聖書 コリントの信徒への手紙二 7章5節~16節②
説教 「御心に適った悲しみと世の悲しみ」田口博之牧師
皆さんの中で先週の礼拝に出席された方の中には、わたしの聖書朗読を聞いて、「あれ、ここは先週も読んだところではないか。田口牧師は先週ここで説教したことを忘れてしまったのか」と、心配してくださった方がいらっしゃるかもしれません。でも大丈夫です。説教の中で、来週もう一度同じ個所で説教するという話をしましたし、週報でも予告していました。
ここはとても内容の濃いところなので、2回に分けることにしました。5節には「マケドニア州に着いたとき」のパウロの思いが語られています。「わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです」と。いや、マケドニアに旅立つ前にトロアスの地で伝道していましたが、そこでコリントに派遣していた弟子のテトスと会う約束をし、コリント教会の様子を聞こうとしていました。ところが、どれだけ待ってもテトスは来ないのです。トロアスでは、パウロから福音を聞きたい人であふれているのに、パウロはテトスのことが気になって伝道どころではない。それで居ても立ってもおられなくなり、マケドニアに向かいました。パウロの人間味が溢れるところですが、あえて言わなくてもいいような弱い部分を、包み隠さず語っているところに、改めて聖書の面白さを感じています。
6節に「しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました」とあります。「気落ちした者を力づけてくださる神」というのも、面白い表現だと思います。わたしも祈る時に「天の父なる神」とか「全能の神」などいろんな呼び方をしていますが、「気落ちした者を力づけてくださる神」と呼んだことはありません。でも、わたしたちの神様はまさに「気落ちした者を力づけてくださる神」です。この「力づけてくださる」は「慰めてくださる」と訳すことができます。新しい聖書協会訳では「慰めてくださる神は・・・慰めてくださいました」と、言葉を重ねていました。
しかし、慰めるとか、力づけるということは、口で言うほど簡単なことではありません。つい先日のことですが、「がんが見つかった」とメールをくださった方がいました。その方は、力づけてもらいたい、そんな思いをもってのメールだと感じました。そのときに、どんな言葉で返せばよいのか、ほんとうに悩みます。今、幼稚園では運動会の練習まっさかりですが、子どもたちにとって「がんばれー」はパワーワードとなります。子どもたちは、がんばれと言われると、そのとおりがんばるのです。
でも、がんになった方にはどうなのか。牧師になる前のことですが、頑張れは禁句だと言われたことがあります。もう頑張ることはできないのだからと。それもあって、わたしは「がんばれ」と言ったことはありません。けれども、人によっては、また状況によっては「がんばって」と言われることで、あきらめず希望を持てる人がいるのではと思うのです。メールをいただいてから何時間も考えましたが、返す言葉が出てきませんでした。そういうときに、人を慰めることの難しさを知ります。考えているうちに、何か月か前にも、別の方から同様のメールをもらったこと、その時には電話したことを思い出して、今回も同じようにしました。それもまた勇気のいることでしたが、電話したことでその方が抱えている思いを聞くことができました。こちらが何を言おうかと考えるよりも先に、話を聞いた上で言葉を交わすことができ、よかったと思いました。そこで気づいたことは、その人にとって、自分ががんであることを誰かに打ち明ける。自分のことを知っている人がいることこそが、慰めになったのではないかと。
パウロの場合は、テトスの到着によって慰められましたが、ここを読むと、テトスがパウロを慰めたわけではないのです。「しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました」とあるように、慰め手は神です。7節には、「テトスが来てくれたことによってだけではなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、そうしてくださったのです。つまり、あなたがたがわたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ、わたしに対して熱心であることを彼が伝えてくれたので、わたしはいっそう喜んだのです。」とあります。
実のところパウロは、テトスがコリントの教会から慰めを受けたことを知ったことで慰められたのです。コリントの信徒たちがパウロのことを慕っており、パウロのために嘆き悲しんでもいて、パウロに対して熱心、すなわち熱い思いを持っていることをテトスから聞いたからです。パウロとコリント教会はいい関係とはいえず、パウロはコリントの信徒たちとの関係を何とか修復したい、和解したいと願ってテトスに手紙を持たせたのです。8節にある「あの手紙」のことです。パウロが涙ながらに書いた手紙ですけれども、その内容はコリントの信徒たちにとっては厳しいものであり、悲しませるような内容でもありました。パウロは、感情的になって言い過ぎたかもしれないと後悔したに違いありません。ところが、コリントの信徒たちは、パウロの手紙をしっかりと受け止めてくれたのです。だったら、コリントの信徒たちがパウロを慰めたのかと言えば、そういうことでもない。何よりパウロは、慰めの神がテトスと共にいて働いてくださったことで、あの手紙を益としてくださった。神がわたしたちの間に入り和解のために動かれたことを確信し、それで慰められたのです。
