聖書 コリントの信徒への手紙二7章5~16節①
説教 「マケドニア州に着いたとき」田口博之牧師
今日は「マケドニア州に着いたとき」で始まる長い段落を聖書テキストとしました。あまりしてこなかったことですが、今週と来週は同じ個所をテキストからお話しようと思いました。その理由は内容が豊かだからです。それだけに、一度の説教では焦点が絞り切れず散漫になってしまうので惜しいことになる。だからと言って、途中の何節かで区切って説教するのも難しいと思ったからです。1回目の今日は、説教題のとおり「マケドニア州に着いたとき」のパウロがどんな心持であったかに思いを馳せることにします。ここは、パウロの牧会者としての心がよくあらわれているところだと思います。5節と6節をもう一度読んでみます。
「マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。」
コリントの信徒への手紙二の一つのテーマは、神の慰めです。これは昨年度から継続している「慰めの共同体」という教会標語とも合致しています。パウロは強い人でしたが、弱さも抱えていました。パウロの強さは、この手紙の12章9節から10節で語られているとおり、「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」。「わたしは弱いときにこそ強い」。そのように言うことができるがゆえの強さでした。パウロは今日のテキストにおいても、自分の弱さを包み隠さず語っています。慰めを求めた伝道者でした。その慰めは、人ではなく、神による力強い慰めでした。
一読して分かるように、マケドニア州に着いたとき、パウロの精神状態は尋常ではありませんでした。「わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです」と言うのですから。そんなパウロに慰めが与えられたのは、マケドニアでテトスと会えたからでした。
マケドニアといえば、古くは紀元前4世紀にアレクサンダー大王の時代に映画を誇ったマケドニア王国があり、今はユーゴスラビアから独立した北マケドニアという国があります。パウロの時代のマケドニアは、ここでマケドニア州と言われているように、ローマ帝国の属州でした。今のギリシアの北部あたりです。マケドニア州の中心がローマの植民都市として栄えたフィリピでした。パウロのヨーロッパ最初の伝道地です。
さて、「マケドニア州に着いたとき」とありますが、わたしは、「ようやくマケドニア州に着いたのか」という思いを持っています。と言うのも、礼拝では毎週ではありませんが、コリントの信徒への手紙二を順に読んでいます。今年の最初、1月5日の礼拝での聖書テキストは、この手紙の2章12節以下でした(127p)。そこにはこうあります。
「わたしは、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主によってわたしのために門が開かれていましたが、兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま人々に別れを告げて、マケドニア州に出発しました。」ここでパウロは、マケドニアに向けて出発しているのです。そこから続くのが7章5節なのです。
そこで、マケドニア州に着いたときのパウロが、どれほど不安だったのかが書かれてありましたが、マケドニア州に出発するときから、パウロは不安で仕方がなかったのです。パウロの不安の種は、トロアスでテトスに会えなかったからです。テトスに会えることを期待してマケドニアに向かったのです。パウロをこれほどに心配させるテトスとは何者なのかと考えてしまいますが、テトスとはテモテと同じくパウロが愛した弟子であり、「テトスへの手紙」の受取人です。
テトスと再会できたときに、パウロの受けた慰めと喜びがどれほどであったかは、後で語りますが、マケドニア州に行く前にいたトロアスという地に注目したいと思います。トロアスの名が聖書に最初に出てくるのが、使徒言行録の16章(245p)ですけれども、パウロにとって忘れられない地となりました。第二次伝道旅行に出たパウロは、アジア州で伝道しようとしましたが、聖霊が御言葉を語ることを禁じトロアスに下ると、マケドニア人の幻を見るのです。「マケドニア州に渡ってきて、わたしたちを助けてください」という願いを聞いたパウロは、対岸のマケドニア州に渡りました。つまり、アジアからヨーロッパへ福音が伝播される基地となったのがトロアスなのです。
トロアスには主を信じる人々がたくさんいました。使徒言行録の20章で、マケドニア州から戻ってきたパウロが、トロアスに7日間滞在し、週の初めの日の礼拝での説教が夜中まで続いたという逸話があります。そこには、今日配られた「信徒の友」の間違い探しに出てくるエウティコという青年もいました。パウロの話を聞く人々がぎっしりで座る場所もなく、階上の窓際に座って聞いているうちに睡魔に襲われて3階から落ちてしまったという、笑えるようで笑えない話も出てきます。
