詩編62編1~3節   ルカによる福音書1章5~25節
「沈黙して、神に向かう」 田口博之牧師

福音書の中で、最初に成立したのはマルコによる福音書だと考えられています。マルコは、「神の子イエス・キリストの福音の初め」として、公生涯と呼ばれるイエス様の宣教活動から書き始めますが、先にイエス様に洗礼を授けた洗礼者ヨハネを登場させています。イエス様の生涯を紹介する上で、洗礼者ヨハネは欠かすことのできない人です。

ルカによる福音書は、その冒頭でテオフィロさまなる人物へ献呈するためにこの福音書を記したことを伝えています。ルカは、イエスの物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を付けていると述べていますが、その代表格がマルコです。ルカはイエス様のことを紹介するのにマルコによる福音書を手元に置きました。テオフィロさまに送るためには、これでは不十分だと考えたと思うのです。イエスはどこから来たのか、イエスの誕生の次第はどうだったのか、そんな問いが当然出てくるだろうとルカは考えて、イエスの歴史を深く調べ始めたのではないか。

そして調べているうちに、洗礼者ヨハネとイエス様が初めて出会ったのはヨルダン川ではなく、二人は親戚関係にあったこと、そしてヨハネの方が半年ほど先に生まれたことが分かってきた。そこでルカは、洗礼者ヨハネの生まれる前、すなわちヨハネの両親のことから書き記そうとしたのではないでしょうか。これはわたしの想像ですけれども、そのような想像は、聖書との自分との距離を近づけます。

ヨハネの両親についてですが、父ザカリアは祭司です。母エリザベトも祭司の家系、しかもアロン家の娘とあります。アロンといえばモーセの兄であり、最初に大祭司となった人です。つまりアロン家の娘と紹介しているということは、由緒ある大祭司の直系の娘ということになります。エリザベトという名は、「わが神はわが誓い」という意味、ザカリアという名は「神に覚えられている人」という意味です。この二人について、ルカは「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」と評しています。ただ神を信じ、神の御前に誠実に生きてきた二人でした。この二人が洗礼者ヨハネの両親でした。

「非のうちどころがなかった」と言われる二人ですから、神の祝福を受けていたのかといえば、そうではなかったのです。7節にあるようにエリサベトは不妊の女で、彼らには子供がありませんでした。もう老人になっていました。聖書はアブラハムとサラ以来、子どもがいないことで悩む夫婦の姿をよく描いています。聖書が語っていることは、私たちの日常から離れてはいないのです。

ザカリアとエリザベト、二人に転機が訪れたのは、ザカリアが神の御前、すなわち神殿で祭司の務めをしていたときのことです。祭司職のしきたりでくじを引いたところ、主の聖所で香をたく務めに当たりました。歴代誌上24章によれば、ダビデは祭司を24の組に分けて、神殿の奉仕を輪番制としたようです。祭司は伝統やしきたりを重んじますので、神殿が再建してからもこのやり方は踏襲されたのでしょう。仮に24の組が半月に一度のサイクルで香をたく奉仕が回って来るとすれば、回ってくるのは1年のうちの半年です。注解者によると一組に700人から1000人ほどの祭司がいたようですので、シフト制を組んだとしても、そんなに多くの人に回ってくるわけではありません。ザカリアはくじ運がよく、重大な務めを託されたのです。神の御前に忠実であったザカリアにとって、晴れの日を迎えたともいえます。

わたしたちの教会でもそうですが、プロテスタント教会では万人祭司という考えをとっています。万人祭司とは、礼拝の奉仕を一部の聖職者に任すだけではなく、全ての信徒が祭司として、様々な奉仕を務めることを常としています。これはイエス・キリストが十字架で死なれたときに聖所の幕が裂けたことにより、旧約の祭司制度も破棄されて、すべての信徒が神の御前で奉仕できるという考え方が基になっています。かといって、教会での奉仕は簡単なことではありません。わたしたちの教会でも、礼拝が始まる5分前に礼拝前の準備祈祷を行っていますが、はじめにその日の礼拝奉仕者のために祈ります。最近、初めて礼拝当番・受付の奉仕をされた方がいると思いますが、まだ教会員の名前もよく分からないし、その方が教会員なのかどうかも分からないので難しかったと思います。礼拝の奏楽も、オルガンが弾ければ誰でもできるということではありません。会衆の賛美を支え、リードするように弾こうとすれば、楽譜どおり弾けばいいというわけにはまいりません。会衆が歌いやすいテンポや間をイメージしながら練習し当日を迎えます。前奏曲なども教会暦や、礼拝の主題から外れないように考えて選曲します。

