レビ記26章11~12節、コリントの信徒への手紙二6章14節~7章1節
「生ける神の神殿」 田口博之牧師
先週の礼拝に出席された方は、説教でサンドイッチの話をしたことを覚えておられることと思います。とは言っても、どこのお店のサンドイッチが美味しいという話ではなく、聖書の中のサンドイッチ構造の話をしました。コリントの信徒への手紙二の場合、6章11節から7章4節までを一つのサンドイッチと見なして、サンドイッチの外側のパンの部分にあたる6章11節から13節と、7章2節から4節を前回は読んだのです。今日は両側のパンにはさまれた中の具にあたる6章14節から7章1節までとなりますが、どんな味でしょうか。わたしは野菜サンドよりも玉子サンド派ですが、一読してパウロはけっこう辛子を効かせている。そんな印象を受けました。外側のパンはとても甘いのに、具の部分が辛口で、正直バランスがいいとはいえない気がするのです。
そう思った一番の理由が、14節の「信仰のない人と一緒に不釣り合いな軛に繋がれてはなりません」という言葉です。軛とは家畜をつなぐための横木のことですけれども、私は正直言って戸惑いました。パウロは両側のパンの部分で、自分は心を広く開いたので、あなたがたも狭い心を開いてくださいと言っていたにもかかわらず、ここでは「信仰のない人と一緒に不釣り合いな馘に繋がれてはなりません」と言っています。これは信仰のない人とは付き合うなと言わんばかりに、心を狭くしているように聞こえます。
ある人は、パウロはここで結婚の話をしていると言います。かつて結婚するならクリスチャン同士でなければと、言われた時代がありました。そのように言われてお見合い結婚をした方もいらっしゃると思います。確かに結婚した相手が自分の信仰を尊重してくれなかったことで、苦労する方はいらっしゃるでしょう。日曜日に教会に行くことをよく思われなくて、次第に行きにくくなってしまった人がいます。
では、信仰者同士が結婚すれば、そんな問題は起こらないかといえば、これも簡単なことではありません。同じ教会員同士の夫婦で上手く行かなくなり、牧師が相談を受けた時に、別れたい妻と別れたくない夫との間に挟まれて苦労したあげく、自分の側に立ってくれなかったという一方の意見が広がり、牧師批判が起こってしまったというケースもあります。親子関係も、小学生のうちは親についきたとしても次第に難しくなってきます。信仰の継承どころか、信仰のゆえに親子関係が傷ついてしまうこともあります。
今はキリスト者の絶対数が減り、教会の力も弱まっていきます。数がすべてだとは思いませんが、数が少ないと世に送り出すこともできなくなります。キリスト教を基盤とする学校、施設、様々な団体がありますが、近年は職員のほとんどがノンクリスチャンです。キリスト教学校でも、理事長や学長、校長のクリスチャンコードを外さざるを得ないということが起こっています。経営状態が悪くなってくると、「キリスト者にこだわってきたから、こうなってしまったのではないか」そんな批判が起こることもありえます。信仰のない人を抜きにして何かをするということ自体成り立たなくなています。そのような現実の中で、釣り合わない軛を共にするなという言葉をどう聞いたらよいのでしょうか。
そもそもパウロは、信仰のない人と結婚するなとか、友達になるなとか、そんなことは言っているわけではないのです。軛とは家畜を横につなぐ道具だという話をしました。昔は二頭の牛を軛につないで、畑を耕したりしていました。これは同じ種類の動物であればできることですが、申命記22章10節に「牛とろばとを組にして耕してはならない」という戒めがあります。牛とろばのように、体の大きさも力の強さも動きも違う動物を軛につないだとしても、力の均衡が取れませんから上手く耕せるはずがないのです。
このことについては、これに続く言葉と合わせて考えるのがよいと思います。14節後半から、「正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。神の神殿と偶像にどんな一致がありますか」という問いかけが続いています。正義と不法、光と闇、キリストとベリアル、信仰と不信仰、神の神殿と偶像、これらはすべて対立概念です。
このうちのベリアルという言葉について、初めて聞いたという方がおられるでしょう。これはサタンと同じく悪魔の一つの呼び方であり、キリストに反抗する悪魔という独特な意味をもっていたと言われています。キリストと反キリストが協調できるはずがありません。正義と不法、光と闇は、心を広く開いたところで相入れるものではありませんし、むしろ危険なことと言えるでしょう。
教団のホームページに、統一教会の接触に関する注意喚起が出ていました。全国のキリスト教会から「統一協会のメンバーが自分の教会を訪れ、礼拝や聖書研究祈祷会などの集会に出席させてほしいとお願いしてくるが、どうすればよいか?」という相談が寄せられていると言うのです。実際に名古屋教会にも来たことがありました。幼稚園だったか学童だったかに、牧師と話したい人が来ていると言われ、ガリラヤで話をしました。その人は初めに、自分は世界平和家庭連合の会員、いわゆる統一協会員だということを話されました。意外に思ったのは、正体を隠さなかったことです。なので、乗っ取りではないと思いました。ではどうして、正直に言われたのでしょうか。