では、コリントの信徒たちの間にどんな心の変化があったのでしょうか。9節で「あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました」とあります。あの手紙は、確かにコリントの信徒たちにとっては、厳しい内容であり、悲しませたようです。ところがパウロは、「あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので」と言って、その悲しみを肯定しているのです。
さらに「神の御心に適った悲しみ」という言葉は、10節と11節でも、二度繰り返されています。では、「神の御心に適った悲しみ」とは、どういう悲しみなのでしょうか。では、「神の御心に適った悲しみ」があるなら、「神の御心に適わない悲しみ」もあるのでしょうか。答えは「ある」です。10節の後半にある「世の悲しみは死をもたらします」というのがそれです。
聖書に登場する「世の悲しみ」の代表として、イスカリオテのユダを挙げることができます。ユダはイエスを銀貨30枚で売り渡しましたが、イエスが捕えられたと知ると、今度は悲しんだのです。では、ユダはどうなったのか。マタイによる福音書27章3節から5節にこうあります。新約の66頁です。
「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、『わたしは罪のない人の地を売り渡し、罪を犯しました』と言った。しかし彼らは、『我々の知ったことでない。お前の問題だ』と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。」
ユダは後悔し悲しみました。でも悲しみの中から、神に祈ることも、叫ぶこともしませんでした。その結果、ユダは絶望して、自らの命を絶つしかなかったのです。「世の悲しみは死をもたらします」と言われる通りです。世の悲しみには、神不在の悲しみです。ですから、神の御心に適う悲しみにはならないのです。
では、「神の御心に適う悲しみ」とは何でしょう。9節に「あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので」とあります。悲しんだだけで終わるのではなく、悲しんで悔い改めたので、それが神の御心に適うことだと言うのです。さらに10節では、「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」とあります。二つの悲しみの違いは、悔い改めるかどうかです。悔い改めることなく、悲しんで後悔にとどまったユダは死に至りました。
ユダを世の悲しみの代表だと言うならば、神のみこころにかなった悲しみの代表として、ペトロを上げることができます。ペトロもまたイエス様を見捨てました。罪の度合いからすれば、イスカリオテのユダと大きな違いがあるとは思えません。しかし、ペトロは自分がしたことを悔いただけではなくて、罪に泣きました。「ペトロは、『鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた」(マタイ26:75)とあります。ペトロの涙は悔い改めの涙でした。ペトロとユダとの違いは、「イエスの言葉を思い出した」か、どうかの違いだと言えます。それは神の御前に立って悲しんだかどうかの違いです。パウロは「神の御心に適った悲しみ」に対して「神の御心に適わない悲しみ」とは言わず、「世の悲しみ」という言葉で対比しています。「世の悲しみ」とは、世の中一般の悲しみということであり、そこでは神の慰め聞くことはできないのです。
ユダは、自分がしてしまったことを後悔し、銀貨30枚を返そうとしました。そして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と罪を告白しました。しかしその罪の告白は、「とんでもないことをしてしまった」という、自分の罪に気づいての後悔にとどまり、神の御前に立つ悔い改めには至らなかったのです。後悔と悔い改めとは、似て非なるものです。悔い改め、メタノイアとは、心の向きを変えるという言葉です。神に背を向けて歩いていた人が、180度向き変えて、神の方を向くのです。これに対して後悔は、とぐろを巻くように自分の内を向いて悔いているだけです。神に向くことがないので、救いはありません。他方、「神の御心に適った悲しみ」の場合は、悔い改めて向きを変え、神の御前に立っての悲しみですから、「取り消されることのない救いに通じる」のです。
