コリントの信徒への手紙二6章11~13節、7章2~4節
「心を開いて」 田口 博之 牧師

今日はコリントの信徒への手紙二6章11~13節と7章2~4節を聖書テキストとしました。2か所読んだというよりも、6章11節から7章4節までのテキストの間を飛ばして読んだのだと考えてもらえればよいと思います。来月の礼拝予告となるのですが、9月第3、第4聖日では、7章5節から16節を2回の礼拝に分けて読む予定でいます。今日もそれと同じような読みかたをしてもよかったのですが、間の6章14節から7章1節「生ける神の神殿」という小見出しが付いているところは、次週の礼拝で読むことにします。

マルコによる福音書にはサンドイッチ構造と呼ばれるところがあります。たとえば5章21節以下ですけれども、会堂長ヤイロの娘のいやしの物語の間に、12年間も出血が止まらなかった女性のいやしの物語が挟まれています。また、11章12節以下には、いちじくの木の呪いの話があり、その後で「神殿から商人を追い出す」という宮清めの物語が続きますが、もう一度「いちじくの木」の話に戻るのです。これらと同じように、今日のコリントへの手紙二もサンドイッチのような構造が取られていると考えてよいと思っています。

そうなると、今日の箇所はサンドイッチの外側のパンの部分であり、次週のテキストは内側の具の部分となります。しかし、丸ごと食べるからこそサンドイッチなのであり、パンと具を別に食べればサンドイッチとは呼べなくなります。そもそも別々に食べることが可能なのかという問いも出てきますが、このテキストについては分けて読んだほうが味がごちゃごちゃしない。今日は具がなくて味もそっけもないというのではなく、聖餐式で配られるパンを味わうようにして、御言葉を食したいと思いました。

改めて両側のパンの部分を一気に読んでみたいと思います。コリントの信徒への手紙二6章11節以下と7章2節以下です。

「6:11コリントの人たち、わたしたちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。12わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています。13子供たちに語るようにわたしは言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。

7:2わたしたちに心を開いてください。わたしたちはだれにも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした。3あなたがたを、責めるつもりで、こう言っているのではありません。前にも言ったように、あなたがたはわたしたちの心の中にいて、わたしたちと生死を共にしているのです。4わたしはあなたがたに厚い信頼を寄せており、あなたがたについて大いに誇っています。わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています。」

一読して、「心」に関する勧めが続いていることに気づかされます。「心を広く開きました」、 「広い心で受け入れています」、「心を狭くしています」「心を広くしてください」、「心を開いてください」と。テキストの要旨をいえば、心を広く開いているパウロが、心を狭くしているコリントの信徒たちに対して、心を開くように勧めている。そういう内容です。では、心の広さ、心の狭さとは、どういうことでしょうか。

「心が広い」というのは、一般的には度量が広いとか、寛容という言葉で言い換えることができます。具体的に言えば、違いを認められる人となります。逆に「心が狭い」と言えば、度量が狭いとか、不寛容で、違いを認められない人となります。自己中心的で、他人のことを思いやることができなければ、心の狭い人としか言えなくなります。ですから、「あの人は心が広い」と言えば、誉め言葉になりますが、逆に「あの人の心は狭い」といえば、その人を謗る言葉となります。

但し、ここでパウロは自分の心の広さを誇り、コリントの信徒たちの心の狭さを非難しているわけではありません。パウロは11節で「コリントの人たち、わたしたちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました」と言います。心を開くことができれば、互いの警戒心を解くことができます。そのためにパウロは率直に語りましたが、これは本音をぶつけるということではありません。本音をぶつけ合うことで、理解し合えるという考え方はあるでしょうが、本音をぶつけられることでより傷ついてしまうというケースのほうが多いのです。わたし自身は、本音と建前を分けて考えたことはないし、常に自然体でありたいと思っています。

パウロはここで、狭くなった相手の心を広くし、心を開いてもらえるような語りをしています。最初の「コリントの人たち」という呼びかけは、コリント第一、第二の手紙全体を通じて、ここにしか出てきません。個人であれば、相手をファーストネームで呼ぶような、愛と親しみをこめての呼びかけです。