今年の3月、東京地裁は統一協会の解散命令を出しましたが、統一協会はこれを不服として東京高裁に即時抗告しました。わたしが話をした人は、とても誠実そうな方でしたが、「話すことはありません」と帰っていただきました。せっかく来られたのだから、心を広く受け入れたらどうかと思われるかもしれませんが、統一協会を抜けたいと思っている人ではないので、わたしたちと相いれるものはありません。受け入れてしまったら、教会が大変なことになってしまうからです。
後で考えると、自分が統一協会であることを隠さなかったのは、国家により信教の自由の侵害されていることに対して、一緒に声を挙げてもらいたいと考えたのかもしれないと思いました。でも、わたしたちと統一協会では、キリストとベリアルの違いがあるのです。パウロが「信仰と不信仰に何の関係がありますか。神の神殿と偶像にどんな一致がありますか」というのも、それほどの違いがあるので、軛を共にしてはいけないということなのです。わたしたちが軛を共にすべきは他の誰でもなくイエス様です。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」そう招いてくださるお方の軛を負い、共に生きてゆくのです。
コリントは、ギリシャ第二の商業都市として経済的には栄えていましたが、それだけに様々なものが入りこみ、倫理的な乱れがありました。パウロは、コリントの信徒たちが、キリスト知る以前のような不品行な生活や、偶像崇拝の生活に逆戻りして行くことに我慢なりませんでした。そのことについて集中して語っているのがコリントの信徒への手紙一の5章以下で、今日のテキストは第一の手紙と同じ頃に書かれたものであり、第二の手紙に入り込んだのではと考える学者もいます。パウロは16節の後半で「わたしたちは生ける神の神殿なのです」と言いました。これは礼拝招詞で読んだ第一の手紙の6章19節「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」という言葉と響き合っています。
パウロはコリントの信徒たちに、あなたがたには聖霊が宿っており、あなたがた自身が神の神殿とさせられていることを自覚してほしいと願っています。わたしたちは、自分の罪深さを知っているがゆえに、「自分は神の神殿と呼ばれるような者ではない」と言うかもしれません。でも、パウロとしては、そんなことを言ってもらっては困る、そのような謙遜は余計なことと考えています。
罪人が裁かれると知れば、自分は罪にとどまりたくないと思うでしょう。一方でわたしたちは、罪の赦しを信じています。だからといって、罪人である自分は赦されているのだからそのままでいいんだと、安全地帯に置いてしまうとすれば、それは間違いです。罪が赦されているからと言って、罪人のままて良いということにはならない筈です、この世に神が生きておられることの証しは、この世において神がわたしたちのうちに住んでくださることで証明されるのです。そうでないと、証にはならないのです。ペンテコステの時期に証をしていただいていますが、証しというのは、自分の人生の中に神が住んでくださっていることの証しです。わたしたち自身が、生ける神の神殿であることによって、神が今も生きておられることが、わたしたちの証しを通して証明されるのです。
このことを裏打ちする言葉が、16設後半から18節までです。ここは旧約のこの箇所の引用というよりも、旧約の複数な箇所に出てくる言葉を、一つの言葉のようにまとめています。聖書の後ろの方に横書きの付録がありますが、「新約聖書における旧約聖書からの引用一覧表」というのが出てきます。その50頁を見ていただくと、コリントの信徒への手紙2があり。6:16にレビ26:12,エゼ37:27とあるおは、6章16節は、レビ記26章12節及びエゼキエル書37章27節の引用である、そういう意味なのです。同様に17節前半はイザヤ書52章11節、17節後半はエゼキエル書20章34節、18節はサムエル下7章8節及び14節からと、たくさんの引用が折り重なっています。
先週の週報では旧約聖書はハガイ書と予告していましたので、前もって読んで来られた方には変更してしまい申し訳なかったのですが、旧約の朗読箇所は、16節を引用したレビ記26章11,12節としました。レビ記をもう一度読んでみますと、「わたしはあなたたちのただ中にわたしの住まいを置き、あなたたちを退けることはない。わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる」とあります。エゼキエル書にも同様の言葉が出てきます。