11節には、「神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう」とあります。興味深い言葉です。「神の御心に適ったこの悲しみ」は、コリントの信徒たちに対して、「熱心」から「懲らしめ」まで七つのものをもたらしたと言うのです。
この七つのことを一つ一つ考えていく時間はありませんので、この中の一つ「凝らしめ」について思いめぐらしたいと思います。「懲らしめをもたらした」と言うのですから、コリント教会が、罪を犯した人に処罰を行ったということだと考えられます。 それは11節の後半にある「例の事件」の当事者に関わることだと考えられます。この事件の内容のことはわかりませんけれども、パウロはよく知っていました。パウロとしては、この問題を放置すれば、コリント教会が神の栄光を汚すことになってしまうので、きっちりと解決することを求めたのです。世間では、どこかの市長の学歴詐称とか、不倫とか、ハラスメント問題などがマスコミを賑わせていますが、コリント教会でも何かがあったのです。ところが、コリント教会はこの事件に対してしかるべき対応をせず、罪を犯した人が放置されていた。パウロはこの問題を重くとらえ何とかせねばと思い、涙ながらに手紙を書いたのです。
世の中の就業規則には、必ず懲戒という規定があります。職員が業務命令に従わないとか、職場の秩序や規律を乱すような行為が明らかになったときに、その情状により、戒告、減給、昇給停止、出勤停止、懲戒解雇となることがあります。教会においても、日本基督教団の教規には「戒規」が定められています。教規第141条に「戒規は、教団および教会の清潔と秩序を保ち、その徳を建てる目的をもって行うものとする」あり、教師に対する戒規としては、戒告、停職、免職、除名の4種。信徒に対する戒規として、戒告、陪餐停止、除名の3種を定めています。さらに、教規施行細則によって、教師の戒規、信徒の戒規が適用されます。昨年度末の臨時総会で定めた名古屋教会規則にも、教団教規および戒規施行細則の規定に従って、教会規則第41条の長老会で処理すべき事項の(5)に、信徒の戒規に関する事項を定めました。
名古屋教会の長い歴史の中で、戒規を行ったという話を聞いたことはありません。しかし、この人のことで教会が混乱したことが明らかであれば、それは戒規を行うようなケースであったはずです。何か問題が起こったときに、教区に相談することも間違いだとは言えませんが、教会の法の秩序の中で、事柄を処理できることが望ましいのです。戒規とは英語で言えば、disciplineですので、罰則というよりも訓練です。教会の法は神の御心を表すものですので、戒規を謙虚に受け止めることができるならば、そこでの悲しみは神の御心に適う悲しみとなるに違いありません。
信徒の戒規で行われるのは、通常は陪餐停止です。世の中の懲戒には出勤停止がありますが、陪餐停止ですから、礼拝に出ることを禁じるのでなく、一定期間、聖餐を受けることはできないけれども、これを悔い改めの機会とするということです。地区の教会の中にも、陪餐停止の戒規を執行しできたことで、問題を乗り越えた教会があります。その人は母子礼拝室で礼拝に出ていたようですが、教会員はその人のために祈り、その人は神の御前で悔い改めたのです。
日本基督教団の中で、未受洗者への陪餐問題が議論されることがあります。その問題は、聖餐を受けることができない人への差別になるということから起こっていますが、それで教会が定めた規則を破ってよいという話にはなりません。これは教団の中であまり言われてないことですけれども、わたしはもう一つ大きな問題があると考えています。それは、誰でも聖餐を受けていいとすると、陪餐停止という戒規が意味をなさなくなってしまうということです。人間的な同情で悔い改めと訓練の機会を奪えば、神の御心に適った悲しみが、世の悲しみと同じになってしまいます。加えて、教会の意思決定をする教会総会議員資格である現住陪餐会員の線引きもなくなってしまいます。
今日は「神の御心に適った悲しみ」がもたらす「熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめ」の七つのうち「懲らしめ」だけを取り上げましたが、それだけでもいろんな広がりがあることが分かりました。他の六つも、それぞれに意味のあることです。きっとパウロは、コリントの信徒たちのことを思い浮かべることで、これらの言葉が出て来たのだと思います。あの手紙が問題を大きくしてしまうという心配もあったけれども、自分の思いをはるかに超えて、コリントの信徒たちの悔い改めたことを知り、慰めを得ることができました。
悲しみには「神の御心に適った悲しみ」と「世の悲しみ」の二つがあるという話をしましてきた。皆さんもそれぞれに、悲しみの種をお持ちだと思いますが、それを自分で抱え込むのでなく、誰かと分かち合って共に生きるとよい。ダルクはそんな活動だと思いますし、何より教会はそのような集まりであるはずです。神は弱さを抱えるわたしたちを教会に敦得てくださいました。神の前に自分を差し出すときに、御言葉と教会の交わりを通して、気落ちした者を力づけてくださる神が慰めを与えてくださいます。世の悲しみを神の御心に適った悲しみへと引き上げてくださいます。