまったわけですから、やはりヨブに問題があるということになります。しかし、ヨブは「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」と、はじめに紹介されています。また主ご自身が、これは主がサタンに語った言葉ですけれども、1章8節、2章3節の二度にわたって、「お前はわたしの僕ヨブ」に気付いたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」と語っています。主なる神ご自身が、そのようにヨブを評価しておられるのですから、因果応報論の入り込む余地がないのです。
では、なぜヨブが苦難を負うことになったのか。因果応報でなければ、ヨブに問題はなかったことになり、そうなると神に問題あるのではという話になる。これもわたしたちがよく考えることです。突然の災害により多くの人たちが被災したり、罪もない子どもたちが戦争の犠牲となるにつれ、わたしたちは思うでしょう。「どうして神はこのようなことを赦されるのか」と。この世界で起こる悲惨な出来事を見るにつけ、「なぜ神はしてくれないのか」と考えてしまう。こうした問いかけを、「神義論」と言います。神義論とは、「全能で善なる神が存在するにもかかわらず、なぜこの世界に悪が存在するのか」という問題を論じるものです。ヨブ記は、神義論にも踏み込んでいます。
確かに、主なる神がサタンの挑発に乗って、ヨブを苦しめてよいかという申し出を受けなければ、ヨブが苦しむこともなかったわけですから、神に問題ありです。でも、わたしたちは、神のなされることには意味があるだろうと考えます。そのときに、サタン自身が因果応報論に立っていたことを理解する必要があります。サタンは、ヨブが「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」と神は言うけれども、そこには理由がある。つまり、ヨブは幸せに生きたいから罪を犯さないようにしているだけ。自分に不幸なことが起これば、神を呪い、信仰もなくす筈だ。そのように告発したのです。
サタンというと悪魔の親分のようなイメージを持つと思いますが、ここでのサタンは、神の使いたちが集まる天上の会議に参加資格を得ています。教会の会議でも、教区や教団の総会では、執行部のすることに対して問題提起をする人がいます。ここに登場するサタンについても、問題提起者という受け止め方で良いと思います。気前の良い神は、サタンの意見を聞いてしまうのです。
神の赦しを得たサタンは1章で、次々とヨブの財産を奪い、最後には息子、娘たちの命まで取ってしまいます。それでも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯すこともありませんでした。するとサタンは引き下がらず、ヨブ自身に災難をもたらしていかと神に許可を求めます。神は「お前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな」という条件を出して、サタンの訴えを受け入れたのです。それはヨブを信頼していたことの裏返しですけれども、ヨブは頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかかってしまいます。「素焼きのかけらで体中をかきむしった」とありますので、「汚れた人」と見なされる重度の皮膚病だったと考えてよいでしょう。
そこへ、ヨブの災難の一部始終を聞いた三人の友人たちがヨブを見舞い慰めるために来ました。わたしたちはどこかで、三人の訪問のせいでヨブの心が乱れてしまったのだと思っているところがありますが、彼らはヨブの傍らにいて、話しかけることもなくヨブの嘆きを共にします。彼らはよきカウンセラーでした。序論でそういう説明があって、3章の本論に入りますが、そこで最初に口を開いたのはヨブなのです。つまりヨブ記そのものはヨブの嘆きから始まっているのです。
3章以下のヨブ記本論では、因果応報か否かの応酬が続きます。なぜ苦しみが起こるのか、わたしたちも問いたくなります。答えを知りたくて読んでいても、ヨブと三人の友人たちと度重なる議論では答えは見つかりません。この議論にうんざりしたエリフという若者が32章で登場します。エリフは神の正しさを主張し、苦難には人格形成という意味があるなど、新しい意味づけをします。わたしは初め「エリフはいいことを言う」と思っていましたが、エリフへの評価はヨブ記に出てきません。エリフは読者の代表です。満を持すかのように38章で神が口を開きます。ところが神も、ヨブに天地創造の世界を見せるだけで、なぜ苦しみに遭うのかという直接の答えを述べてはいないのです。それでも、神の答えにヨブは納得しています。天地創造の御業を見せられたヨブは、自分の小ささを自覚し、自分には理解しきれない領域があることを知ったのです。