旧約の律法、預言書においても、神がわたしたちの内に住んでくださること、そのことにより、神がわたしたちを神の民にしてくださることは素晴らしいことと教えています。パウロもこれを引用し、「彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」と言いました。神が住んで一緒に歩んでくださるということが、聖霊がわたしたちの内に住んでくださることで実現したのです。17節以下、「だから、あの者どもの中から出て行き、遠ざかるように」と主は仰せになる。『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。』全能の主はこう仰せられる」と言われます。
神とわたしたちとの関係が、16節の「神がわたしたちの神となり、わたしたちは神の民となる」という関係から更に発展して、「神がわたしたちの父となり、わたしたちは神の子となる」。神の民から神に愛される神の子どもとされるのです。神を「神よ」ではなく「父よ」と呼ぶことができるようになる。神の子とされるということは、何があったとしても、みなしごにされることはないということです。
7章1節は、今日のテキストの結論です。「愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」
「このような約束」とは、神がわたしたちの父となり、わたしたちは神の息子、娘となる。というものです。そのような恵みの約束を受けれた者として、生ける神の神殿としての生き方を貫けるように、あらゆる汚れから自分を清めて、聖なる者として生きるようにとパウロは勧めます。「神を畏れる」とは、神を怖がることでありません。神がどんな方かわからないとすれば、怖がったとしても無理ありませんが、神はご自分が何者であるかを表してくださいます。「わたしはあなたがたを受け入れ、父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる」と約束してくださる愛のお方ですから、恐れる必要はありません。そのお方を礼拝することが神を畏れるということです。
そのためにもわたしたちは、「肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め」るのです。パウロが言う「肉と霊」とは、肉体と精神的のことではなく、肉とは神に反するものであり、霊とは神の霊により生かされていることを言います。そうなると「霊のあらゆる汚れ」という言い方はパウロらしくないようにも思います。ただし、わたしたちは、正義ではなく不法、光ではなく闇、キリストではなくベリアル、信仰でなく不信仰、神の神殿でなく偶像に誘われてしまう心を持っています、その結果、キリストから離れてしまうとすれば、それは霊の汚れです。生ける神の神殿とは言えなくなってしまいます。
では、そうならないようにするために、どうすればいのでしょうか。自分の努力では、汚れから清めることはもちろん、神を畏れることも、まして完全に聖なる者となることはできません。でも、神はわたしたちの身代わりとして、御子イエスを十字架に犠牲として捧げられるほどにわたしたちを愛してくださっています。神はいつも完全で聖なるお方です。このお方を仰ぎ続けるのです。
宝石の鑑定人が本物か偽物かを見分けるため、科学的に真贋を見極める仕方があるにせよ、いつも本物を見続けることだという話を聞いたことがあります。本物を見続けることで、わずかな汚れや濁りを見つけることができます、光の屈折の仕方が違うという違和感からこれは偽物だと気づくことができるでしょう。
かなり以前のことですが、統一教会からの救出活動の働きをされている杉本誠牧師が、統一協会で何千万円かで売られている「聖本」を常置委員会に持って来られ回覧したことがありました。わたしのところに回ってきて、少し眺めていただけでしたが、たちまち気分が悪くなってきました。わたしの様子がおかしいことに気づかれた杉本先生が、「先生のような方はたまにおられる」と言って、本を取り上げてくださったことがありました。「聖本」と言いながら、「聖なるものではない」ものに触れたことでアレルギー的な反応が出てしまったのだと思います。これは自慢話ではなく、免疫力のなさを暴露しているに他なりませんが、そういう感性を持ち続けることも必要かもしれないと思っています。
キリスト教の名によって立てられた学校や施設、団体にキリスト者が少なくなっているという問題を話ましたが。でもそのことによって組織に世俗化が起こるのではなく、キリスト者の方が世俗化していくという問題があるという思があります。キリスト教は時代遅れではないかという声に反応世に倣う必要はありません。教会が世に流されることで、ますます世俗化は進んでいきます。そうならない生き方こそが新しいのです。聖なる神を仰ぎ続けることで、わたしたちは神の聖を映し出すことができます。生きる神の神殿として、神を証して歩んでゆくのです。そのようにすることにより、教会が変わるだけでなく、世が変わっていく。そういう聖なる力をわたしたちは秘めているのです。