出エジプト記20章1~17節
ルカによる福音書第12章31~34節
説教 「十戒第十戒~隣人の家を欲してはならない」 田口博之牧師
1年間、月の最後の月に十戒を読んできました。今日学ぶ第十戒、出エジプト記20章17節「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」これが十戒の中の最後の戒めとなりますが、今日は十戒の全文を改めて読んでいただきました。聖書朗読を聞きながら、毎回朗読してもよかったかなと思いました。
現代でも改革派の流れを汲む教会では、わたしたちが主の祈りや使徒信条を毎週唱えているように、十戒を唱えている教会もあります。「十戒の神は、救済の神、福音の神であり、恵みへの招きとして十戒は語れている」と言った神学者がいますが、神が自らを啓示し、イスラエルの民を救われたように、戒めに先立って救いがあるとことが重要です。これらの戒めを守れば、あなたを救おうと言っているのではないのです。十戒の前文20章2節「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」この前文が大切です。信仰生活において、折を得て十戒を唱えることによって、神の恵みを心に刻みたいと思います。
さて、十戒の掟は二枚の石の板に分けて刻まれました。この二枚の板は、神との関係についての戒めと、人と人との関係の戒めに分けられます。伝統的には、第一戒から第四戒の安息日の規定までが神関係の戒め、第五戒の「父母を敬え」以降の六つが人間関係の戒めとする分け方で考えられてきました。しかし、十戒が教えということから考えると、五つと五つに分ける方が自然だという話をしました。イスラエルにおいて、父と母は造り主なる神の代理人として考えられるので、12節の「あなたの父母を敬え」も神に対する戒めであり、「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」とは、「父母を敬え」だけでなく、神に対する五つの戒めをすべて受けているという考え方です。
だとすると、第六戒「殺してはならない」以降が、人間関係に関する戒めとなります。この五つの戒めについて、「生命、家庭、自由、名誉、財産」の侵害に対する戒めだと言われることがあります。つまり「殺すな」が生命、「姦淫するな」が家庭、「盗むな」が自由、「偽証するな」が名誉、そして今日の第十の戒め「欲するな」が財産の侵害です。なるほどそうかもしれないと思います。ただし今日の第十戒は、これまでの戒めとは決定的に異なる点があります。それは、「欲してはならない」というのですから、目に見える「行動」としてあらわれた罪だけでなく、心に抱いた「動機」そのものを罪として扱っていると考えられるからです。人間の内面に深くメスを入れた戒めだといえます。
ところが第十戒が「心に抱いたこと」だけを罪としているのかについては、簡単にはそうとはいえません。以前の口語訳聖書では、「欲してはならない」ではなく、「貪ってはならない」と訳されていました。「貪り」も強い欲望を表す言葉には違いありませんが、欲望が行動として現れるのが貪りだと解釈することもできます。「貪り食らう」などそうですね。事実「欲する」あるいは「貪る」と訳された原語「ハーマド」には、家族、土地、財産を「奪い取る」行為も含むのです。だとすると、単に心の中だけで欲しがるということではありません。ですから、第十戒は「心の中での考え」、動機にメスを入れている、そうばかりとは言えないのです。
イエス様は、山上の説教の中で、「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」と言われました。イエスは、「姦淫してはならない」の解釈として、肉体関係を持つことに限定するのでなく、すでに心の中、内面の問題にまで踏み込まれています。そもそも、女性をそういう目で見たならば、それはもう姦淫を犯していることなのだと言うのです。すると、第七戒の「姦淫」の罪と、第十戒の「隣人の妻を欲する」ことの罪の区別がつかなくなってしまいます。「男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」とあります。ここで奴隷、牛、ろばが出てくるのは、当時のイスラエル社会においては貴重な財産だったからです。それらを取るという行為を含むということになれば、第八戒の「盗んではならない」との区別もつきにくくなります。
ではどこに違いがあると言えるのでしょうか。振り返ると、「殺してはならない」、「姦淫してはならない」、「盗んではならない」三つの戒めには、その対象、目的語がありませんでした。「殺してはならない」だけを取れば、誰を殺してはならないとは書かれていないのです。殺すことになった理由も問われていません。それだけに、いろいろな意味を見出すことができます。動物を殺すことはどう考えればいいのか、正当防衛で殺してしまった場合はどうなのか、戦争での殺人も許されないのか、自殺をも禁じているのかなど、解釈の幅が広がります。
ところが、第九戒と第十戒には「隣人」という言葉が付いています。その意味では限定的で、はっきりとした対象がいることがわかります。出エジプト記のような、旧約でも古い時代背景を考えれば、「隣人」とは、いわゆる「お隣さん」のことです。物理的にも精神的にも近い関係にある人のことです。現代では、特にマンション住まいをしていると、壁一つしか隔てていない隣の家の人が何をしている人なのか、話をしたこともない人を、隣人と呼んでよいのだろうかという問いもあります。近所づきあいは煩わしいから近くの隣人なんていらない、そう思っている人も少なくはないでしょう。でも昔は違いました。特に古代のイスラエルでのお隣さんは、間違いなく同じ主なる神を信じています。お隣さんのお隣さんもそうです。部族連合である限りそうであるはずです。これは何もイスラエルに限ったことではないかもしれません。