教会総会で長老に選ばれた人は、礼拝の司式のつとめが託されることになります。長老が持つ週報の式次第の部分に、たくさんの書き込みがあるのを見ることがあり、ここではこのように言って、講壇を降りるなど、書いてあるのだと思います。それでも間違うことがありますし、頭の中は真っ白になってしまうことだってあるでしょう。

先週、中部教区の准允式と按手礼式が行われました。補教師検定試験に合格し、准允を受けた信徒は補教師となり、教会に招聘されれば伝道師と呼ばれます。補教師を2年半経験した後、正教師検定試験に合格し、按手を受ければ正教師となり、教会では牧師と呼ばれます。では補教師と正教師の違いとは何か、それは伝道師と牧師の違いと言ってもよいものですけれども、聖礼典すなわち洗礼式と聖餐式を執行できるかどうかの違いであり、他は何の違いもありません。伝道師でも説教はもちろん、結婚式や、葬儀式の司式ができます。祝祷については教会の考え方がありますが、日本基督教団には、牧師にならないと祝祷してはいけないという規則はありません。按手を受けて正教師にならないと、洗礼式や聖餐式は執行できないと言いましたが、田口牧師はこのようにやっている、式文を読めばいいんだと考えるなら、自分でもできると思うかもしれません。俳優さんがそういう役柄が与えられれば、牧師以上に格好よくできるでしょう。

でも、誰でもできそうなことだからこそ、誰にでも、というわけにはいかないのです。聖礼典は教会の権能のもとに執行すべきものですから、ここを疎かにすると教会は世俗化します。誰でも執行できるとなると、誰でも聖餐を受けることができるのと同じように、教会のいのちが失われていきます。

わたしも聖餐式は今でも緊張します。最後の晩餐でキリストがパンと杯を分けられたように行うのですから。こうした緊張感は、人前でするからではなく、神の御前での聖なるつとめであるからこそ起こるものです。司式や奏楽をされる方も同じではないでしょうか。もしこれを、たくさんの人の前ですることの恐れや緊張感と自覚しているとするならば、それは神の御前での奉仕ではなくなってしまいます。

ザカリアは、神の御前で緊張感をもって香をたいていたでしょう。10節に「香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた」とあります。これはザカリアが間違えないように祈るということではなく、旧約時代から祈りは香りと共に献げるという慣習があったからです。自分たちには汚れもある、だからよい香りと一緒でないと、神は受け入れてくれないという考え方です。今でもカトリック教会やハリストス正教会、一部のプロテスタント教会でも香をたく教会があります。では、わたしたちは香をたかなくてもよいのか、と思うかもしれませんが、そうする必要はありません。わたしたちの祈りは、イエス・キリストの御名によってささげるからです。わたしたちのかたわらにいる聖霊が、また神の右にいますイエス様が執り成してくださっているから、つたない祈りでも届けられるのです。

このとき、ザカリアが奉仕している間に、主の天使が現れ、香壇の右に立ちました。ザカリアは恐怖の念におそれますが、天使はザカリアに「恐れることはない」と言い、喜びを伝えました。待望の子どもが与えられるというのです。14節には「その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。」とあります。19節では「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである」と、喜びが強調されています。喜ばしい知らせとは、福音のことです。

ザカリアは、天使ガブリエルから喜びの知らせを聞いたにも関わらず、「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか」と答えました。福音を拒否した答えです。念願の子どもが与えられるばかりではなく、その子は救い主の道備えをするのだと告げられているのですから、これ以上の光栄はないはずなのに、ザカリアは喜びの知らせを受け入れることができませんでした。アブラハムや妻のサラが、約束の子誕生の知らせに対して、「そんなことがあろうか」とあざ笑ってしまったのと同じように、自分たちに子どもが与えられるはずがないと決めつけ、神の約束を信じることができなかったのです。

今日のテキストには、「神の御前で」という言葉が繰り返されています。6節「二人とも神の前に正しい人で」この二人は、ザカリアとエリザベトのことです。8節「神の御前で祭司の務めをしていたとき」これはザカリアのこと、15節「彼は主の御前に偉大な人になり」の彼とは洗礼者ヨハネ、19節「神の御前に立つ者」とは、ガブリエルのことです。御前に立つ神は、その人に祝福の御顔を向けています。でも、その神に目をそむけていたとすれば、その人は罪人です。罪を犯したアダムとエバが、神の顔を避けて園の木の間に隠れたように。アベルを殺したカインが顔を伏せてしまったように。