42章5節6節、「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し 自分を退け、悔い改めます。」これは素晴らしいヨブの信仰告白です。
わたしは今日のテキストを選ぶにあたり、42章1~6節としてよいかと考えつつ、そこだけでは、ヨブの苦しみを知ることはできない。せめて1章を通して読む必要があると考えました。そこで取り上げたのが19章です。それは、ヨブ記を通して読んだときに、わたしが最も心打たれたのが、19章25節「わたしは知っている わたしを贖う方は生きておられ ついには塵の上に立たれるであろう」であること。そして、なぜこの言葉が紡ぎ出すに至ったのか、ヨブの心の動きを皆さんと分かち合いたかったからです。
わたしが読む限り、ヨブの苛立ちは19章でピークに来ています。
「ヨブは答えた。どこまであなたたちはわたしの魂を苦しめ 言葉をもってわたしを打ち砕くのか。
侮辱はもうこれで十分だ。 わたしを虐げて恥ずかしくないのか。
わたしが過ちを犯したのが事実だとしても その過ちはわたし個人にとどまるのみだ。
ところが、あなたたちは わたしの受けている辱めを誇張して 論難しようとする。」
苛立ったヨブの矛先は神に向かいます。
「神はわたしの道をふさいで通らせず 行く手に暗黒を置かれた。
わたしの名誉を奪い 頭から冠を取り去られた。四方から攻められてわたしは消え去る。
木であるかのように 希望は根こそぎにされてしまった。
神はわたしに向かって怒りを燃やし わたしを敵とされる。」
ここでヨブは神が敵となっているのだと述べています。13節以下では、身近にいる人をも自分を攻める軍勢として用いていると神を告発し、そして21節では、「憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ 神の手がわたしに触れたのだ。あなたたちはわたしの友ではないか」と友人に助けを求めています。弱さを見せたことによって、ヨブの心は次第に溶けていき、23、24節で、自分の言葉が永遠に刻まれることを望んでいます。このヨブの願いは聞かれ、ヨブ記として残されました。
そして25節で、ヨブ記の頂点と呼んでもよい言葉が生まれます。
「わたしは知っている わたしを贖う方は生きておられ
ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも
この身をもって わたしは神を仰ぎ見るであろう。」
「わたしを贖う方」とあります。ここだけで、贖う方を、贖い主であるキリストと結びつけることは短絡的かもしれません。しかし「生きておられ」とは、死ぬことのない方という意味の言葉です。「塵の上に立たれる」とは、死んだ人が「塵に帰る」という考え方からしても、贖い主は、死後の陰府においてなお生きてられ、「この身をもって わたしは神を仰ぎ見るであろう」とヨブは言うのです。旧約のメシア預言的性格からしても、ヨブは苦難のただ中にあって、贖い主であり、よみがえりのキリストを仰ぎ見たと解釈することは、決して極端ではないと確信しています。
カール・バルトという神学者は、「ヨブは、その苦しみや嘆きにおいて、ゲツセマネとゴルゴダの苦しみと嘆きを引き受け給うたイエス・キリストの証人である」。「ヨブを真実の証人であるイエス・キリストの証人として語ることが赦されるであろう」と述べています。ここでもヨブ記の奥深さをみることができます。
わたしたちは苦難に直面したとき、「なぜこのようなことが」と考えるでしょう。これをヨブ記から考えるとすれば、ヨブがそうしたように苦難の意味を問うことは赦されます。しかし三人の友人がそうだったように、誰かが被った苦難の意味を外から問うたとしても、それは余計なことです。わたしたちの知恵で納得できるとすれば因果応報論しかなく、これを否定すれば、神が悪いと、神に責任を押し付けるしかなくなってしまうのです。でもヨブ記は、これに否と答えています。
わたしたちがヨブ記から知るべきことは、人間には苦難の理由を含めて、知り得ないことがたくさんあるのだということです。しかし、ヨブが苦難の中から贖い主と出会い、神との関係が再構築されたこと、苦しみと嘆きにおいてキリストの証人となったことを知るならば、それ以上に望むことがあるでしょうか。
聖書は過去ではなく未来志向です。イエス様が因果応報論を否定し、「神のみ業がこの人に現れるためである」と言われたことが、そのことを表しています。苦難は望ましいことではありませんが、一粒の麦が地に落ちたことで多くの実を結ぶように、苦難を通して忍耐を学び、人格が陶冶されるなどの実りが与えられることも、わたしたちは経験します。ヨブ記は、わたしたちの小ささと謙遜であることを教えます。言葉数を少なくしたときに神の思いが聞こえてきます。そこから神との新しい関係を築くことができるのです。