第二コリントの2章12節によれば、「わたしは、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主によってわたしのために門が開かれていましたが」とあります。門が開かれていたとは、パウロから福音を聞きたいという人が、トロアスにはたくさんいて歓迎されたということです。パウロとしては、こんなに嬉しいことはなかったはずですが、パウロはテトスに会えなかったという理由で、人々に別れを告げて、マケドニア州に出発したというのです。福音を語りながらも、心ここにあらずでした。
なぜそういうことになったのでしょう。パウロは当初、コリントの人々に訪問する約束をしていたのですが、その予定をキャンセルしました。1章12節の小見出しに「コリント訪問の延期」とあります。すると、そのことを知ったコリントの信徒たちからバッシングを受けたのです。パウロという人は約束を守らない、当てにならないと人だと、コリントで起こっていたパウロ批判は、更に強まる気配でした。でもパウロは、コリントに行くのが嫌だったわけではなかったのです。
パウロはむしろ、行きたい思いをぐっと抑えて、今行けば悲しませることになると思い、訪問を控えたのです。2章1節に「そこでわたしは、そちらに行くことで再びあなたがたを悲しませるようなことはすまい、と決心しました」とあります。7章11節に「例の事件」とあります。コリント教会の中で「例の事件」と呼ばれるような具体的な出来事が起きたのです。それはパウロとしては黙まっておれないことでしたが、直接会って話すと、良いことにはならないと考えて、12節にあるように手紙を送ったのです。
その手紙のことが2章にも出てきました。3節に「あのようなことを書いたのは、そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです」とあり、4節には「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした」とあります。
いきなり会うと互いに構えてしまうけれども、前もって手紙を送って気持ちを伝えた方がいい場合があります。特にパウロという人は、「わたしのことを、『手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない』と言う者たちがいる」と言われているように、話すよりも文章力の方が秀でていたのです。牧師にも、実際の説教よりも文章の方がいい人もいれば、その逆もあります。よく分かる話です、
パウロは牧会的な配慮から、先ずは手紙を通して自分の思いを伝えるほうが良いと判断したのです。それがどんな手紙だったのか、形としては残っていません。聖書に残るコリントの教会への手紙は一と二がありますが、実際には何通もあったのです。パウロは「悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに書いた手紙」をテトスに持たせたのです。
トロアスでテトスと待ち合わせをしたのは、この手紙を読んだコリントの信徒たちの反応を聞こうと思ったからです。おそらく、パウロの思いは、涙ながらに書いた手紙に託した自分の思いは、コリントの信徒たちに届くと考えていたと思います。わたしたちが手紙を書く時も、初めから喧嘩を売るつもりで書くなら別ですが、吟味する筈です。今も大切な内容なら手紙ですが、メールで送る場合でも、それは文字として残りますから、慎重になると思います。
夜型のわたしは、夜の12時過ぎてからメールを打つことがありますが、一晩寝かして、朝もう一度読み返してから送ることが多いです。夜に打つメールの文章というのは、感情が出ている場合が多いので、それは正解だと思っています。説教も夜中のうちにいちおう書き上げていますが、日曜日の朝にもう一度読み返すと、煮詰まった文章だと分かることがよくあります。こんなことなら、初めから早く寝て早く起きて書いた方がいいじゃないかと思うこともありますが、なかなかそうもいきません。
パウロは「悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました」が、7章8節には、「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません」と書かれてあります。すると、パウロが涙ながらに書いた手紙というのは、手紙を受け取ったコリントの信徒たちにとっても、かなり厳しい内容の手紙だったことが想像できます。「わたしは後悔しません」と言っていますが、裏を返せば、あんなにきついことを書かなければよかった。もっと違う言い方があったのではないかと、後悔の気持が湧いてくる内容だったと考えられます。