ザカリアは神の御前で奉仕しながらも、神の真実を疑いました。だとすれば、顔の向きを変えなければなりません。神の御前に方向転換し御顔を仰ぐ。それが悔い改めです。神はザカリアに悔い改めの期間を与えられました。20節に、「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」とあります。わたしたちは、ザカリアが口を利けなくなったことを、神の裁きとして捉えることが多いと思いますが、実は神はザカリアを沈黙させる、不信仰の言葉を退けさせるという仕方で、悔い改めの時を備えられたのだと、わたしはとらえています。

詩編62編の詩人は、「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。」と言いました。

しゃべりすぎると、神の言葉を聞くことができなくなるのです。話し上手は、聞き上手と言われます。カウンセリングでも傾聴が求められます。祈る時も同じです。わたしたちは、自分の願っていることを、神に祈り求めます。神への感謝も、神への執り成しも、一生懸命言葉を紡ぎ出そうとします。でも、それがほんとうの祈りなのでしょうか。祈りというのは、自分の思いを語ることではなく、主の思いを聴くことから始まるではないでしょうか。少年サムエルが、「主よ、お話しください。僕は聞いております」と言ったように。

マックス・ピカートという人が、『沈黙の世界』という本を書いています。この人は、医師ですけれども、人間の本性について深く考えた人です。彼は冒頭「沈黙は決して消極的なものではない。沈黙とは単に『語らざること』ではない。沈黙は一つの積極的なもの、一つの充実した世界として独立自存しているものなのである」と、沈黙の偉大さを語ります。

わたしたちは、いい祈りをしようと言葉を整えようとするあまり、そのことに心が塞がれてしまい、主の思いを聴けなくなっているということはないでしょうか。英語のアラームと言えば、大きな音を出す警報装置や目覚まし時計のことですが、ヘブライ語の「アラーム」という言葉は黙するという意味なのです。神の前に沈黙することの中で御心が示され、言葉が生まれます。

詩人は、「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう」と言いました。沈黙することと、魂が神に向かうこととが結びついています。沈黙の中でこそ、わたしたちの魂は神様に向かうことができるのです。魂が神の方へと向き変わることは、静けさの中でこそ起こります。わたしたちが語る言葉は、他人の言葉、世の言葉、時代の言葉に影響を受けています。知識の言葉も、テレビやネットで情報収集した借り物の言葉になっています。いちど、それらの言葉を捨てて、神の御前に立って、ひたすた神の思いを聞くことが必要なのではないでしょうか。

さきほど紹介したマックス・ピカートは、「沈黙は言葉なくしても存在し得る。しかし、沈黙なくして言葉は存在し得ない。もしも言葉に沈黙の背景がなければ、言葉は深さを失ってしまうであろう」と言います。

ザカリアの魂は、沈黙の中で神に向かいました。でも沈黙のままでは終わりません。エリザベトが出産して八日目のことです。ルカによる福音書1章63節以下にこうあります。「父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。」自分の言葉を捨てて神の思いに集中したことで、神への賛美がほとばしったのです。

片岡伸光という学生伝道のスペシャリストがいました。1948年生まれ、2002年に53歳の若さでがんにより天に召されたのですが、「主の前に静まる」という題の本が、名著とされています。その本の中に「思いを去らせる」という題で書いた一文があります。

「主なる神の前に静まる時をとっても、本当の意味で静かになれないことがあります。それは、頭の中で、さまざまな考えが渦巻いたり、あるひとつの気になることが継続的に支配してしまうからです。ある人を赦せない思いから自由になれなかったり、自らのしてしまったことが気にかかって仕方ないということもあります。この次のスケジュールは、あれとあれをこうしてと考え始めると、体は休止していても、思いが一向に静かにならないのです。・・・(中略)・・・
そんなとき、「わが思いよ去れ」とか、「静まれ」と、自分に対して厳しい態度で臨むと、逆効果になることが多いようです。私が教えられていることは、静まりにくい自分に優しく接することです。いろいろな思いから離れられない今の自分の現実を認めてやることです。・・・(中略)・・・
自分を支配する思いを去らせると、神の前に沈黙の状態になります。神が語ってくださりやすくなり、また語られることに傾聴できます。この沈黙があれば、開かれたみことばが、よりストレートに、私の中で語られることになるのです。」

片岡氏はそのように語ります。わたしたちは、アドベントからクリスマスに向かっています。この時期はいろんなところでクリスマス会も行われますので、どうしても賑やかになります。それは仕方のないことですけれども、そのような時だからこそ、うちにある思いを静め、神の御前に出たいと思うのです。沈黙して、あなたの御心を聴くことができますように。しばらく沈黙の祈りの時を持ちましょう。