昨年の秋頃から、ミャンマーのカチン族のコミュニティーに礼拝堂をお貸ししています。ミャンマーは国全体からすれば90%近くが仏教徒です。ところが、ミャンマー北部のカチン州、中でもカチン族の90%以上はキリスト教だということです。色んな教派が入っているわけでもなく、プロテスタントのバプテスト派です。名古屋教会で礼拝されるカチンの方々もそうです。皆さん家族単位で出席されています。礼拝はカチンの言葉でされているようですが、ロビーで遊んでいる子どもたちは、ほとんど日本語で話しています。カチンの人に尋ねたわけではありませんが、「あなたたちにとって隣人とは誰か」と聞けば、それはお隣さんであり、同じ神を信じている人と答えられるのではないかと思います。同じ神の恵みの内に生きている人です。その隣人に関して偽証をしたり、隣人の家の物を奪ったり、隣人の妻を欲するとなると、共同体の秩序そのものが崩れてしまいます。第十戒で問われたのも、そこだと思います。そして隣人から何かを奪うということは、自分に与えられている主の恵みに満足していないことになってしまうのです。
ルカによる福音書12章31節に「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」というイエス様の言葉があります。これは「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようか」と思い悩む人に対しての答えです。神は烏や野原の花をも養ってくださるお方です。わたしたちは、空の鳥やどんな花よりもはるかに価値ある者として、必要なものを与えられています。であるならば、わたしたちが求めるものは隣人の持っているものではなく神の国です。わたしたちの心を神様で満たすことです。
であるにも関わらず、主なる神からいただいている恵みが足りないと不満を持つとどうなるか、不足しているのですから神に求めればよいのですが、そもそも神に不満を持っているのですから、不満を持ちながら求めたとしても、それは真実の求めとはなりません。神に求めないとなると、目に見えるところから求めようとするのがわたしたちです。第九戒が口で隣人を犯す罪だと言うならば、この第十戒は心というよりも、目で隣人を犯す罪だといえないでしょうか。
最初に目に入ってくるのが近くにあるもの、隣人のものです。目で見た物を欲する。何としてでも欲しいと思う。兄弟げんかもそこから生まれます。自分の子が幼かった時のことを思い起こしても、孫を見ていてそうですけれども、お兄ちゃんは持っているのに自分は持っていないことに気づくと弟は我慢できなくなる。そこで取り合いが起こる。兄弟げんかは所有権をめぐる争いだといえる。親は子どもを諭して譲り合ったり我慢したりすることを教えるよりも、同じものを二人に与える。
第十戒は目で隣人を犯す罪だと言いました。イエス様が、「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」と言われたのもこの点です。心で犯す前に目で犯しているのです。
旧約聖書サムエル記下11章(495p)に出てくるバト・シェバ事件はまさにそうでした。ダビデが王宮の屋上を散歩しているとき、一人の女が水浴びしているのを目に留めた。女は大層美しかったので、彼女を召し入れ床を共にします。彼女はダビデの兵士ウリヤの妻バト・シェバでした。ダビデは彼女を妻にしたいがために、ウリヤを激しい戦地に送ります。結果、ウリヤは帰らぬ人となりました。ダビデの罪は、第六の戒めから第九の戒め、すなわち「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな」すべての罪をここで犯しています。その発端にあるのが第十戒「隣人の家、妻」を欲したことです。人は自分が持ってないから欲しがるのではありません。ダビデのように何不自由なく持っていたのに、貧しい者が持っている物を得ようとします。いくら持っていたとしても、欲しいものは際限なくなる。そこに人間の罪があります。
イエス様は、ルカによる福音書12章15節で「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と言われ、これから先何年も生きていくだけの蓄えを得て満足している金持ちを「愚かな者」と呼び、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言われました。また33節以下では「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」と言われました。
わたしたちは生きている限り、様々な欲望を抱きます。年齢を重ねて、物欲、食欲、性欲が衰えたとしても、名誉欲は最後まで残るとも言われます。何がしかのプライドを持たなければ、人は生きていくことができないと言えるかもしれません。でもそれは仕方ないことかもしれません。聖書は無欲な生き方を勧めているのではありません。わたしたちは自分の力で欲望を律することはできないのです。十戒は、欲望に負けて罪を犯してしまう者は、神の裁きに会うと脅しているのではありません。ただ、自分と近いところにいる隣人から奪おうと欲してはならなのだと教えています。そのためにまなざしを変えるのです、周りを見るのではなく神を見上げるのです。空の鳥、野の花を見なさいと言われた神の言葉を思い起こし、神の養いを知ることができるはずです。そうすれば、これが足りないあれが足りないと神に文句を言うのではなく、ましてや隣人のものを奪おうとすることもなく、今与えられているものの恵みで十分であることに気づかせられます。
1年かけて十戒を学んできました。十戒はこれらの言葉を全て守ったら、わたしはあなたを救うという条件として示されたのではありません。説教の初めに言ったことの繰り返しとなりますが、十戒の前文にあるとおり「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」ここに帰るのです。エジプトでこき使われた民が神に救いを求めたから救われたのではありません。神が民の苦しみをつぶさに見て、民の叫ぶ声を聞き、その痛みを知られたからこそ、エジプトから救い出してくださいました。
わたしもそうです。わたしたちが求めるよりも先に、神がわたしたちに目を留められて、「わたしは主、あなたの神」となってくださいました。独り子を世に賜り、わたしたちの父となり、わたしたちを神の子としてくださった。感謝の生活を生きる指針として与えられたもの、それが十戒です。