コリントの教会は、パウロの伝道によって生まれた教会です。なのでパウロにとってコリントの信徒たちは、自分の子どものように愛おしくてたまらない人たちです。ところが、パウロがコリントから離れて、別の伝道者がやってくると、パウロとコリントの信徒たちとの間に溝ができてきました。コリント教会の中にパウロに対する様々な偏見や批判が生まれました。それはパウロからすれば、いわれのない批判、偏見であり、反論することもできました。しかし、パウロは批判に対していたずらに反論することなく、心を広く開いて自分の思いを伝えようとしたのです。

パウロは「わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています」と言いました。パウロが広く心を開いて、彼らのことを受け入れようとしたのに対し、コリントの信徒のたちは、自分で心を狭くしてパウロを受け入れようとしなかったのです。パウロの語る言葉にも耳をふさぎ、聞こうとしませんでした。

わたしたちは、職場、学校、地域の中で、また教会の中でも、些細なことから交わりが難しくなることがあります。そうなったら、自分で自分の心を閉ざして、相手の言葉を聞くことができなくなります。努力をして言葉を交わそうとしたら、そのことで余計に溝が深まるということも起こります。信徒同士で起こっても残念なことですが、パウロとコリントの信徒たちといえば、牧師と信徒の関係なので、教会にとって致命的です。パウロはコリントから離れているとはいえ、コリントの教会を辞任してどこかの教会に赴任したということではありません。使徒としで地中海世界を巡っています。

日本基督教団の職制を厳密に言えば、教会の担任教師を正教師であれば牧師と言い、補教師であれば伝道師と言います。ですので、わたしは「田口牧師」と呼ばれていますが、名古屋教会の牧師であっても、他の教会の牧師ではないのです。ですから、説教に来てくださるキリスト教学校の先生は教会の担任ではないので、牧師ではなく教師と呼んでいます。パウロは使徒として、コリント教会は離れて別の土地に行っても、手紙を通して牧会していました。その意味ではコリントの信徒たちの牧師であり続けたのです。

わたしが牧師として語る言葉に皆さんが心を閉ざしたとすれば、それほど辛いことはありません。そういう状態になるということは、牧師との信頼関係が無くなってしまったということであり、これを回復させることは並大抵のことではありません。パウロもその困難さを承知していました。なので、あなたがたの心は何と鈍いのかと、𠮟責したい思いは山々だったでしょう。でも、牧師ですから、どうしても以前のような関係に戻りたいと願うのです。それで心を狭く閉ざしているコリントの信徒たちに心を広く開いたのです。広い心で受け入れたのです。

そしてパウロは「あなたがたも同じように心を広くしてください」と言っていあす。命令調の言葉ではありません。「子供たちに語るようにわたしは言いますが」とあるように、コリントの信徒たちを、信仰の子どもとして、親が愛する子どもに対してするように、「わたしが心を開いたように、あなたがたもわたしに心を開いて欲しい」と願ったのです。

「子供たちに語るように」とはどういうとでしょう。CSスタッフやCS説教応援する方は、「子供たちに語る」ことの難しさを体験しておられるでしょう。その難しさの第一は、分かりやすく語ることの難しさです。そうでないと聞いてくれないのです。分かりやすく語るというのは、自分が分かっていないと語れません。特に子どもというのはまことに手強く、自分に関心のない話、難しい話が始まると、突然うつむいて、ゆらゆらと動き出します。幼稚園の礼拝で話をするときなど、何年たっても苦労の連続で、幼稚園の先生たちはすごいなあと思わされています。大人であれば、難しい話でも我慢して聞くことができます。退屈すれば自然にウトウトして、退屈な時間を逃れることができる。そんな様子を講壇から見るのも辛いことですが、子どもは大人以上に露骨な反応を見せてくれるので、冷や汗が出てきます。