テトスと会うことができず、様子が聞けないパウロは、だんだんと不安になってきたのでしょう。当時、パウロとコリントの信徒たちとの関係性はよくはありませんでした。あんな手紙を書いたことで、コリントの信徒たちとの間に、さらに大きな亀裂が入るかもしれない。あるいは手紙を届けたテトスが、酷い目に遭っているのではないかと。パウロは、トロアスからマケドニア州への道中、マケドニアに着いてからもずっと不安で苦しくて仕方がなかったのです。
パウロはいつも強かったわけではありませんでした。こうしたことを手紙に正直に書いていることからも分かるように、パウロは弱さを隠して生きる伝道者ではありませんでした。感情の起伏もありました。そんなパウロが慰められたのが、テトスとの再会でした。パウロは、テトスからコリント教会の状況を聞くと、涙の手紙にしたためた自分の思いが届いたことを知り、大きな慰めを得たのです。
神の慰めは、聖書を読み、説教を聞いて与えられるものですと言いたいところですが、それだけではなく人を通して。誰かとの出会い、具体的な出来事を通して慰めが与えられることがあります。
先週わたしは大阪の茨木教会で開かれた日本基督教団改革長老協議会の牧師会に出席しました。主題講演者と3名の牧師の発題は質が高く刺激を受けました。発題者の中に、愛知西地区の教会から九州の教会に転任された牧師がいました。九州に行かれて18年の伝道の戦いと実りを、発題を通して知り心から慰められました。パウロがそうであったように、相手を喜ばせるだけでなく、悲しませることがあったとしても、言うべきことを言って教会を訓練しました。それで田口牧師が急に厳しくなったら、皆さんは戸惑われるかもしれませんが、言うべきことは言わなければならないと思わされる研修となりました。
また帰り道には、大学のテニス部の2年後輩の女性で、夫婦で開拓伝道をしている教会を訪ねました。彼女はルーテルの牧師の子でしたが、学生時代から日曜日は礼拝があるので練習には出ないというピュアな子でした。短大の保育科を出た後で、神戸でキリスト教保育を専門に学び、子ども伝道に召しを受けます。その教会には親子礼拝室はなく、子どもも一緒というか、毎週家族ぐるみで礼拝を捧げており、毎週100人近い礼拝出席があります。「子どもがいない、青年がいない」という嘆きもない教会があることを知り、羨ましいという思いを超えて、慰めを受けました。当たり前のように成長したわけではないのです。
パウロは、テトスの無事な姿に出会えたこと、テトスからコリントの信徒たちの様子を聞いて慰め受けました。あのような手紙を書いてしまったということで、後悔もしていたパウロでしたが、コリントの信徒たちがパウロを慕い、パウロのために嘆き悲しみ、パウロに対して熱い思いを持っていたことをテトスは伝えたのです。
テトスはお使いのように手紙を届けたのではありません。パウロの名代として、パウロに真意が、手紙の文面だけで十分に伝わっていなければ、補足し説明する役割も担っていたでしょうし、事実そのようにしたかもしれません。結果、パウロの思いはコリントの信徒たちに届きました。そのことは13節にあるように、テトスの喜びとなり、パウロの喜びとなりました。
でも、それだけで十分とは言えないのです。その喜びがコリント教会の喜びとならなければならないのです。教会の健やかさは、仲間の喜ぶ姿を見て共に喜び、泣く時には共に泣き、互いに慰められる。そういうところに表れると思います。14節に「わたしはあなたがたのことをテトスに少し誇りましたが、そのことで恥をかかずに済みました」とあります。わたしは初めここを読んで、何を言われているのか分かりませんでしたが、パウロはとても面白いことを言っていることに気が付きました。「あなたがた」とは、手紙の受取人である、コリント教会の信徒たちのことですので、パウロはここでコリントの信徒たちのことをテトスに誇っていたと言うのです。
どういうことか。14節を意訳すると、「わたしはテモテをコリントに遣わしたとき、彼が緊張している様子を見て、コリントの信徒たちは実はとてもいい人なんだ、だから怖がる必要はないと伝えていた。そして、あなたたちは、わたしの思いを理解してくれて、テトスを歓迎してくれた。わたしがあなたがたを誇ったことは、その通りだった。だからわたしは、恥をかかずに済んだのだ」そんな意味となります。
これまでパウロとコリントの信徒たちとの信頼関係は崩れていました。さらにあの手紙によって彼らの心は頑なになってしまったのではと案じていましたが、杞憂に終わりました。和解の主が、パウロとテトス、コリントの信徒たちとの間に入ってくださいました。パウロは、「テトスは、あなたがた一同が従順で、どんなに恐れおののいて歓迎してくれたかを思い起こして、ますますあなたがたに心を寄せています。わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます」と言います。
喜びにあふれるパウロの姿が浮かんでいます。その喜びをもたらしたのは、あなたがたのおかげだと感謝するのです。パウロの喜びに乗せて、テトス、そこにコリントの教会の賛美の歌が聞こえてくるようです。教会の麗しき交わりがここにあります。慰めの共同体の姿をここに見つけることができます。