パウロが、ここで「子供たちに語るようにわたしは言いますが」と言ったのは、心を閉ざす相手に聞いてもらえない手強さを承知しつつ、それでも何とかして聞いてもらいたい、分かってもらいたいという思いで、ねんごろに語ったということです。相手の頑な態度に呆れていたとしても、突き放したような語りではなく、反抗期の子どもから避けるのではなく、そばに寄り添い、目線を合わせて、愛に満ちた語りをしたのです。「あなたがたも同じように心を広くしてください」と。

そして、改めて7章2節で「わたしたちに心を開いてください」と願うのです。ここでも子どもたちへの語りが続いています。「心を開いてください」とは、「心を閉ざさないでください」ということです。コリントの信徒たちとの和解をひたすら願っていたパウロです。5章18節以下で、和解のアンバサダーとして、「神と和解させていただきなさい」と宣べ伝えたパウロでしたが、伝える相手との間がごじれてしまったら、その言葉は届きません。

2節後半で、「わたしたちはだれにも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした」と言っています。パウロがこう弁明しているのは、このような言葉で非難されていたからでしょう。コリントの信徒たちから「パウロという人は、実は使徒ではない。間違ったことを言い広めて人を傷つけている。詐欺まがいのことをしている」と言うように。8章から9章で、貧しい人々や、エルサレム教会への献金の勧めをしていますが、「パウロは信者のお金を絞り取っているんだ」そんな批判をする人もいたでしょう。

様々な批判にさらされたパウロでしたが、「あなたがたを、責めるつもりで、こう言っているのではありません」と言っています。パウロの弁明の目的は、自分への批判に対して批判で返すことではありません。そのようなことをすれば、対立の溝は今よりも広がってしまうからです。パウロの心の中の思いをよく表わしているのが3節後半、「前にも言ったように、あなたがたはわたしたちの心の中にいて、わたしたちと生死を共にしているのです」という言葉です。

パウロにとってコリントの信徒たちは、生死を共にする仲間でした。一蓮托生といえば仏教用語ですが、死ぬときも生きる時も一緒、切り離せない関係になっています。「生死を共にしている」と言えるのは、一つの体に結ばれているからでしょう。「教会はキリストの体」ですから、キリストの一つの命に結びついていのです。そこに教会の交わりの基礎があります。互いに違いはあるのです。この礼拝に集っているわたしたちは、性別、年齢、考え方、皆違います。違いがある者同士、どこで一致を見いだせるのかといえば、わたしたちを一つの体に結び合わせてくださっているキリストしかありません。洗礼というのは、「キリストと共に死に、キリストと共に生きる」ことです。この事実に立って互いに見つめ合うならば、和解することは不可能ではありません。

最後4節で、「わたしはあなたがたに厚い信頼を寄せており、あなたがたについて大いに誇っています。わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています」と言います。不思議な言葉です。コリントの信徒たちは、心を狭くし、心を閉ざしていたのにも関わらず、パウロは「厚い信頼を寄せており」と言うのです。これは、互いにキリストに結ばれ、一つの体であることが土台となった言葉です。組織の中では信頼関係の構築ということがよく口にされますが、たとえ相手に問題があることが明らかでも、わたしはあなたを信頼している。そういうメッセージを出し続けることが大事です。

そんなお人よしのことができるかと思うかもしれませんが、イエス。キリストがわたしたちのためにそのようにしてくださったのです。キリストの十字架の下に互いに立って、共に主を見上げるときに和解の可能性が開けてきます。いやそこにしか可能性はないのです

パウロが受けた多くの批判、中傷を思えば、心を閉じたとしても当然であったにもかかわらず、心を開くことができたのは、キリストの出来事に表される神の恵み深さを知っていたからです。だからこど、パウロは目に見える現実にとらわれるのではなく、神の現実から物事を見つめることができたのです。それゆえ、どんな苦難に遭っても。見える現実に支配されない慰めと喜びがあったのです。

信仰生活はとは、神の力により慰め受ける人生です。神を信頼するゆえに、どのような苦難が押し寄せてきたとしても、慰めと喜びを見出すことができる。だからこそ、主の教会には希望があるのです。